1971年に創業したソースメーカー、鳥居食品(静岡県浜松市)を継いだ、3代目の鳥居大資社長 静岡県浜松市にある老舗ソース会社、鳥居食品の3代目、鳥居大資社長。独自のソースを次々商品化して老舗の再生に挑んでいる。慶応義塾大学から米スタンフォード大学大学院へ進学。三菱商事を経て米ゼネラル・エレクトリック(GE)へ転職。一見、華麗なキャリアだが、米国でのリーダー研修はまさに「虎の穴」。結局、脱落して実家の会社を継ぐことになったが、経営者になっても失敗や挫折の連続だったという。
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「すごい経歴ですね」とほめられることもあるのですが、実は落ちこぼれです。慶応義塾大学の経済学部には補欠で合格しました。入りたいゼミにも落ちてしまい、たまたま拾ってもらったのが、塾長でもあった鳥居泰彦先生のゼミでした。
名字は同じ「鳥居」ですが、血縁関係はありません。共通点は眉毛の形が似ていたぐらい。先生にしてみれば、「同じ鳥居のよしみで拾ってやろう」程度の気持ちだったのではないでしょうか。
先生はよく、こんなこともおっしゃっていました。「慶応はもともと地方の士族が集う場所。学んだことをおのおのが地方に持ち帰って発展させる。それが福沢諭吉のビジョンだ。だから、君たちもそうしなくてはならない」
当時の僕には、その言葉は全く響かなかったんです。せっかく東京に出て来たのに、どうしてわざわざ帰らなくちゃいけないんですかという気持ちでした。今ならば、先生のおっしゃった意味もよくわかるのですけれど。
■大正時代創業のソース会社の3代目として生まれる
大正時代に創業したソース屋の3代目として、1971年に静岡県浜松市で生まれました。鳥居食品という社名ですが、地元では「トリイソース」と呼ばれています。
両親は共に働いていたものですから、幼いころはおばあちゃん子で、祖母と一緒に晩ご飯を食べた後、よくテレビのクイズ番組を見ていました。はがきを書いて送ったら、それが通って番組に出演。運良く優勝し、副賞で家族とヨーロッパ旅行したのが人生初の海外でした。
大学時代に「君はまだ社会に出るのは早い。経済以外のことも学んでおいたほうがいい」と鳥居先生にアドバイスされ、卒業後はアメリカの大学に行くつもりでした。アメリカの場合、大きく分けると、総合大学とリベラルアーツカレッジがあり、先生にはリベラルアーツのほうを勧められていました。ただし、日本の大学を卒業してしまうと、編入は難しい。さすがにもう4年間大学に通うのはきついなと思い、いろいろと探した結果、スタンフォード大学の大学院へ進学することにしました。
学んだのは、今でいうところの「エリアスタディーズ」です。日米中の3国関係を勉強し、修士課程を修了。「3国貿易を担える人材になる」とアピールして、96年、三菱商事に入社しました。でも、実際に配属されたのは、想像もしていなかった部署でした。
商社というと、当時は電話が鳴りっぱなしの騒がしい職場をイメージする人が多かったと思います。しかし、僕がいたのは、大きな書庫がある図書館のような部屋。与信管理の部署です。僕はここでもっぱら取引先の財務分析をしていました。加えて、1年間はずっと法律の勉強。給料をもらいながらですから、これはありがたいことでした。
ちょうど日本の景気が悪くなり始めた時期で、投資先の選別をする際の基準と、一律のルールを作ろうということになり、3年目からは格付けの勉強を命じられました。会社全体として方向転換を模索していた時期でもあり、そのために三菱商事がベンチマークしていたのがアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)でした。
鳥居食品は地元静岡県では「トリイソース」と呼ばれている GEは当時、日本の会社を次々と買収。傘下に収めた日本企業をマネジメントするために、日本人を大量に採用もしていたのです。同じ部署の仲間と冗談で「俺たちも受けてみようか?」と話していたのですが、蓋を開けたら、実際に応募したのは僕だけでした。
実は入社してからずっと海外に行きたかったんです。人事面談では「海外に行かせるのは日本の大学を出た社員が先で、海外の大学院を出ている君はその後だ」と言われていました。より多くの社員に海外経験を積ませたいという考えはもっともだなと思いましたけれど、「では、何年待てばいいのですか?」と聞いた際、「10年だな」と言われたことが、心にひっかかっていました。
10年待ちだとすれば、20歳代のうちは海外に行けない。それが僕にとってはトリガー(行動を起こすきっかけ)だったのかもしれません。5年目だった2000年に僕は三菱商事を辞めてGEへ転職しました。
■GEでウェルチ氏肝いりの幹部養成コースへ
その当時、CEO(最高経営責任者)としてGEを率いていたのはジャック・ウェルチ氏です。採用された日本人のうち、すでに経験と実績のある40歳代以上は即戦力として日本での活躍が期待され、僕らのようにまだ20歳代後半の連中は、一度、米国の本社でGE色に染めてから日本へ戻すという方針でした。
あのころのGEには有名な幹部養成コースがありました。私が入社した当時、大卒向けには経理・財務の分野とIT(情報技術)の分野に、それぞれ特別なプログラムが用意されていました。私は中途採用組でしたから、大卒向けプログラムの上に用意された虎の穴コースの「CAS(Corporate Audit Staff)」に配属されました。
CASはウェルチ氏の肝いりで作られた社内監査のチームです。4カ月ごとにメンバーが入れ替わり、各地のグループ企業を監査して回ります。私が言い渡された赴任地は北米とアジア。最低2年間はチームにいられますが、3、4、5年目も生き残れるかどうかは評価次第。無事に5年間生き残れれば、最短で幹部になれるし、途中で脱落しても、ほかの人よりは早く出世できるという話でした。
幹部養成コースと言っても、頭の出来を問われている感じはしませんでした。中身は意外と体育会系。メンバーが北米とアジアに散らばっていたものですから、国際電話で会議しようとすると、どうしても時差がネックになる。アメリカにいるときは必ず朝の6時、7時から、日本やアジアにいる場合は夜中に起きていないといけなくて、そういう意味でまず体力が必要でした。
GE時代はハングリー精神と英語力が足りなかったと振り返る それとリーダーシップ。グループ企業とはいえ、いきなり他人がやってきてあら探しをされ、トップに報告されちゃうわけですから、相手も当然、身構えます。その緊張をほぐしながら短時間で仲良くなって、資料をもらい、問題を発見し、相手を巻き込みながら課題解決まで持っていかなくてはなりませんでした。
■「アドレナリン出しまくり」のリーダーが理想の世界
GEでその当時、理想とされていたのはアドレナリンを出しまくり、周囲を鼓舞するようなマッチョなリーダー。たとえるならば、アメリカンフットボール選手のようなイメージです。幹部候補となると、女性もメンタル的にかなりマッチョでした。
外資系と言っても製造業ですから、商社に比べて割と素朴な人たちの集まりでもありました。たとえば、最初は米コネティカット州にある施設で研修を受けるのですが、週末になると皆で車に乗り、ニューヨークへ遊びに行く。商社の人たちはけっこうおしゃれで、ブランドの服にも興味があるんですけれども、GEの人たちは短パンにTシャツみたいな格好で、全くファッションに関心がない。
ニューヨークのマディソンアベニューに「バーニーズ・ニューヨーク」の店舗があり、僕ら日本人が「あっ、こんなところにバーニーズがある!」と騒いでいたら、一緒にいたアメリカ人の同僚が真顔で「何だ、それは?」と言うわけです。「ええっ、知らないの? 新宿にもあるじゃん」みたいな感じで会話をしていました。
雰囲気としては、かなり「昭和」でしたね。僕がいた環境は特にそう。飲みニケーションが重要で、お酒は必ずしも飲めなくてもいいんですけれど、そういう場でのコミュニケーションがないと、仕事が円滑に進まない感じでした。
英語には「brown noser」という言葉があり、意味は「ご機嫌取り」です。アメリカにもそういう人たちは少なからずいました。大きな会社ですから、こうすれば次に行けるという、一種の処世術みたいなものはあるんです。そこを越えていかないと自分の成し遂げたいことができないのですから、ある意味、必要悪みたいなものです。僕はそれを否定はしませんけれども、自分自身が徹底してやれるかというと、やれないなと思いました。
出世は人それぞれのスケール感に基づくものだと思っています。そのスケール感にフィットするために必要なプロセスとして処世術がある。「世界のニッケルを俺が動かしてやるんだ」というスケール感もあるでしょうし、「地元浜松に伝わる遠州焼きを残したい」というスケール感もある。それぞれのスケールに合った出世があり、大きいスケールのことをやろうとするには、それなりの処世術が必要だということだろうと思います。
僕自身はどうだったかと言えば、GEで出世するにはハングリー精神が足りなかった。プラス、英語力。GEでリーダーシップを発揮するには、自分自身を鼓舞するだけではなく、周りのみんなも勇気づけなくてはいけないのに、自分の伝えたいことさえ、まともに英語で伝えられないのを感じていました。
考えてみたら、日本語でもそうなんです。従業員に対して「どう、最近?」と言葉では言えるけれども、それ以上の深いコミュニケーションができているかというと、そこは疑問符がつく。お酒もあまり飲めないし、性格的に他人の心に分け入り、懐に飛び込んでいくタイプではなかった。
あれだけの大きな組織で社長になれる器ではなかったんだろう、と思います。5年間生き残れれば最短で幹部になれるコースを、僕は結局、2年で脱落しました。
悲観に暮れ、日本に戻りました。どうしようかと考えているときに父親が病に倒れ、実家の会社を継ぐことになりましたが、それから本当に大変でした。
(ライター 曲沼美恵)
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