その店は、最寄りの私鉄駅の近くにあった。
引っ越して来たばかりでその土地をよく知らない私が、駅前通りをあてもなく歩いていた時
「フロア女性 急募」の張り紙が偶然、目に留まった。
張り紙のあるビルの地下1階に下りるとスナックの扉があり、吸い寄せられるように私は中へ入っていった。
客は居らず、女性ふたりと恰幅の良い老紳士が、一斉に私の方を見た。
「いらっしゃいませ~」
ホステス達は明るく嬌声をあげたものの、初めて見る女の一人客である私を訝しそうに見ながら近づいて来た。
「えーっと…お待ち会わせでしたか?」
「あ、いいえ…表の張り紙を見たのですが…」
「あー!アルバイトの?社長!応募の方ですって!」
どうしよう。私はどうして張り紙を見たなんて言ってしまったのだろう。どんな雰囲気の店なのか、客として様子を見てから働けるかどうか考えてもよかったのに。
社長と呼ばれた老紳士は一瞬、鋭い目つきで私を見ると、ゆっくりと立ち上がった。
「お客さんもいないし、ここで面接するか。履歴書は持って来たの?」
「いいえ、通りすがりに見たものですから…」
「ふうん。あんた幾つだい?」
「22歳です」
「22歳だって!ミホちゃんと同じ!」
「しっ!静かに!」
聞き耳を立てているホステス達の声が、丸聞こえだった。
「こういう、お客さんに付く店の仕事は、今までやった事あるのかい?」
私は改めて店内を眺めて見た。ボックス席が4つあるだけの、小さな店だった。
「やった事はありません」
「やめといた方がいいよ?水商売ってさ、楽そうに見えるけど、結構大変なんだから~」
「もうタエちゃんったら。静かにしてってば」
老紳士は、ニコニコと優しそうに話しながらも、時折鋭い眼差しで私の目を見た。
「どうして水商売なんかやろうと思ったの?」
「お金が欲しいからです。勤め先から10万円を借りているので、夜のバイトをして早く返したいんです」
「そうか…じゃあ、やってみるか。週2日、時間は8時から1時までだけどいいかい?」
週2日、8時から1時…
それなら会社とバイトの掛け持ちでもきつくないだろうし、2か月頑張ればお金を返せる。
私は「宜しくお願いします」と頭を下げた。すると店の奥からバタバタとふたりがやって来て、弾んだ声で言った。
「宜しくね。私はミホ」
「私はタエ。この店はいいよ~。皆仲いいし、変なお客さんも来ないしね。社長は元警視庁だから、安心して働けるの」
「タエちゃんたら、さっきはやめといた方がいいなんて言ってたくせに」
「あれっ?そうだっけ?あははは!」
「ハッハッハ。まあこんな騒がしい連中だけど、皆いい子達だから何も心配する事はないよ」
「もうひとり、アイちゃんっていう子もいるの。今日はお休みなんだけど、ハタチの女子大生」
「アイも来て3か月くらいか。うちは素人ばかりだ。でもアイは人気あるなあ。うちのナンバーワンかな」
「えー?社長ったら!ナンバーワンはタエですぅ!」
「違うわよ。ミホですからぁ~!」
「ああー悪かった!俺が悪かった!」
ふたりにまとわりつかれ鼻の下を伸ばす社長を見て、私は初めてクスッと笑った。
「源氏名は、どうするかな?本当の名前でもいいんだけど」
名前から会社にバレたら大変だと思った私は、咄嗟に「ユキで」と言った。
「あー、いい感じね。北国生まれのユキちゃん。」
私は心底ホッとして、店を後にした。
2か月なんてきっと、あっという間に終わる。頑張ろう。例え少しぐらい嫌な思いをしたとしても、お金のためだもの。
お金、お金…
会社では服装が自由でTシャツとジーパンでもよかったけれど、夜の仕事となるとそうもいかない。
けれど洋服を買ってしまったら、いつまでたってもお金など貯まりはしない。
ファストファッションの店のない時代であったから、月々のお給料から洋服代を捻出するのは難しかった。
引っ越し代を借りたのだから、洋服を買う余裕などない。でも、スナックで働くためには仕方がないと、ロイヤルブルーのブラウスとスカートをカードで買った。
安物のセットアップだったが、せめて色だけでも高貴にしたのが私のプライドであった。
約束した曜日、会社を定時に上がり、アパートに戻って買ったばかりの洋服に着替え、いつもより濃く口紅を塗って店に向かった。
面接をした時はガラガラだったその店は、夜8時からがピークなのだった。
長い黒髪の女の子を客が取り囲み、楽しそうに談笑していた。
この子がアイちゃんなのだろう。
「あっ、今日からのユキさん、初めまして。宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
挨拶もそこそこに、私はタエさんの言われるままにおしぼりを出したり水割りを作ったりした。
この日の客は全員、アイちゃんのファンのようで、初入店の私にもタエさんにもあまり関心がないのだった。
だから私は殆ど喋らずに、雑用だけしていれば良かった。
客達はアイちゃんに一所懸命話しかけ、笑わそうとした。アイちゃんは天真爛漫によく笑い、大輪の向日葵のように明るかった。
初日はあっという間に時間が過ぎた。大学生のアイちゃんは7時から12時の勤務時間で、私と殆ど話す暇なく帰って行った。
1時を過ぎてもなかなか帰らない客がいて、片付けをしていたら2時近くになってしまった。
「ユキちゃん、初日なのに遅くまで悪かったね。時間大丈夫なら、ラーメンでも食って帰るかい?」
いつの間にか店に来ていた社長が言った。そういえば、夕飯を食べていないのに気がついた。
「わぁい、ラーメン、ラーメン、嬉しいな」
近くのラーメン屋さんに入り、タエさん、社長、私、ミホさんの順にカウンターに座ると、社長がいつものを4つと注文した。
夜中の2時にラーメン屋に来たのは初めてで、こんな時間にも意外と混んでいるので驚いた。
カウンターの上に並んだラーメンは醤油のスープで、大きな豚肉の唐揚げが乗っていた。
「ユキちゃん、疲れたかい?やっていけそうかい?」
「少し疲れました。でも、頑張ります」
「ハッハッハッそうかそうか。まあ食べなさい」
ラーメンは熱々で美味しかったけれど、なぜだかとても悲しくなった。
スナックで働く事が、嫌とか惨めなわけでは決してなかったのに、目の奥がつんと痛くて仕方なかった。
食べながらミホさんが、社長にこう切り出した。
「ねえ社長。今日のアイちゃん、あれはいけないと思います。まるで友達同士みたいな口のきき方。お客さんに失礼だと思うの」
「ああ、アイちゃんね。確かにあれはちょっとダメかもねぇ」
「アイか。まぁ、あれはまだ子供みたいなもんだからな。お客さんも怒らないだろう」
「もう!社長はいつもそうやってアイちゃんに甘いんだから」
「何を言うか。俺は皆が可愛いんだぞ。あーもう解った。今度見た時、目に余るようならアイにはちゃんと注意するから」
私はこの日のアイちゃんがどんな風だったのか、よく覚えていなかった。とにかく可愛らしい子で、少しふっくらした体型をお客さんにからかわれてむくれていたのを見たけれども、お客さんもアイちゃんもただふざけて楽しんでいると思っていた。
その後、アパートの部屋に戻った私は、服も脱がずにそのままぱたんと倒れ、眠りこけてしまった。
翌朝、目を覚ました時には会社の始業時間はとうに過ぎていて、私は「具合が悪いから休む」と、会社に電話するより仕方なかった。
気が向いたら②に続く