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西部邁の自殺に影響を与えたかもしれない、「ある女性の死」

全学連時代からの盟友が…

去る1月21日、評論家・西部邁氏が多摩川で入水自殺したことは、各方面に衝撃を与えた。以前から親しい人には自殺を示唆していた西部氏だったが、親交があったノンフィクション作家の佐野眞一氏は、西部氏の自死を聞いて、ある女性の死が頭をよぎったという。

唐牛真喜子さん。1984年に物故した全学連元委員長・唐牛健太郎の妻であり、自身も全学連のメンバーであった彼女は、生前、佐野氏の取材に「(全学連時代に)最も親しかったのは西部さんだった」と明かしたことがあるという。その関係と二人の死の深奥へと迫る、佐野氏の特別レポート。

不吉な胸騒ぎ

その一報があったのは、那覇での遅い昼食中のことだった。

この日、私は明日(2017年11月16日)午前、那覇地裁で初公判が開かれる米軍属による「うるま市女性暴行殺人事件」裁判傍聴のため、前日から沖縄入りしていた。

電話をかけてきたのは、元全学連中央執行委員の篠原浩一郎氏だった。

篠原氏は現在80歳近い好々爺然とした男だが、60年安保闘争では逮捕歴13回という猛者だった。

全学連委員長の唐牛健太郎とは死ぬまで深い親交をもっていたので、拙著の『唐牛伝―敗者の戦後漂流』(小学館)の取材では大変お世話になった。

「急に何事ですか?」

そう問うと、篠原氏は「イヤ、実は(唐牛)真喜子さんが危ないんです」と言った。

「えッ、あんなに元気そうじゃなかったですか」

「そうなんです。だから僕もびっくりしちゃって。とにかく佐野さんだけにはお知らせしておかなくてはと思って……」

「それはわざわざありがとうございます。でも僕はいま沖縄なので、すぐには行けません」

篠原氏の緊迫した声の様子から、真喜子さんはもう長くないだろうと直感した。

 

真喜子さんは、唐牛健太郎が47歳の若さで他界するまで、いや死んでからこそ唐牛の名誉を陰日向なく支えてきた。

唐牛健太郎の名前が今でも語り伝えられているのは、ひとえに真喜子さんの功徳あってのことだと言ってよい。

私が担当編集者と一緒に、真喜子さんが入院中の慈恵医大病院に行ったのは、篠原氏から電話があって4日目、沖縄から帰った翌日の11月19日の日曜日だった。

篠原氏は電話で「とにかく一刻もはやく行ってあげてください」と言っていたが、その言葉を聞いたとき、不吉な胸騒ぎがした。

やはりその予感はあたっていた。真喜子さんは面会謝絶状態で、病室には誰も入れないという。しばらく病室に隣接する控えの部屋で待たされた。

高層の部屋の窓からは、晴れ渡った秋空の下に広がる東京の息を呑むように美しい景色が見えた。真喜子さんの末期の眼にはこの光景が焼きつけられるのか。

そんなことをぼんやり考えていると、真喜子さんのお姉さんの島浩子さんが挨拶に現われた。

浩子さんとはそれが初対面だったが、面立ちは真喜子さの目鼻を剥いてつけたように似ていた。

浩子さんは、真喜子さんが緊急入院してからずっと病室に泊まり込みで看病しているという。

「真喜子が緊急入院したのは、11月9日です。その日は外来予約の日で、肝機能の数値が悪いと聞いていたので心配していたのですが、先生からは即入院を告げられました。先生の話では、癌のため大きくなった肝臓が心臓を圧迫して苦しいのでしょう、とのことでした」

浩子さんの淡々とした話しぶりから、もうお別れの覚悟はできていることがわかった。

「緊急入院してから約1週間後の11月15日は、真喜子の71回目の誕生日でした。ごく近しい人だけが誕生日プレゼントを持ち寄り、ナースの皆さまはバースデーカードを書いてくれました」

この日の笑顔を最後に、真喜子さんに投入する鎮痛剤の量が増え、意識がはっきりしなくなったという。

篠原氏はこの日病院に駆けつけ、真喜子さんのただならぬ様子に気づいて翌日私の携帯に電話してきたのだろう。

浩子さんの話では、真喜子さんの癌が見つかったのは2年前だった。だが、癌については親族にも明かさなかったという。

「私ら親族が真喜子から癌だということを知らされたのも2ヵ月前でした。健太郎さんと同じ直腸癌でした。そんなところまで健太郎さんと一緒でなくてよかったのにね(笑)。あの子は、そういう付き合いのいいところがある子なんですよ」

真喜子さんは抗癌剤も延命治療も一切拒否してきたという。

「健太郎さんは人工肛門をつけましたが、女性の真喜子はそれを嫌がりました。また抗癌剤は女性の命の髪の毛が抜けるからイヤだと言っていました」

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