プラザ合意から33年、1985年は何だったのか
失われた20年から抜け出せていない原因は
「失われた20年」の原点
1970年代から80年代にかけて、日本経済は活力にあふれ、アメリカを猛然と追い上げていた。アメリカも、このままではやられてしまうと、日本経済を警戒していた。当時のアメリカにとって、脅威だったのは、中国ではなく、日本だった。
79年には、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出し、日本では70万部を超えるベストセラーとなった。この本は日本の経済成長の原因を探ったもので、日本人の学習意欲、読書意欲を高く評価している。なによりもこの本は、日本人に「もしかすると、日本はすごいのかもしれない」と自信を持たせた。
最近になって中国でも中国語訳が出て注目されており、本のタイトルはまさしく直訳の『日本第一』という。国と国の比較は難しいものだが、ひとつの尺度として、GDP(国内総生産)の数字を見てみよう。85年のGDP(当時はGNP=国民総生産)は、世界の首位がアメリカの4兆3400億ドルで、2位が日本の1兆3800億ドルだった。
この年の世界のGDPを総合計すると12兆4000億ドルだったから、計算すると、アメリカは世界のGDPの35%を占めている。まさしく超大国だ。しかし、2位の日本も12%を占め、アメリカに迫っていることが分かる。太平洋戦争が終わったのが1945年だから、そのわずか40年後には、日本は、アメリカを追い上げる国として復活した。アメリカには及ばないにせよ、このころ、日本国内でも、「日本は経済大国」という言い方をするようになった。
3位は、当時の西ドイツで6500億ドル(世界の5%)だった。日本のちょうど半分の規模であり、日本経済がいかに大きかったかを示している。4位はフランス、5位はイギリス、6位はイタリア、7位はカナダだった。この7か国が、主要国首脳会議(G7サミット)のメンバーになるのは、ごく自然なことだった。
ちなみに、中国は、ようやく8位に入っているが、GDPは3100億ドル、世界の2%に過ぎない。やがて日本を抜き、アメリカに次ぐ経済規模になってG2を自称するようになるとは、このころ、だれも思わなかった。
当時、G2という言い方はなかったが、もしG2という言葉があるとすれば、それは、アメリカと日本のことだった。
その日本は、80年代末にバブル経済の絶頂期を迎えたものの、90年に入るとバブルが崩壊し、「失われた10年」の長期不況に入った。失われた10年が終わるはずの2000年になっても不況は終わらず、失われた10年は「失われた20年」となってしまった。
2011年には東日本大震災が起き、失われた20年は、いろんな意味でどん底に陥った。そこに登場したのが安倍晋三首相のアベノミクスだ。アベノミクスは高評価と酷評とに二分され、なお、評価は定まらない。ただ、公平に見て、失われた20年が「失われた30年」になることをアベノミクスが防いだのは間違いない。しかし、アベノミクスからの出口が見えないこともまた事実である。