このブログは、私が巡った史蹟を少しずつ整理して行こうと思い始めた。
最近は、鹿児島から北に上がって行こうと少しずつ整理しているが、なかなか鹿児島でさえ終わらない。すべて終わるのは何時になるころやら。
当然、まだまだ増えて行くはずだし。
ここで、ふと、自分自身の歴史を振り返る機会があった。
私がまだ24歳の頃、26年ほど昔になる。椎間板ヘルニアを患った。この腰痛は酷いものでほとんど歩くことも出来ず、夜寝ると痛みで眠れず、少し寝ると腰がこわばり、無意識に寝返りを打つと激痛が走り、飛び起きて、また、痛みで眠れなくなる。そんな日々を過ごしていた。大きな軟骨が三つ出ていて、明日手術するという夜中に突然親父が病室にきて手術をやめて大分県に行けと言う。この痛みから一日も早く逃げたかった私は拒否したが、親父は手術の中止をし退院手続きを取った。そしてすぐ私は飛行機上の人となった。
私が連れて行かれたのは大分県狭間町に在った冷研リウマチ村山内病院という病院だった。大分駅に降り立ち、バスで冷研リウマチ村行きのバスに乗る。どんな病院に連れて行かれるか分からない私は、飛行機で一時間でさえ座っているのが辛い腰を押さえてどんどん山奥に入っていくバスの中で不安で泣きそうになった。
冷研リウマチ村のバス停でバスを降りた私は息をのんだ「なんじゃこりや!これが病院?」緑の人工芝に白い壁赤い屋根の病院。ここには寝巻姿のはずの患者さんはいない。そこには運動着姿のリウマチ患者さんが歩き回っていた。普通、病院ではあまり聞かれない笑い声が飛び交っていた。
診察室に入り先生から「大丈夫!一ヶ月もここに居れば治ります。」と軽く言われた。嘘だと思った。私の腰痛は、私が大切に一年近くも大切に育ててきた(笑)頑固な腰痛である。「そんな簡単に治るわけないやん!」と思ったが、この痛みを取ってくれるなら何でもするとの心境の私はお願い致しますと言った。
それから、私はこの異常とも狂気の沙汰ともいえる世界に入って行った。
病室に入って何をしていいのかも分からずひとり居ると、運動を終えたリウマチ患者さんが帰ってきた。「おつ!風呂行こう!風呂!風呂桶持ってないやろ?この風呂桶貸してやるわ。」訳の分からないまま、風呂桶を持って彼の後をついて行くとそこには大きな浴槽があり、多くの患者さんが入浴しており、病院の事を色々教えて頂いた。ここではひとりで落ち込んでいる暇はなかった。
朝5時半だったと思う、病院内に響きわたる放送に起こされ12月のまだ暗く寒い広場にトレーナー一枚で集まる。中にはTシャツ一枚の患者もいる中、ラジオ体操が始まる。体操が終わると散歩がてらの歩行訓練に行く、走る人もいる。朝食を食べると、冷凍治療が始まる。
冷凍治療の説明を詳しく記すと長くなるのでやめるが、要は液体窒素でマイナス120℃ほどに冷えた冷凍室にほぼ全裸で入る。この中の世界は、普通の生活で人間の体験する世界ではないので経験した者にしか分からないと思う。一秒でも早く出たいために小さな小児リウマチのジュニアや年配のリウマチ患者さんを突き飛ばしてでも自分が先に出たいとの衝動に何度も襲われた。そんな世界であった。
何度かその冷凍室に入った後は、昼食を挟んで夕方までひたすらリハビリと言うか運動をする。この運動が、また、半端ではない。いくら私が痛くって動けなくても、無視され淡々と運動が進み消化されていく。私より遥かに悪いであろう患者さんが平気でこなす運動が私には出来ない。泣きなくなった。
トレーナーに「こっちにおいで~」と呼ばれていくと、「けん引するか~」とのこと。腰痛の初期の頃病院でしていたけん引は椅子に座って首を固定し上に引き上げる。椎間板が引っ張られ少し楽になる。しかし、この病院にある機械は少し違っていた。寝ころんで肩と腰を固定される。「じゃ!今から引っ張りと圧縮をしま~す」との事、「あっ、あっ~しゅく???」頭が???で一杯になる前に無情にも機械は動き出す。肩を固定した部分は足の方に、腰を固定した部分は頭の方に引っ張られる。腰痛になったことがある方は想像できると思うが、まさに拷問である。痛くって涙がでるが、さすがにみんなの手前、声をだすわけにいかずただひたすら耐えた。私は、ここで殺されるのではないかと本気で思った。ここに居れば腰痛は良くなるのではなく悪くなるのではないかと落ち込んだ、事実、悪くなった。「ここに来れば、初めの2週間くらいは今まで動かしてない分もっと悪くなるからね~」と患者さんから笑いながら言われた。
とにかく、ここの病院は先生やナースよりも患者さんに多くの事を教えてもらえる。リウマチで長い闘病生活を送っている人が多いため、こう言えば怒られるかもしれないが痛みのプロである。だから、彼ら、彼女らは人にやさしい。人の痛みに親身になる。
夜になれば、患者さんのベッドの下からおもむろに一升ビンが出てくる。焼酎である。そして、毎夜、宴会が始まる。病室に酒屋さんが御用聞きに来てくれるのである。
院内放送で事務所に呼び出され、何事かとあわてて駆けつけると飲み会の誘いであったりする。
ここの院長は、薬には副作用がある。痛み止めは胃を荒らす、だから、同時に胃薬を飲まなければいけない、またその胃薬にも副作用がある。酒で痛みが取れる痛みならなら酒を飲む方がずっと副作用が少ない。などと言われ、痛み止め薬を飲まない方が誉められた。根が真面目な私は真面目に酒を飲んだ。(笑)
確かに、二日酔いになって割れそうな頭でも、冷凍室に入ればきれいに酒が抜けた。
冷凍室に入る直前に25度の焼酎をコップ一杯飲んで入っても、いつもの冷凍より少しましかなと思うのも30秒ほどでいつもの辛さになる。そして、冷凍室出てくる頃には不思議と酔いはきれいに醒めていた。たまにそうやってコップ酒を飲みながら入る人もいたけど、なんだか酒が勿体なくって私はやめた。
そして、一週間もすると私はすっかり冷研リウマチ村の住人になった。
そして、二週間もすると私は人工芝の上を走っていた。
相変わらず痛みが無くなったわけではないが、患者が動かないことを嫌う院長の言うことを忠実に守るため。(笑)とにかく動きまわっていた。(人は遊びまわっているとも言う)
冷研では、外出は問題なく許可してくれるが、消灯の10時までに帰らなければ、消灯後のナースの見廻りにベッドに居なければ、一応病人である私をナースが探し回ることになる。
消灯を過ぎて帰ると、当然、病院の玄関は施錠されているが、病室のベランダ側のカギは同室の患者さんは閉めずに開けていてくれ、そっと室内に入ると私のベッドの枕灯を付けて於いてくれる。同室の人達はナースの見廻りに「あれ?今まで居たのに便所じゃない?」といつもとぼけてくれた。同室の眠る患者さんに頭を下げてから眠っていた。
しかし、朝の起床は待ってくれない。けたたましく鳴る放送に起こされ、それでも頑張って寝ているとナースが起こしに来る。運動部会系の病院であるが、強く運動を強制はしない。ここの病院は病気を治すのは医者でなく患者本人なのである。
と言ってても、一度強制された事がある。言われなくてもしなければいけない状況なのだけど、年末の餅つきである。病院のみんなの為の餅はかなり必要になる。杵をつける状態の人が少ない中で、「腰のリハビリになるからね~」とか言われて、トレーナーや状態の良い患者さんと朝から夕方まで杵を振った。
自分の腰が力を入れて杵を振れる状態になっている事が嬉しかった。日に日に出来る事が増える事が嬉しかった。遠く親から離れひとり病院にいるジュニア達の楽しそうな笑顔、餅を美味しそうに食べる顔、嬉しかった。忘れられない。
とにかく笑顔が多かった。
ここの病院では退院は自分で決める。帰りたければいつ退院しても、何時まで居ても誰も何も言わない。
私の腰の痛みはずいぶんと良くなっていたが、まだ、かなり痛みは残っていた。一ヶ月の予定が二ヶ月になった頃、退院を決めた。
その頃になると、相変わらず冷凍や運動は辛いけど、毎日毎日が楽しかった。みんなと別れるのが嫌だった。しかし、退院していく患者さんを見送るたびに、社会復帰の集躁感が募った。
ここの病院では、退院する患者をみんなで見送る。
退院当日、私は秘かに出て行こうと思った。みんなの顔を見るのが辛い。だから、退院の時間は敢えてみんなが運動している時間を狙った。が、しかし、窓口で清算を済ましタクシーを待っていると、院内に放送が流れた。私を見送るための集合の放送である。リハビリの時間にかかわらずぞろぞろと患者さん達が集まってくれた。大きな花束を頂いた。こんな準備までしていてくれた人達にお礼も言わずに出て行こうとした自分を恥じた。
深く深く頭を下げタクシーに乗り込んだ。
大分駅から電車に乗り、これも病院の恒例であるがみんなが書いてくれた寄せ書きのノートを見ていると、突然、号泣してしまった。嗚咽を漏らさないように頑張ったがダメだった。
突然、大きな花束を抱え泣きだした、青年を見て、前の席のおじさんは目が点になっていた。
そして、長い月日が流れた。冷研リウマチ村山内病院は今はもう無い。
Google地図の航空写真を見るとそこには広い更地しかない。
狭間町をワンカップの焼酎とつまみを両手に持ってジャージ姿で歩行訓練をする老若男女の患者の集団はもういない。
大晦日の真夜中、雪の降る中みんなで入ったプールはもうない。
冷凍室でワッショイワッショイと叫ぶ声はもうない。
今、こうして振り返ると昨日のことのように、ひとつひとつがありありと写真を見るように目に浮かぶ。でも、夢ではなかったのかとさえ思うことがある。
本当にあとかたも無く消えてしまった。
元患者さんで、冷研の職員でも在られた桜庭麻紀さんの「ガールズ、ビー・アンビシャス」と言う古い本がある。その文中で「冷研リウマチ村卒業生」という言葉があった。私も、冷研リウマチ村卒業生は強いと思う。卒業生は、病気は自分で良くするということを知っているから。そのためなら頑張れる。
私は、その後何度か椎間板ヘルニアを再発した。椎間板ヘルニアは体質の問題が多いと思う。だから出やすい体質は何度でも出る。でも、私は自分で治す術を知っている。病院には行かない。腰痛時は普通以上に歩き廻る。痛くても柔軟運動を繰り返す。この史蹟巡りという趣味もその延長線上にある。腰痛が出ても久しぶりだな~今回はどれほどの痛みだろうかな~さて、どこの史蹟に行って歩こうかな~と、余裕を持って向かいあえる強さを冷研のみんなから頂いた。
最近、50歳になって自転車を買った。このブログのプロフィールに貼った画像の自転車である。
運動不足、腰痛防止の為であるが、これで、史蹟を走り廻るようにしている。そして、いつか、いつの日になるか分からないが、この自転車で大分に行き冷研の在った場所に立ってみたいと、秘かに考えている。秘かに考える必要もないのだけれども。とにかく、秘かに考えている。
その時に、私は自分が何を思い、何を考え、何を感じるのか楽しみにしている。
それも私の史蹟巡りである。
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この記事に
mitsuyaさん、これほど鮮明に冷研リウマチ村のことを覚えてくれているなんて、すごいですね。
30年前に私がいた頃と、まったく同じで、
リウマチ村への思いが、私にも伝わってきました。
冷凍治療は裸同然っていうところで、(笑)ました。
一応水着を着ていましたよ。ビキニの・・・
私は何度もリウマチ村に足を運んでいましたから、mitsuyaさんともお会いしているかもしれません。
卒業しても・・・ また行きたくなってしまって・・・
そしてmitsuyaさんが言われるように、あそこで頑張った人は、
病気に負けず強く生きている人たちばかりですよきっと・・・
mitsuyaさんも夢に向かい、これからも頑張ってくださいね!
2011/4/7(木) 午後 10:56 [ 千鳥草 ] 返信する
千鳥草さん、有難うございます。
非日常の生活はインパクトが強く非常に記憶に残っております。
そうそう、また、当時の事を思い出してしまいました。
私は、最初に入院時に買わされた、薄いペラペラのふんどしを愛用していた。
何故なんだろう~短パンも持っていたのに、短パンで冷凍に入った記憶がない。でも、ふんどしを絶えず洗っていた記憶はある。(笑)
私が、入院していた時、オーストリアかオーストラリアの医者が視察に来ていて、予備室で待つ、私達のふんどし姿を頻りに撮っていた。(笑)
そうですね~お逢いしてればいいのだけれど、私の入院期間は短かったのでどうでしょう。
ビキニ姿の時にお逢いしたかった。(笑)
私は、ふんどし姿で(大笑)
でも、上田のとうちゃんを筆頭に共通の知人がいるかもしれない。
楽しいことです。
そうそう、私も、理不尽にも腰痛悪くなったら、また、冷研に戻れると思ったものです。
2011/4/8(金) 午後 9:48 [ mitsuya ] 返信する
mitsuyaさん、ブログを涙しながら読ませていただきました。
私の父も約30年前に冷研リウマチ村に半年ほどお世話になりました。
ちょうど両親を大分旅行に招待しようと計画しており、父がお世話になった病院を探していたところ、こちらのブログにたどり着きました。でも病院はもうないのですね。でも連れていこうと思っています。
父がお世話になったとき、まだ小さかった私は丸い形をした噴水?プール?のような所をかすかに覚えているのですが、違っているでしょうか?
強直性脊髄炎の父はこの病院のおかげで今も生きております。
ブログを読ませていただきながら、元自衛隊員の父は、ここでの生活は自衛隊の訓練と同じようだったのだろうと感じました。
でも、くじけそうになったとき、小さい女の子も頑張っている姿をみて自分も負けられないと思ったそうです。
退院した後も、家族のために体が痛いながらも働いてくれました。
職員になるという選択があったらしいのですが、家族が離れ離れになるので帰ってきてくれました。
父をみてると、ほんと強いなと感じます。
父もこの度の旅行で何を感じてくれるのか楽しみです
2011/7/6(水) 午前 10:15 [ stomotan ] 返信する
stomotanさん
ありがとうございます。
遅くなって申し訳ないです。
お父様、元気で生きておられてないよりです。(失礼しました)
こんな話を聞くと嬉しいです。
お父様に頑張って生きて行きましょうとお伝えください。
冷研卒業者は、脱落者は許さない(笑)
冷研で年末、ある女性と口論したことがあります。
彼女とこの一年間の振り返っての話から、彼女は遥々大分まで入院した事を不幸と言う。
私は、腰痛のおかげでこんな素敵な人々と大分で巡り逢えた事を幸せと言う。
私は、今でも、冷研を知り得た事で幸せだったと思いたい。
この、我がままなブロクに来てくれる、千鳥草さんやstomotanと知りあえた事を、幸せと呼びたい。
実は、Googleの地図の航空写真には、冷研は更地になっているんだけれど、楽天の地図では、冷研の航空写真が残っております。
ここが病室棟、ここが冷凍室棟、ここが事務所棟と確認できます。
事務所棟前のプールは確認できませんが、確かに間違いなくありました。
私が保証します。(笑)
お父様が良き心の旅行を楽しまれる事を、私も楽しく
2011/7/8(金) 午後 9:45 [ mitsuya ] 返信する