無題

せめて「差別ではあるよね」で合意できないのか

 差別という言葉を掘り下げる度に私は漫画の「ヴィンランド・サガ」という作品の一幕を思い返す。ある人物が「愛とは何か」と問い、それを聞いた人物は命をかけて自分を守ってくれた者の行動がそれだと返すと、「それは差別に過ぎない」と説き、そこここにある死体を指して、「彼らはもう何も差別しない。それこそが愛だ」と言う。親が子を愛する事は差別である。人間の行動に愛は無い。何者も差別しない自然に囲まれるこの世界はこんなにも愛に溢れているのに、人間に愛はない。そう結論付ける。今回の女性専用車両の話をする時、みんな無意識に「女性専用車両がなくなれば差別はなくなる」という前提を踏まえている。しかしそれは嘘だ。ごく普通の列車に乗り込む時、私達は無意識に自分に都合の良い場所を陣取る。その理由は扉の近くだったり吊革の場所だったり嫌な人がいない場所だったり様々だが、何れにしても、私達は他人のいる余地を奪ってそこに立っている。それを差別と言うか否かは人が決めればいい。私はそういう自己認識の問題で争う気はない。しかし人がどう考えているにせよ、私達の行動、男も女も若者も老人も、ひいては生きるという現象そのものが、何かしらを優先し、何かしらを虐げているという構造に基づいているのだという現実は変わらない。この観点に意義があるかどうかは私にも分からない。ただ一度そう認識してしまった時点で、自分の中にある種の諦観が生まれている。

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