スヌーピーのおもちゃを狙いにハッピーセットを頼んだら、おまけでシールももらえた。
ダイスキンにペタペタと貼って、一見スヌーピーコラボのモレスキン風に仕立て上げて満足していたのだが、まだまだシールはあまっている。そこで壁に貼ってある、企画案のコピー用紙にも貼り付けてみることにした。
不思議な感覚がした。別の紙であるような感じがしたのだ。
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コピー用紙はのっぺりとしている。壁には4枚の企画案シートが貼ってあるが、使っている付箋もペンも同じなので、違いは感じにくい。あえて言えば、書かれている内容を「読んで」はじめて区別することができる。違いがやっとそこで露わになる。
でも、ひとたびシールを貼ってしまうと、意味読解のプロセスを経ずに、それぞれのシートが「別物」であるという感覚が生まれてくる。それは端的に言えば、直感的な感覚である。
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同じような白紙でも、綴じノートにはあまりのっぺり感はない。同じフォーマットの用紙が連続しているにも関わらず、だ。それはおそらく、綴じられたノートであるが故にここのページが固定的な「場所」を持つからだろう。場所には前後がつきまとうし、それぞれのページの前後は異なってくる。それが違いの感覚を醸成するのかもしれない。
この点は、同じく綴じノートである、手帳を使ってみるとさらによくわかる。形式的に言えば、綴じノートと手帳は同じ媒体である。綴じノートを工夫して使えば、手帳と同じ運用は可能である。しかし、この二つを同じツールだと考えるのは難しいし、むしろ手帳を触ったときに感じるあのワクワク感は、どうしても綴じノート単体では生まれてこない。
それは何と言えばいいのだろうか。福袋を買ったような、工具セットを買ったような感覚である。いろいろなものが詰まっている──そういう楽しさがある。それは、印刷されているページが、鮮やかなまでに異なるからだろう。手帳には差異が満ち溢れている。
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もう一つ、別の観点から考えておくと、壁に貼り付けてある4枚の企画シートは、まったく同じタイミングに作成したものだ。もちろん一枚の作成に5分程度かかっているから、厳密に動じというわけではないが、一年という尺で見れば同時と言って差し支えないほどスパンは密接している。もしこれが、ある程度の期間をおいて作成したものであれば、そして使用する付箋やペンが違っていれば、シールを貼らなくてももう少し差異は感じられただろう。それは見た目の違いからではなく、むしろそれを表出とする時間的感覚の違いが背景にある。
同じタイミングで作ったから、同じものに思える。「一連」という概念で、カプセル化されてしまう。そのような側面もありそうだ。
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こうしてコピー用紙について考えてみると、いかにデジタルノートがのっぺりしているのかが見えてくる。なにせ、どのページも同じだ。しかも、順番の入れかが可能な場合は、「位置」や「場所」という感覚も醸成されにくい。
しかも、デジタルノートは、高速かつ自動にノートを生成できる。「一連」の動作で多数のページを生み出せるのだ。こうなると、のっぺりかんはますます強まる。
ここでいうのっぺり感は、つまりは区別が付きにくいということであるが、それは「情報構造が立ち上がらない」と言い換えてもよい。のっぺりしている、というのはエントロピー増大による熱エネルギー的死と同じであって、そこには秩序もネットワークも立ち上がらないのだ。
だからこそ。そう、だからこそScrapboxでは、ビジュアル要素が重視されている。ページに画像を入れると一覧でサムネイル表示されるし、発言者などのアイコンも簡単に記入できるようになっている。
Evernoteだってそうである。私は、ノートのタイトルに絵文字を使っているが、タグなどに使う事例もある。
これもフラットに並び、ついついのっぺりとしてしまいがちな情報群に直感的差異を与えるための工夫と言えるだろう。
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アナログノートとデジタルノートは基本的には別のツールである。似たような使い方をすることも可能ではあるが、それが志向している方向は異なっている。
それでもだ。
使う側の人間が同一である以上、そこには何かしらの共通点がある。現代における知的生産技術について考えるならば、そういうところを掘り起こしていった方がよいだろう。