【社会】仮設打ち切り 怒りの春 「何もできねえうちから戻れって。早いんでねえか」東京電力福島第一原発事故で全域避難した七町村のうち、避難指示が最初に解除された福島県楢葉町(ならはまち)。二〇一五年九月の解除から二年半たっても、住民は32%しか帰還していない。三月末には町外にある仮設住宅の提供が打ち切られ、全員が退去を迫られる。町に帰るか、町外に移り住むかの選択を強いられる住民からは、怒りや不安の声が上がっている。 (辻渕智之、写真も) 未明からの雪がうっすらと残る。ドアに「空室」の張り紙が増えた仮設住宅地はひっそりしていた。福島県いわき市にある「高久(たかく)第9、10仮設住宅」。原発事故で楢葉町からの避難先の一つになった。 「もう一年、いられればよかったんだけどね」。四畳半の居間。干した洗濯物に囲まれ、西川ノリ子さん(66)はため息をつく。あと一カ月で、今も暮らす約二百世帯四百五十人全員が退去するしかない。 西川さんの居間に、新しい遺影があった。仮設暮らしで持病が悪化し、寝たきりになった夫が昨年五月、七十七歳で亡くなった。 「夫と楢葉に帰るにしても、訪問介護に来てくれる人がいない。この仮設なら来てくれたから。そんなこんなでなかなか決められなかった」。帰町を決心したのは、夫の初盆が過ぎた昨秋のことだった。 実際、楢葉町の訪問介護サービスは人手が足りない。多くを担う町社会福祉協議会では、原発事故前に十八人いた動けるスタッフが今は三人だけだ。 西川さんの自宅は避難中の放置で住めないため新築するが、完成は今年秋。それまでの間、いわき市内の別の仮設へ入居が特別に認められた。それでも、同居している八十代の両親とともに「二度の引っ越しは大変」と言う。 楢葉町の自宅そばには、除染廃棄物の入ったフレコンバッグが並ぶ。除染は家の敷地から二十メートルまでで、山林はなされていない。 同じ仮設に住む松本義道さん(86)は楢葉町の自宅の改築が夏までかかり、やはり三月の退去に間に合わない。足の骨折や病気が続き、建築業者との打ち合わせが遅れた。「こんな生活をさせといて、今度はすぐ出ろって。そんなバカな話あるか」と声を荒らげる。 三十代女性は楢葉に戻らないことを決めた。小中学生の子どもがいわき市の学校になじんでおり、同市内に新築した家に移る。楢葉の自宅近くに建築資材の置き場があり「どこで使われたか分からない。放射能が不安」とも打ち明ける。 楢葉町は北側の竜田(たつた)、南側の木戸の二地区があるが、木戸地区はスーパーも郵便局も薬局も、再開する見通しがない。 青木ツナさん(86)は、木戸に戻って一人暮らしをすると決めた。「七年で区切って、何もできねえうちから戻れ戻れって。早いんでねえか。順番が逆さまだっぺ」 <楢葉町の避難と帰還> 町は原発20キロ圏のほぼ全域が避難指示区域となった。政府は2015年9月に避難指示を解除。昨年12月時点で、町外の仮設住宅と民間借り上げ住宅に住む3292人のうち44%が帰町、50%が町外移住の意向を示し、6%は未定だった。先月末までに戻ったのは1213世帯2270人で、帰還率は32%。65歳以上は原発事故前の26%から38%に増えた。 (東京新聞)
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