3 Lines Summary
- ・スケート以外で楽しさを感じる瞬間は?
- ・後輩・宇野昌磨選手の存在は?
- ・夢を継続させるための原動力は?
平昌オリンピックで66年ぶりの2連覇を果たした羽生結弦選手が、日本記者クラブで会見を行った。
できる時とできない時がある
――66年ぶりの2連覇を達成して、正直な感想を。
一言で言うと「幸せ」。フィギュアスケートの歴史において66年ぶり。今から66年前を振り返ると全く違うスポーツだったと思う。
写真で見ることしかできないけど、古い映像もなかなか入手することができないので、あまり見れることはないですが、スケートを18年間やっていて、自分自身も見ていて違う競技になっていると思う。
この4年間はやっていながら、違う競技をしている気分になるほど進化がめまぐるしい。そういった意味では、すごく重いものになった。
冬季オリンピックで2連覇は珍しいことと思う。自分自身が持っている金メダルへの価値も大きい。世間の方が思う価値もすごく大きなもの。自分の首から下げているものは重く感じる。
――いろいろなことを考えて分析して、それを感覚とマッチさせることが一番の強みだと。そういう境地に達したのはいつごろ?
もともとすごく考えることが好きで、しゃべることが好きな方が強い。考えて何か疑問に思ったことは追及して教えてもらって、さらにしゃべりながら自分が動いていく。
考えていることを口に出す、表現することは心技体に近いもの。それがスケートで生かされているのはごく自然と性格上なっていった。
――ソチ五輪の金メダル、自己分析の力は備わっていた?
備わっていたというか、やっていた方が近い。疑問に思ったことは突き詰めていました。
集中・プレッシャーに対して考える時間、が僕の場合は多くなかった。プレッシャーは好きだったし、メンタルが強いわけではないが、追い込まれた舞台が好きなスケートをやってきて多かった。
――NHK杯でけがをした。回復の間、論文を読んだり過去の映像を見たり、頭の中で次の勝利へのステップを組み立てていた、その歩みは?
今できる全力、今の僕自身を貫かなくてはならない、ということが一番でした。
人生まだ23年の自分がいうのもですが、できる時とできない時がある。
できる時に、できることを精いっぱいやる、できない時はそれなりのできることをやる、それが大事だと感じた3ヶ月間。
――仙台がスケーター・羽生結弦を育てた。被災地のみなさんへの報告はいつ頃になりそう?
明確にいつとは言い切れないですが、間違いなく仙台で、たくさん応援してくださったことは見ていますし、メッセージは届いていますし、被災地の方々の勇気や笑顔になるきっかけがあったらと思っていました。
幸いにも情報やメディアの技術が上がっていて、これだけ注目されながら演技ができているので、みなさんにたくさんの思いが届いているのかな。その力を頂いて、また復興の力にもして頂けたらと思っています。
――選手の方々は、周りへの感謝や思いやりを口にされています。一方で、勝てばいい、競技に集中することが大切だという流れもある。今回は、日本人のすばらしさも世界に発信できた。トップアスリートが世界を極めるためには、どれくらい大切ですか?
もともと日本人が持っていたスポーツ・トレーニングへの概念は、向上論とか叩かれることがあるかもしれませんが、メンタルを鍛えることではすぐれていたと思っています。
日本は、負けん気を武器にした僕のような選手がいれば、勝ち負けは関係ない、自分が納得できるものを、という選手もいる。マイケル・ジョーダン選手が、「誰に対してもリスペクトをする。そのリスペクトの心が自分を強くする」そう言っていたのが印象に残っています。
勝ち負けを重視する選手もいると思いますが、それはその人の性格。心、集中力の問題は性格上追い込まれると強いということで、楽しい気持ちとか、リスペクトをしながら感謝をしながら、ニコニコしながら演技をするのは向いていないと思っている。
そういった意味では変かもしれませんが、絶対に勝ってやると思った時は力が発揮できると思っている。
選手の性格次第なので、これから指導者になって、いろんなことを伝える立場になったら、経験として伝えられることの一つではないかと思っています。
日本人の感謝の気持ちは、日本人が持たなければならないもの。僕自身も大切にしている。競技以外でも競技が終わった後、例えば、柔道はフィールドに対してあいさつをしています。
コーチや家族、フィギュアは観客が応援してくれることが実感できるスポーツなので、そういった方々にも届けないとということは、日本人の誇りとして持っている。
ゲームもアニメも、マンガも大好き
――羽生選手が楽しいという気持ちで演技をするタイプではないと。スケート以外で楽しさを感じる瞬間は?
僕にとって楽しいは、もちろんゲームも大好きですし、アニメもマンガも。マンガを読むことも多い。リラックスタイムは楽しい。趣味として有名なのは「イヤホン収集や音楽鑑賞」。
それはたくさんの方に支えてもらって、普通の人だったら聞けない細部の細かい音まで出るヘッドホンをたくさんいただいているので、そういうときは楽しい。
その楽しい気持ちが競技に繋がっている。その楽しさがあるから、頑張れている。
提供してくださる方、ありがとうございます。この場を借りて御礼申し上げます。
――ネイサン・チェン選手が、SPで失敗しないで羽生選手と同じくらいか少し上くらいの点数が出ていたら、フリーの構成は違った?
ネイサン・チェン選手がノーミスするとかしないとか関係なく、自分ができることをやろうと思っていました。その時になってみないとわからないですし、ネイサン選手がもし、僕より上になっていた場合は、自分のリミットをさらに超えたものをやれた、かもしれません。
フィギュアの未来。5回転が主流になることは、まずこの50年間に置いてはないと予測します。それが主流になったらジャンプ選手権、それこそ平野歩夢選手とお話をさせていただいて、参考にさせて頂いた部分もありますが、ハーフパイプみたいになってしまうと思います。
もし、羽生結弦が4回転半、もしくは5回転を試合に入れると決めた場合は、それは確実に表現の一部にします。それぞれの選手がそう思えるかわかりませんが、僕のスタイルはそれ。僕がやっている理由はそういった演技にほれ込んだから。そこにほれ込んだから、この種目で金メダルを取りたいと思った。
難易度と芸術のバランスはない。芸術は絶対的な技術力に基づいたもの、だと思っています。
ーー以前、学んだことをスケートに生かせることが自分の強みだと。誰かに学んでみたいことはありますか?
今回、けがをした後に、自分の憧れであるプルシェンコさんをはじめ、みんなが「信じているよ」とメッセージをくれました。そこに感謝したい。
もちろん、影響を受けた選手はたくさんいますし、壮大な話になりますが、生きていく中で一つとして影響を受けなかったものはない。
話している時に考えていることもそう聞いたから、そういった思考になっているのかもしれません。
幸いにも、10歳になるギリギリからメディアの方にインタビューをしてもらって、自分の思考を整理したり、インタビューをして覚える言葉もあった、そうやって自分を作ってきた。そうやって自分は作られてきた。
いま思うのは、メディアの方々が何十、何百万、億かもしれない。一人の人間からいろいろな情報が伝わっていく、自分がいろいろな方から影響を受けているからこそ、すごく光栄。僕がきっかけで人生が良い方向に向いたらとても幸せだと思っています。
治療に専念する気持ちは変わっていません
――宇野昌磨選手。羽生選手を追いかけて、フリーのジャンプは追い越そうとしてチャレンジして失敗。そういう後輩がすぐ後ろにいるのは?
僕はあの時点で勝利は確信していたので、彼がループを本当にきれいに決めていたとしても点差的に負けることはなかったと思います。
後輩が強い、自分を追い抜かそうと本音では思っていないかもしれないですが、近づきたいと思ってくれる存在、それが自分の国の代表としているのは心強い。
まだ引退する気持ちもないですけど、「引退します」と簡単に言えば、彼に任せられる頼もしさは感じています。
もうちょっと人前に出る時に寝るとか、そういうことは学ばなきゃいけないのかな。もうちょっと面倒を見なければいけないのかな。
――これから先のこと。中国大使館の方からかわいいパンダのプレゼントがありました。とてもフレンドリーなメッセージがありましたが、次の五輪に向けては?
次の五輪に向けては未定。もちろん自分がやりたいことは、4回転アクセルとか。
5回転の練習や4回転半がとべたらと思うかもしれない。いま一生懸命やることをやって、延長線上に北京五輪があるなら、もし出るなら、絶対に勝ちたい。
――今回の五輪がもっと先だったら療養していると思います。これから長い将来を考えたら、足を治したららいいのかと思うのですが。
間違いなくおっしゃられたように、これが五輪でなければ痛み止めを飲んでピークを作ることはなかった。治すこと大事だと思う。
これからのスケート人生何が起きるかわからないので、やっぱり休んでいたと思います。
フィギュアスケーターは、五輪で金メダルを取った後、若い選手であっても1年間休養したり、五輪以外いらないから3年間しっかり休んで、3年後にシーズンだけ合わせて体をつくったりする選手もいるスポーツ。
その中でソチ五輪の後にすぐに試合に出て、金メダルをとってすぐに試合を始めました。
今回は、足の状態があるので治療に専念する気持ちは変わっていません。
自分のこれからのスケートがわかっていない状態なので、詳しくは言い切れないのですが、間違いなく言えることは、今の金メダルをとってきた気持ちや自分のスケートなど、それを待ち望んでくれる方がいるのはうれしいこと。
アイスショーでもイベントでも話す機会があるのも、たくさんの方が待ってくれて、自分の声やスケートにお金を払って見に来てくれる、そういう方々のために自分のスケートを使えたら、自分の体力とか気持ちとか気力を使えたらと思っています。
自分の持っている夢は「昔の自分」
――世界中の名だたる選手が人間性を含めて尊敬している。挑戦する力、自分を律する力の原動力は?
今、みなさんと話しているこういう時間はスイッチが入りきっていなくて、ゆっくり話していて、ふわふわしているなと思われるかもしれません。
自分の中で、スケートが始まった時、スケート靴を履いた瞬間、氷に乗った瞬間とか、そういうときは違う人間になっているくらい切り替えています。自分の精神力とか、絶対に勝つ、強くなるという原動力だと思っています。
その切り替えがうまくいかない時がありますが、その切り替えを絶対にやると決めています。五輪は不安要素があって、やれないこともありましたが、その中でやれたのは切り替えやメリハリがあったから。
――小さい頃からの夢だったと言っていましたが、小さい頃は失敗してへこたれたり、他の誘惑があったりで夢から逸れることもあるかと思います。夢を継続させる原動力は?
自分の持っている夢は形がしっかりしていて、昔の自分なんです。
小さい頃にこれやりたい、これで強くなりたい、そう憧れていて、それを信じ切っていた自分が今も心の中にいる。
自分の心の中で「絶対にやってやる!」という昔の自分が、僕の夢の原動力。
誘惑もたくさんあるし、すごく野球をやりたかったんですけど、先生も厳しくて。スケートをやっている時間も短いくらいずっと立っていました。それでもやめなかったのは、特別だという気持ちがあったから。
フィギュアスケートは陸上ではできないし、金銭面で大変だということは、気づきながらやっていました。
続けられることが特別だったし、何より先生方も特別視してくれて、面倒を見てくれて、育ててくれたので、そういうことに気付けたからここまで来れた。
夢は叶う人が本当に限られていて、自分の夢も叶ったのはこの金メダル…だけと言ったらおかしいけれど。
この金メダルが叶った夢で、他の夢はたくさん捨ててきた。
夢はいっぱいあっていいと思う。高い目標ではなくても低い目標でも夢だといえる。
いろいろな子供たちが夢を持ちながらいろいろとやっていって、少しでもその夢が叶う瞬間のきっかけとなる言葉を出せたらな、と今改めて思いました。
――野球をやりたいと両親を困らせたというエピソードがありますが。
全然、両親は困っていなかった。覚悟がないんだったらやるなという感じはありました。
あまりにも特殊なスポーツで、何よりも先生たちが力をかけて、面倒を見てくれて。小さいながら今ほどでもないかもしれませんが、9歳くらいの時に本当に辞めたいと思ったことがありました。
その時にふと思い出したのが、9歳だからスケートを初めて5年経っていないかくらいですが、こんなところでこれを終わらせていいのかと。僕はもうスケートに人生を掛けていると思ったんです。
辞めたらこれまで生きていた意味がないかもしれない、と思った。そういう覚悟はずっとあった。
――フィギュアスケート以外では夢を見たことがない?
いっぱいあります。歌を歌いたいとか、上手くなりたいなとか。
いろいろなことを想像して、すごく思いますが、すべてスケート関連。スケートに一番かけてきたものが多い。
――ソチの後に仙台市内でパレード。今回も検討していますが、パレードへの期待は?
ぜひ、仙台でお金を落としてください(笑)。パレードをするには費用がかかって、どれだけ特別な支援があってのことかわかっています。
ぜひ、仙台に通っていただいて、来ていただいて杜の都の良さ、何かを買ったり見て頂いたり、仙台・宮城の復興に携われたらいいなと思っています。
――金メダルととった時にけがをしていなかったらとれなかったと、それがどういうことなのか。
実は、66年前に連覇をされたディック・バトンさんが僕にメッセージを送ってくれて、そのメッセージが、リラックスだったり楽しめというものだった。
彼自身、練習をし過ぎていい演技ができなかったと語っています。
もしかしたらですが、けがをしないで万全な状態だったら、そうなっていたかもしれない。絶対に勝つとずっと思っていたからこそ、調子が悪くなって最終的にボロボロになっていたかもしれない。
そういう気持ちを込めて、けがをしなかったらなかったかもしれないと言いました。
――モチベーションの変化。オリンピックの後、4回転アクセルが唯一のモチベーションと発言がありました。自分の夢を突き詰めて、目指している自分になるフェーズは今回の金メダルで達成されて、別の部分のフェーズに移っていると感じます。
間違いなく、今回思ったことは自分が幸せになった時に、たくさん方の幸せになり、その幸せが還元されて自分のもとに戻ってきて、自分が笑うことでみんなが笑ってくれる。そんな平和な世界…ではないですが、そう感じました。
いつから感じたのかは明確ではないからわかりません。五輪の前から感じていたのは確かだと思います。
けがをして一緒に苦しんでくれたファンの方や家族、サポートメンバーがいたからと思っています。4回転アクセルなど言っていますが、フェーズと言うよりも徐々に、さなぎが浮かしてゆっくり羽を伸ばしている段階。それが今の自分かな。
――まだ羽を伸ばし切っていない?
そうですね。それがすごくゆっくり。時には雨に打たれて広げられなかったりとか、そういうのが僕の人生かな。
――世界で一番という立場ですが、そうなると孤独みたいなものもついてくるのでは?孤独感を感じることは?どのように向き合っているか?
ある、と言った方が面白いんですかね(笑)?
前は孤独だな、誰もわからないんだろうなこの気持ち、と思いながらやっていました。特に前回の五輪が終わって、いろいろな人に祝福されればされるほど、自分の気持ちがどこにあるんだろうと。
まわりが幸せになり過ぎてて、僕の幸せはなんだろうと。頑張ってきたことは還元されているのか、と思うこともありました。
でも、いまは特別視されていて、「ありがとう」とか、「おめでとう」という言葉が気持ちがこもっていなかったとしても、素直に受け止めるとうれしい。
それは幸せなもの。自分は特別だなと思うのは、日本だけでなく世界に発信できる。
特別な存在になれたからこそ、感じなければならない使命。
――まさに包容力。自らの中で「受け止める」ことは成長した?
受け止める中で嫌なことも受け止めたり、ネガティブに受け止めたり、することはたくさんあり、今もあります。
そういうのを含めて、僕にはたくさん味方がいて、何よりも自身になっているのは実績のある方が自分を褒めて、自分がこうなりたいと思っている人が自分のことを認めて、「彼が本当のチャンピオンだ」と言ってくれる、この世界に対して感謝の気持ちしかないです。
――孤独との戦いという話もありましたが、プライベートでは家族を持ちたいとかそういう思いは?
なんて答えたらいいのかわかりません。
ファンの方がいて、今回はすごく応援してくれて、家族を持ったら「裏切られた!」とか。アイドルではないですが。
応援してくれることもありがたいし、普通の人からお金や名誉など見たら手に入れるものは手に入れただろと思うかもしれない。
けれど、僕にとっては全然そんなことなくて、地位や名誉、お金も飾られたもの。
「本来の気持ちや夢が満足感に満たされているか?」と言われたらそうではない。一人の人間として生きなければいけないし、特別な人間としてたまにしゃべって、滑って、そういうことを共有しなきゃいけない時間もある。
――競技者としての幸せを極める?
競技者として、とは言い切れない。何になるかはわかっていないし、何ができるかは明確にはわからない。言えることは、金メダルをとって2連覇したことがたくさんの人の幸せになって、それができるのが僕しかいなかった。
――競技終了後、プレゼントが投げ込まれたと思います。その行方は?
森に帰りました(笑)。
この言葉は好きで、ギャグとかではなくて一番ファンタジーで好きです。
――東京マラソンでは、設楽選手が一億円をもらいました。花束とかプーさんとかがお金であったらと私は思いましたが、どうですか?
正直、リアルなことを言いますが、現地に来てくださっている方はチケットを取るために相当なお金を使っている。
フィギュアスケートの観戦は高いんです。ファンの方の特集も見ているんですが、一部の方の声しか届いていない。それを捻じ曲げた特集をする局もありますが(笑)。
言えることは、見えない方の応援も大事にしたい。高校生や大学生も大金を払って韓国に来れません。
そういう方々にも感謝が届くような演技ができればと思っています。
――始まる前に揮毫(きごう)を書いてもらいました。「自分自身を貫く」と書いてくださいましたが、その心は?
自分がオリンピックに行く前、今シーズンの夏に「いまを貫け」と言う言葉を自分に出しました。
絶対にけがをしていなかったと言えなかったし、調子が悪くても今というものは揺るぎないもので、それを貫いてほしいと。
羽生結弦のために書いたものではなく、少しでもみなさんが夢を叶えるきっかけになればと思って書いたもの。
自分自身を貫くことで後悔はしないと思います。その後悔をしない生き方をしてほしいと書きました。