角岡伸彦 五十の手習い

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上原善広『路地の子』を読む。その後に・・・最終回

   部落解放同盟は抗議文で、著者と版元に対して次のように批判している。

<ノンフィクション作品は、最低限、史実や記録をもとに書かれたものでなければなりません。しかし、『路地の子』では、事実誤認や、事実をねじ曲げるあまりに、結果的に差別を助長する内容となっています>

 これに対し上原は回答の中で<本作に通底するテーマと描写が、根本的に差別を助長するとは考えていません。単純ミスと認識の違い、それぞれの立場の違いと考えています>と反論している。

 上原の誤記は、果たして本人が弁解するように<単純ミス>なのだろうか? 更池での解放同盟支部の設立年を、同和対策事業が始まった69年前後としたのは、同和利権と結びつけるためではなかったのか?

 実名や仮名の登場人物に対する一方的な記述ーーそのほとんどがカネに汚いーーも、<認識の違い>で片付けることができるのか。取材と記述の未熟さを誤魔化しているだけではないのか。

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 回答の中で上原は、自分の存在意義を次のように記している。

<被差別部落の中にも様々な考えや視点があるということを本作のみならず、これまでの著作で一般読者に提示してきました。そうした多面的な表現が、被差別部落への真の理解につながると考えています>

<多面的な被差別部落を描くことが現時点では必要であり、それが結果的に一般的な理解を深め、さらに「部落解放を念頭においた自由な表現」を生み、ひいては「真の部落解放」に至ると私は考えております>

 書いてあることは立派だ。しかし、同和利権を得るために共産党や右翼・極道と組み、東日本大震災の発生後は被災地の枝肉を安く買い叩き、暴利を貪る食肉業者のサクセスストーリーの、どこに「部落解放を念頭においた自由な表現」や「真の部落解放」があるというのだろうか?

 カネに執着する部落民がいない、と言いたいわけではない。それを描くなら、きちんと書いてくれよという話である。取材に裏打ちされた実像であるのならともかく、複数の人物を混ぜ合わせたり、年代を変えたりした虚像なのだから悪質だ。

 同和利権という、さんざん書かれてきたテーマを<多面的な被差別部落>と豪語するのは、上原くらいだろう。多面的どころか、きわめて一面的である。

<幸いなことに多くの有識者の方々から賛同をいただきました。それは同和利権や解放同盟に触れたからではなく、特定の思想のない被差別部落出身の一食肉業者の父と子の生きざまと、そこからの新たな視点を書いたことが受け入れられ、高く評価していただいたと認識しています>

 上原は回答で、そう自画自賛している。前にも述べたように、書評子は記述が事実であることを前提に読んでいる。よもや登場人物を、3人ほどを1人に集約したとは想像もしていないだろう。

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 版元の新潮社は、回答の中で『路地の子』について、次のように擁護している。

<著者の上原氏も回答書で記している通り「被差別部落に生まれた父と子の物語」がテーマであり、特定の個人、団体、思想、運動等を誹謗中傷するものではなく、ましてや差別を助長する意図や目的で書かれたものでもありません。時代ごとに起こる「負」の側面を描くことはあっても、一方的な批判や特定の個人を攻撃する内容でないことは、本書を精読して頂ければご理解頂けると考えております>

 加害者側は、往々にして自らの行為が意味することについては無自覚である。実名、仮名で登場する人物や遺族が、名誉毀損の訴訟を起こしても、同じ主張をするのだろうか。

 実在しない共産党の味野友映については<個人が特定されることを避けるため、また関係者への配慮のため、複数の人物をひとりに置き換えて描くことは、作家の表現活動では許容範囲><読み易さを優先させる意味でも、このような表現方法を用いることはございます>と答えている。

 登場人物が特定されると、何かまずいことでもあるのだろうか。また、人物の混合は、書かれた本人、遺族にとって<許容範囲>なのか。事実よりも<読み易さ>が優先されるのか?

 私は『路地の子』を精読しているが、新潮社側の主張には1ミリも首肯できない。

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 今月初旬、部落解放同盟と、すでに回答を寄せていた著者、版元の3者が話し合いを持った。著者も出版社も、文書で答えた以上のことは語らず、けっきょく「物別れに終った」(同盟幹部)。

 上原は『路地の子』を部落問題解決のために書いた、解放同盟に変わってほしかった、自分は解放同盟の味方だ、などと語ったらしい。であるならば、もっと書き方があるだろう。居丈高で攻撃的な文章とは打って変わった、へりくだった弁明ではある。

 解放同盟の幹部が、本の中に頻繁に出てくる”同和利権”の定義を上原に訊ねると、彼は言い淀み、まともに答えられなかったという。深く考えずに書いていたわけである。

 話し合いの席上、上原は『路地の子』の出版は、自分に全責任があることを力説し、出版社の幹部に発言する機会をほとんど与えなかったという。

 しかし、そんな理屈が通るわけがない。解放同盟は、出版社の見解をあらためて文書にすることを求めて会談は終わった。

「この調子だと話し合いは、当分は続くと思いますよ」

 同盟の幹部は、私にそう語った。

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『路地の子』に関するこの連載も、ずいぶん長くなってしまった。もうそろそろ終わりにしたい。

 なぜ、かくも長きにわたって書いてきたのか。部落問題を取材してきた者にとって、疑問点が多過ぎるからである。これほどひどい部落問題関連本を、私は他に知らない。

<『路地の子』では、人間の本音を突き詰めて描くことに専念した。人間の本音というのは、つまり「金」のことである>

 上原はネットの『現代ビジネス』(講談社)でそう書いている(2017年6月23日)。それをテーマにするのはけっこうだが、内容に深みがなさ過ぎる。

 部落解放運動は、住民の部落差別への怒りから出発したはずである。上原はそこをすっ飛ばしてしまっている。同和利権と勢力拡大のために解放同盟の支部が結成され、住民は「儲かるみたいやからいっちょ噛もや」という理由で組織に加盟する。解放同盟と共産党の共通点は、同和利権の獲得だったーーそんな単純な話ではあるまい。

 部落問題解決のために書いたといくら著者が主張しても、そもそも部落問題や解放運動が史実をもとに描かれていないのだから話にならない。

 一般読者にも書評子にも、インパクトが強かったのが父親の暴力性というのも、考えものである。龍造が、間男した相手に暴力を振るう理由を上原は<育ての親に捨てられた心の傷は、龍造を悪鬼のように怒り狂わせることになる>と説明している。

 龍造は実母が早世したため、叔母に育てられた。ところが彼女が結婚し、何も言わないまま家を出て行たっため、精神が不安定になった。叔母は夫の死後、龍造が12歳のころに上原家に戻っている。龍造が凶暴になる理由が、もうひとつ釈然としない。

 ともあれ龍造の暴力や、右翼や左翼とも付き合う<生きざま>が、多くの書評では注目され、”壮絶な人生”として取り上げられた。兄の性犯罪は、そんな父親に振り向いてもらうためには仕方がなかった、と記述した問題点は指摘した。しかしそれを問題にした書評は、ひとつもなかった。

『路地の子』は、龍造の暴力や家族の”負”のエピソードが、詳細に描かれている。上原が、中上健次や梁石日を意識しているからだろう。だが、1973年生まれの上原が、彼らの世界に憧れるのはまだしも、模倣するのは危険である。暴力や差別は、思慮して書かないと肯定してしまいかねない危険性をはらんでいる。上原はそのことに、あまりにも無自覚である。

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 他人の著作や論考をあれこれとあげつらうのは、気分がいいものではない。はっきり言って憂鬱である。何もそこまで・・・と思わないでもない。

 ただ、『路地の子』と上原に関しては、出自やテーマから言えば、批判できるのは私ぐらいしかいないだろうと考えた。問題点を指摘しておかないと、上原は同じような手法で偽ノンフィクションを書き、出版社はそれを売り出すかもしれない。

 批判してきた私の文章にも、誤読や間違いはあるだろう。上原のブログ、ツイッターの再開と反論を待ちたい。(2018・2・27)  

  1. kadookanobuhikoの投稿です