僕らがミスをチル理由

世の女性たちがなんとなく共有する、誰もが知るおじさん著名人たちへのファジーな嫌悪感の正体に迫る新連載「ニッポンのおじさん」。
第10回はMr.Childrenの歌詞に熱くなる、おじさんの男性心理がテーマ。
桜井和寿さんの紡ぐ言葉に自分を重ねてしまう男性のナルシシズムを、冷ややかな女性の視点で考察します。

女にとって当たり障りのないMr.Childrenという存在

 先日、ちょっと用事があって行った歌舞伎町のアフターバーで、すぐ近くに座っていたホストら4人のグループがカラオケをしていた。30代らしきホスト、涼美語で言う所の「お疲れホスト」が女の子に「何歌って欲しい?」とリクエストを求め、女の子の一人が「ミスチル!」と言ったのに答えて「星になれたら」を歌い出し(30代だけに)、その下手くそっぷりもなかなか鼻につくものであったのだが、「長く助走をとった方がより遠くへ飛べるって聞いた」の歌詞のところで「うわぁいい歌だわ、これ」と自分で自分の歌っている歌へ謎の合いの手を入れていたことが、翌日の寝起きに思い出し、さらに今原稿を書こうと机に向かったところで思い出すほど耳に残っている。悪い意味で。

 確かにそのグループの風俗嬢よろしく私たちも、「何歌って欲しい?」なんてどうでもいい男に聞かれると往々にして「ミスチル」なんて応えてしまう。ほとんど「なんでもいい」「そんなこと私に聞かれても」と同義である。曲数が多く、誰でも数曲は歌えて、こちらも聞けば知っている。そして何より、歌って欲しい曲として「ミスチル」と答えること自体に、余計な意味が付随しない。「ラルク」とか言ったらV系好きだったの? とか、「嵐」とか言ったらその歳でジャニオタ? とか、「矢沢」とか言ったら元ヤン? とか、「河村隆一」とか言ったら懐かしい! そしてキモい! とか、そういった余計な詮索をされずに済む。「ミスチル」は、日本人の好きな楽曲の平均値として君臨しているから当然だ。

 ただ、私たち女にとってミスチルが、そういった便利&ユーズフルな存在であり、数曲は好きな歌があるという以外になんの感慨もない対象であるのに対し、男の子にとってのミスチルは、自分の下手くそな歌声にのったその曲すら「うわぁいい歌」的な心からの雄叫びを必要とするくらいには意味のあるものらしい。と、最近強く思う。「ダメな俺」に居心地の良さを感じる男が必要とするのがスピッツだとしたら、「ダメな俺」をそう簡単には認めたくない男が必要とするのがミスチルだろうか。

 街の中にたくさんいて、目を凝らしていなければ見失いそうな普通の男たちが、それでも己として人生を生きようとした時の拠り所となるような歌。まさに、誰もが胸の奥に秘めた迷いと鬱憤を受け止めるような。それってかなりすごいことだとは思います。

「歩きだす」世界観への違和感

 そして、それだけ男に必要とされるその歌詞は、当然のことながら男の欺瞞と都合に満ち満ちており、それは女の子にとっては「なんか素敵」と聞き流してしまいがちな、しかし気にしだすととめどなく気になる類のものである。ヒット曲をざっと思い出しても、「誘惑に彩られた一度だけの誤ちを今も君は許せぬまま」(浮気に一回も四回もねえし)「今以上に綺麗になってないで」(別れた女を未だ自分のものだと思ってる節があるし)「分かり合えた友の愛した女でさえも」(友達の彼女に手出すのは一番最悪です)「終わった恋の心の傷跡は僕にあずけて」(弱ってるところをつけ込むタイプ)「彼になる気もなくて責任などさらさらさ」(責任取ってよ)。

 そしてミスチルの歌詞の中で「僕」や「君」はかなりの確率で「歩きだす」。色々と傷ついたり、わかり合えなかったり、過去を引きずったりしながら、とりあえずとどまることを知らない感じで歩きだす。歩き出しがち。そして新しい、次の扉を開きがち。一体どこへ・・・・・・。

 おそらく、次の女へ、である。そういえばミスチルのボーカルも糟糠の妻を捨て、ピチピチギャルならぬギリギリギャルに乗り換えたクチ。別に音楽なんていうモテの飛び道具で超勝ち組になった男が女を乗り換えようが、浮気しようがそれはそれで別にいい。というか、それくらい許されなければ成功にも夢がないと私も思うのだけど、どうも「歩きだす」という概念にはやや引っかかる。そしておそらく、私のようなせせこましい女が引っかかり、純粋でそれなりに一所懸命な男たちが痺れるのが、その「歩きだす」世界なのだろうと思う。

男がミスチルの詞に熱くなる理由

 男たちが、いくつになってももっとも恐れるのが、今の自分がストップ高であるという思考である。今現在にそれなりに納得していようといまいと、これが俺の限界、と思うのは嫌で、だからマイラバも「自分の限界がどこまでかを知るために僕は生きてるわけじゃない」と歌う。基本的に男というのは、自分の限界というのはいくつになっても知りたくないと心のどこかで思いつつ、精一杯大人ぶって「俺は所詮こんなもんさ」とか言う。

 そこに、新しい扉を開けて歩きだすことがデフォルトかのようにセットされているミスチル的世界観を提示されると、なんとなく自分が大人ぶって否定している願望を肯定されたような気になる。というとちょっと出来すぎているが、別に取り立ててヒーローになる必要も、逆に底辺を這いつくばってダメ男として生きる必要もなく、ただ等身大の自分とはまた違う、等身大の自分よりもちょっとだけいい場所にいける可能性がある気がして心地いいのだと思う。

 そして、その「今の自分が自分の最大限ではない」「もっと違う可能性があるかもしれない」という思いは、当然「今の女が自分の最後の女ではない」「もっといい女と出会えるかもしれない」という思いとほぼ同一である。男は最初の男になりたがるが、女は最後の女になりたがる、というのはよく言われるが、裏を返せば、女は別に最初の女になりたくなくて(童貞なんて別に好きじゃない)、男は別に最後の男にはなりたくない(この女が最後なんて思いたくない)。

 かといって、ミスチルの歌詞が今の彼女に不満でもっといい女とやりてぇとかいう正直なものであるわけではない。むしろ、基本的に自分がどれだけ彼女を愛しているか、ということに言葉が割かれる。この喉を切ってくれてやるとか、何一つ見落とさないとか。ずるいのは、扉を開けるとか歩きだすとか匂わせておいて、基本的になんとなく自分が歩き出さねばならないのは、女が心変わりするせいにしているからだ。

男の偽善が鼻につく私たち

 私はミスチルの中でも最も気持ち悪いと思う曲が「Everything(It’s you)」で、「僕が落ちぶれたら迷わず古い荷物を捨て」、要するに僕のことを見捨てて先に歩き出していいんだよ、なんて言ってくるこの狂おしいほどのナルシシズムは何か。かと言って落ちぶれた自分自身だって、終わりなき旅の途中、小休止したらまた新しいドアを開けて人はまた恋に落ちてゆくわけで、それをこちらが見捨てたみたいに思われても困るし、別に落ちぶれようが落ちぶれまいが、こいつとは合わねえなって思ったら私らも普通に別の方向に勝手に歩いていきますし、わざわざそこでいい男ぶることになんの意味がある。

 ねぇくるみ、とやたら可愛らしい名前の女に「出会いの数だけ別れは増えるそれでも希望に胸は震える」なんて熱っぽく語りかけ、愛情っていう形のないものを伝えるために名もなき熱っぽい詩を夜毎歌ってくれるなら、最後までこの、これがもう限界であとは落ちぶれるだけかもしれない俺様についてこいと言ってくれた方が私は嬉しい。長渕剛も男の都合に満ち満ちたようなことを言うが、「女好きは俺らの悪い癖」と、もはや別に偽善ぶることすらしないので、女としてはちょっとお膣がキュンとする。

 男の情けなさに寄り添うことが男性視聴者の心を掴むというのは数多いるアーティストに言えることだが、ミスチルの場合はそこにちょこちょこといい男ぶった偽善的な物言いが挟まることで、男の情けなさをいい男的なポーズにすり替える卑怯さが、女の鼻につくのだと思う。

男が思うほど女って自由じゃない

 男ってほんと、そういうところがあるのである。自分の終着駅がここであると思いたくないだけのくせに、なぜか自分に酔っていい男的態度をとりたい時、別にもとからあってないような女の自由さや酷さをもって、それに翻弄される愚かな俺だけど、と続ける。そんな俺でも傷つきながら前に進むのさ、きっとまた恋をして、きっとまた傷つくけど、きっとこの先の世界もそれなりに生きるに値する。

 そしてちょっと自分のいい男っぷりに酔いたい男は、女を自由で奔放な存在、自分をしがらみにとらわれたつまらない存在と位置付けたがるのだ。しかしどうして私たちは、全くもってナウシカではない。むしろ新興勢力である私たち、女らしさと人間らしさの狭間で思いっきりしがらみにがんじがらめになって、身動き取れなくなってますけど。

 別に男が男の声にいい気持ちになっても別にいいのだけど、国民的な名曲として崇められるそれらがあまりに卑屈で、その反面とても自己陶酔的で、何より男のくだらなさをすくい上げるようなものであると、ピチピチギャルとしては何となく狐につままれたような気分になる。同じ桜井だったら存在自体は尖っているのに本人どこまでも無難な雰囲気漂う桜井秀俊に「一発やってみようよ」と言われる方がいいし、何ならミスチルの桜井さんと同じくらいにいい男であるのに未だにダサいラップなんかして同性の支持など全く意に介せず女ウケにのみ徹底している嵐の櫻井くんに「やるだけやるけどいいでしょ?」と言われた方がいい。男が愚かなのは知っているけど、愚かな俺に酔いしれる男ほどめんどくさいものはないですからね。


今週の参考文献

  • ・宮崎駿『風の谷のナウシカ』(全7巻:徳間書店、2007年)
  • ・深沢七郎『人間滅亡的人生案内』(河出書房新社、2013年)
  • ・植島啓司『官能教育 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか』(幻冬舎新書、2013年)
  • ・JUNZO『人生ドラクエ化マニュアル 覚醒せよ! 人生は命がけのドラゴンクエストだ!』(ワニブックス、2015年)
  • ・細田昌志『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書、2017年)

こちらは、これまでに鈴木涼美さんがリアルに出会ったおじさんたちを描くエッセイ。好評発売中!


この連載について

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ニッポンのおじさん

鈴木涼美

どこか物悲しく、憎めないおじさん。男にリスペクトされる好感度高い系おじさん。こじらせおじさん。新しい価値観で社会を斬るおじさん。そして日本社会を動かすおじさん。彼らはなぜ〈おじさん〉になってしまったのか。彼らの何が〈おじさん〉たる所以...もっと読む

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yutorination なんかわかる / 他1コメント https://t.co/j9z12LRRLV 25分前 replyretweetfavorite

yutorination なんかわかる / 他1コメント https://t.co/j9z12LRRLV 25分前 replyretweetfavorite

dogworkszero 鈴木涼美さんの文章ほんと好き。 https://t.co/uz30w89zxF 約6時間前 replyretweetfavorite

koishiyajapan 深夜2:30に笑ってしまった記事。ミスチル好きのカヨちゃんやミスチル好き男子に読ませたい。https://t.co/g1vVTBJBvO 約7時間前 replyretweetfavorite