小笠原歩
(左)神話時代 (右)現代 | |
基本資料 | |
本名 | 小笠原歩 |
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通り名 | デリング、オノデリング、ガッツ |
生没年 | 1978年11月25日生 |
身体情報 | 0.994hyde(155cm)/47kg |
職業 | カーリング選手 |
好物 | 船山弓枝、目黒萌絵 |
嫌物 | 生魚 |
出身地 | 北海道北見市 |
所属 | 北海道銀行フォルティウス |
小笠原歩(おがさわら あゆみ、旧姓:小野寺、1978年11月25日-)は、北欧神話に登場するアース神族の1人「デリング」(Dellingr)がカーリングを日本に普及させるために降臨した姿のことである。
目次
[非表示]北海道に降臨するまで[編集]
北欧神話のモブキャラ[編集]
デリングは北欧神話における「曙光」、つまり「朝」を示す神であり、昼を司る神「ダグ」の父親として登場する。デリングは色白で快活であり、喜怒哀楽が激しいながらも天真爛漫さがあり、また有言実行の神でもあったため常に他の神々から慕われ、周りには神々の姿が絶えることが無かった。
そのデリングは氷の上で石を投げて遊ぶという趣味があり、安息日には他の神々とチームを組んで氷上に置いた的をめがけて石を投げて遊んでいた。これが現代のカーリングの原型と言われている。
やがてデリングは夜を司る神であるノートと結婚し、ダグをもうける。ダグは父デリングに似て白い輝きを持ち、デリング一家は常に仲睦まじく、安息日には一家と「デリングチーム」を組んで仲間達と氷の上で石を投げ合って楽しむというリア充生活を送っていた。安息日に凍った湖の上で「パパへたくそー」とダグが大笑いする姿は北欧神界の名物であった。しかしそれを知ったアース神族の頭領であるオーディンが激しく嫉妬し、オーディンはデリング一家を崩壊させるためにノートとダグを拉致して強制労働に放り込んでしまう。
突然リア充生活が強制終了させられたデリングはショックのあまりしばらくひきこもり生活を送るが、その様子を見るに見かねたユミルから「また一緒に石投げよっか?」と誘われたことをきっかけに、外に出て趣味の道を極めることを目指し始める。オーディンの横暴さに辟易としていた他の神々もデリングの姿勢に共感し、現代のスコットランドにあたる地で氷の上で石を投げる競技会をユミルと二人三脚で作り、アース神族のローカル大会にまで発展させた。
ユミルによって立ち直り、神界でスポーツ競技の原型を作り上げたデリングは、その後もユミルといつまでも仲睦まじく暮らしたという。
しかし後に下界の人達が北欧神話をまとめた時にオーディンの神格性を確保すべきという理由でこの逸話はなかったことにされ、北欧神話ではデリングは「名前だけ登場」という酷い扱いを受けることになった。早い話がモブキャラである。さらにユミルは本来は小柄で華奢な女神であったが、何故か両性具有の巨人に設定変更させられた。
北海道に降臨[編集]
北欧神話の改竄に辟易としたデリングであったが、彼が考案した「氷の上で石を投げる競技」は「カーリング」という名前で北欧中心に普及し、19世紀末までにヨーロッパ全域とアメリカ、カナダまで広まった。その様子を見て、デリングは「モブキャラ扱いされた自分にも出来るんだという存在がある」と誇りを持っていた。
一方、アジア地域での普及は遅れた。1980年に北海道がカナダのアルバータ州と姉妹提携したことを機にようやくカーリングが日本に紹介され、常呂郡常呂町(現北見市)が町を挙げてカーリングの普及を始めたが、ビールの樽やガスボンベ、水の入っているやかんなどをストーン代わりにして普及させようとしたため「カーリング=生活道具を使った珍スポーツ」というイメージが北海道内で確立しかけてしまった。この様子を天上界で見ていたデリングは「このままではただのイロモノになってしまう!」と危機感を覚え、本来のカーリングを日本でも普及させるために北海道に降臨する事を決意する。
そしてデリングは降臨先の選定を行った。間違っていた姿ではあるがカーリングの普及に熱心である常呂町に住んでおり、かつ自身の名前「デリング」の文字の一部が名前に含まれている家庭を捜索したところ、大規模農園を営む「小野寺(オノデラ)家」を発見。小野寺家には1978年に生まれたばかりの娘が居り、さらに母親がカーリングを行っているということもわかると、デリングは「『オノデラ』と『カーリング』を組み合わせれば『オノデリング』になるじゃないか!!ファンタスティック!!」と柏手を打つ。すぐに現世降臨への手続きが取られ、デリングは常呂町で「小野寺歩」として過ごしていくこととなった。
降臨にあたり、男神であるデリングが女の子に降臨することを不安視する神も居たが、案の定デリングは「女の子になれば合法的に女湯に入れる・・・グヘヘ」と良からぬことを考えていた。しかし鼻の下を伸ばしていたデリングをユミルが「ちゃんと監視するからね。変なことしたら地獄に落とすから」と100回以上きつく釘を刺したことで神界も安心。晴れて北海道に降臨することになった。
降臨後から一回目の引退まで[編集]
シムソンズ結成[編集]
デリング改め小野寺歩は自身がカーリングの祖であることを周りに悟られないため、母親がカーリング選手として活躍する姿を興味無さそうに見るだけにとどめた。それは地元の北海道放送を巻き込んでカラフトマスの成長を楽しみに観察している姿を撮影させるという念の入れようであった。そして中学生になったある日、同級生の加藤章子(現姓:関和)から林弓枝(現姓:船山)とともに誘われる形でカーリングを始める。これが「シムソンズ」の結成である。ここでも「同級生に誘われた」体を取ったことで、小野寺は自身の素性を周りに気付かれないまま日本のカーリング界に入り込むことに成功した。
しかし、北欧とは勝手が異なる日本の練習に小野寺はなかなかついていく事が出来なかった。元々体が硬かった小野寺は、コーチにストーンの投げ方やスイープの仕方を教わっても加藤や林のようにこなすことがなかなか出来ない。石を投げようとしたら石ではなく自分が飛んで行ったり、氷をスイープしようとしたら自分の足を掃いてしまう有様であった。カーリングの祖にあるまじき事態である。いつしか小野寺は「どうしてこうなった。降臨先を間違えたかも…」と後悔するようにまでなってしまう。
ここで小野寺を救ったのは後に生涯の伴侶となる林弓枝であった。練習メニューがこなせずに涙を流しながら帰路につく小野寺を、林は時には何時間も掛けて話を聞き、励まし、練習にも付き合い続けたことで、小野寺は「弓枝(林)と一緒ならカーリング(の普及まで)出来るかも!」と思うようになる。ただし意外にも当時はチームメイト以上の仲にはならなかったという。その後小野寺はシムソンズと共に徐々に力をつけ、シムソンズはジュニアカーリング選手権で好成績を挙げるようになる。当時のポジションは主にセカンド(チームの2人目担当)であった。
そして1998年の長野オリンピックでカーリングが正式競技に採用され、シムソンズのスキップを務めていた加藤が女子日本代表として出場。オリンピックを通じて冬季スポーツ競技が注目を集めたことで、カーリング普及という目標を果たすために五輪で活躍することを小野寺は目指すようになる。
ソルトレークシティの悲劇[編集]
2002年ソルトレークシティオリンピックでは、カーリング日本選手権で優勝したチームを日本代表にするというレギュレーションとなり、小野寺は加藤、林らとともに「シムソンズ」として五輪を目指した。2001年の日本選手権でシムソンズが優勝したことで日本代表の座を勝ち取り、小野寺は代表のセカンドとして五輪に出場。ちょうど良いタイミングでネット掲示板では小野寺を「オノデリング」と呼ぶ人も出始め[1]、この五輪を通じてカーリングの日本普及を果たす・・・はずであった。
しかし、ソルトレークシティで待っていたのは悲劇であった。
初戦のアメリカ戦で5点リードをひっくり返されて敗戦すると一気に7連敗を喫し、あっけなく予選リーグ敗退。さらに負け試合のハーフタイムで「あー寿司食いてえ」「今日は酒を買わなきゃ」といった本音トークがピンマイクを通じて日本全国にオンエアされてしまったために、「五輪は観光じゃない」「カーリングはスポーツじゃない」とバッシングされ、カーリングという競技がバンクーバーオリンピックにおける國母和宏のような悪いイメージで日本全国に普及してしまう。
問題となったシーンは後にトリノオリンピックで「おやつタイム」として熱狂的なファンを持つハーフタイムイベントになるが、当時はハーフタイムで一旦チームの空気を緩めることに対する世間的な理解が無かった。
五輪後のシムソンズは成績も振るわず、加藤らが結婚を控えていたこともあり同年末限りで解散。シムソンズメンバーのうち小野寺と林の2人だけがカーリングを通じて町興しを図っていた青森県に急行はまなすで移住することになる。それは同じ年に五輪に出場した選手とは思えない寂しい光景であった。
トリノオリンピック出場決定まで[編集]
青森で再出発することになった小野寺は、林とともにカーリング教室の講師をやって生計を立てつつ、教室外ではカーリングの練習からオフの温泉巡りまで24時間365日一緒の生活を送る。初めて2人で温泉に行った時に小野寺は自身と違って[2]華奢な林の裸を見て「弓枝の奇跡が…」と感動し襲いたくなる衝動に駆られたが、降臨前にユミルから「変なことしたら地獄に落とす」とキツく言われていたことを思い出して何とか踏みとどまり、そっと裸体を眺めるだけで我慢した。現在でも一部のファンが妄想を爆発させている「百合すら超越する2人一緒の世界」はこの時期に培われている。
その後2003年に期間限定チーム「RingoStars」を結成して日本カーリング選手権3位の成績を残すと、、ミキ フジ ロイコーチの引き合いで目黒萌絵と寺田桜子が加入して「フォルティウス」(後のチーム青森)を結成する。翌2004年の日本カーリング選手権で優勝。さらにトリノオリンピックに向けた日本代表候補強化合宿兼選考会にも優勝し、2005年3月に行われた世界女子カーリング選手権で9位に入ったことでトリノオリンピックの出場枠を獲得。これでチーム青森がトリノオリンピックの代表チームにほぼ内定し、再び五輪出場への道筋が開かれたかに見えた。
しかし2005年2月の日本カーリング選手権でチーム青森がチーム長野に連敗して優勝を逃していたことを日本カーリング協会が問題視し、代表選考の是非を再検討。2005年11月にチーム長野とチーム青森だけを対象にした代表選考会が行われることになり、一度は見えたはずの五輪出場、そしてカーリングの日本普及への道筋が消えかけてしまう。この時から小野寺がチームのスキップ(主将兼4人目)を務め始めていたこともあり、「自分のせいで五輪に出られなくなるのかも…」と思い悩むようになった。
悩んだ小野寺は、チーム長野との決戦直前に意を決して、林に自身が「デリング」であることを告白する。一番心も体も許せる相手にこれまで隠し続けていた事を告白し、これからも一緒に頑張って行こうとするために。
が、北欧神話に興味が無い林から「ちょっと何言ってるか分かんない」と冷静に返されてしまう。それでも林に「歩が神様かどうかは知らないけど、いつも『自分たちにも出来るんだという存在があるという事を見せよう』って言ってきたよね。あと少しじゃない?頑張ろうね」と諭されて前を向き始める。
この後行われた代表決定戦でチーム青森はチーム長野に勝利し、トリノオリンピック代表の座を勝ち取った。小野寺がスキップというこれ以上ない条件の五輪再挑戦。舞台は整っていた。
第一次カーリングブーム[編集]
そのトリノでは予選リーグ前半戦で小野寺は調子が出ず、最初の4戦で1勝3敗とつまづいてしまう。3敗目を喫したデンマーク戦では試合終了後に涙を流し、林にスキップ交代を申し出るまで思いつめていた。
しかし林から「歩、あなた自分が神様って言ってた割には随分弱気ね?思い切ってやればいいじゃない」とスルーされていたはずの前年の発言を持ちだす形で尻を叩かれる。これで目覚めた小野寺は「スーパーデリング」モードが発動。優勝候補の一角カナダを神がかり的なショットを連発して破り、同五輪で金メダルを取ったスウェーデンには敗れはしたものの延長戦までもつれる大接戦。目標であったメダル獲得はならなかったが、予選最終日までその可能性を残したこと、また同五輪で他競技の日本選手が総じて悲惨な成績であったため、「他がダメだからカーリングでも見るか」と何となくNHKのBS中継にチャンネルを回した日本人を多数惹きつけられたことで、全国でカーリングブームが巻き起こった。
トリノから帰国後、小野寺を含めたチーム青森のメンバーは「カーリング娘」として一躍スターになり、直後に行われた日本カーリング選手権では競技場が大入り満員。さらに日本全国のスケート場にカーリングの可否を問い合わせる事象が多発。他にもカーリングのゲーム化やチーム青森メンバーのCM出演、小野寺には自叙伝執筆の話が舞い込み、挙句の果てにウィキペディアの本人項目が編集保護されるなど、デリング降臨時の目標であった「カーリングの日本普及」が一気に果たされる事になった。
一度目の引退[編集]
五輪出場前は予想だにしなかった急な環境の変化に戸惑いながらも、目標達成を実感したデリングは「これでやっと休める」と天上界に戻ることを決意。小野寺が幼馴染と結婚して「小笠原歩」となった日の夜、デリングは小笠原の元を離れて天上界に戻ろうとした。
ところが天上界に居たユミルから、「デリング、まだあなたは本当のラストストーンを投げていないでしょう。しばらくは主婦としてカーリングを見守り続けなさい。再出発すべき時期は必ず来ます。あとそっちに居る弓枝ちゃんにあなたのお守りを頼んでおいたから大事にしてネ♪」と下界にとどまるように促される。デリングはこれ以上の普及はないだろうと思ったが、この言葉もあって下界にとどまり、しばらくの間はカーリングを裏から支えるようになる。
復活[編集]
「バンクーバーの沈黙」を見て[編集]
競技の一線を退き家庭に入った小笠原は、道内のカーリング大会に助っ人として突然出てきたり、B級グルメで舌を火傷しそうになったり、何故か裁判員制度のパネリストに呼ばれたりするなど悠々自適の日々を送る。それでも、いつか来るかも知れない現役復帰を林と一緒に実現するために「出産は林さんと話し合って決めます」と宣言し、[3]その宣言通り2人は2009年にわずか3ヶ月差で第一子を出産する。この「デリング」という神様はコウノトリを御するスキルも持ち合わせているようである。
その出産は、本来男神の「デリング」である小笠原にとっては大きな苦痛を伴うものであった。「男だったら絶命する」とまで言われる陣痛に苦しみ、出産間際は本当に死にそうな勢いで四六時中叫び続けたが、身体は女であったため何とか耐え切った。この経験から「カーリングでミスして泣いてた自分がバカらしくなった。もっと強くなった」という心境の変化が生まれている。小笠原はデリング時代以来数千年ぶり、かつ自分自身が産んだ子供を見て感動し、「今度は絶対に最後まで育てる」と思ったという。
そんな中、2人の後を引き継いだチーム青森は2008年の世界女子カーリング選手権で過去最高の4位を記録し、チームの愛称を「クリスタル・ジャパン」にするなど、トリノよりもメダルの期待が高まっている中で2010年のバンクーバーオリンピックに臨んだ。予選リーグの最初の5試合を3勝2敗と勝ち越し、特に5試合目のロシア戦では6点差を逆転するなど、日本カーリング史上初の決勝トーナメント進出への期待が嫌が応にも高まっていた。
しかし、ここから一気に転落した。
トリノ当時と比べてチームワークに難があったチーム青森は次のドイツ戦で負けると止まらなくなり、最終戦まで4連敗を喫してトリノを下回る8位で予選リーグ敗退。連敗中はメンバーの選出に日本中から疑義が挙がり、投球中にチーム青森の別々のメンバーから「ヤップ(氷を掃け!)」と「ウォー(待て!)」という相反する掛け声が同時に出てくるシーンも連発。更にはチーム青森メンバー同士が一触即発の雰囲気になったシーンが全国にオンエアされるなど、日本の視聴者を大いに白けさせてしまう。最終的に日本の各放送局からも見放されて最終戦は「放送なし」という扱いも受け、カーリングがオワコンの雰囲気すら漂う状況に陥った。
4年前とは明らかに異なる風景。このままではカーリングの灯が消えかねない。その様子をオリンピックのゲスト解説者という立場で見ていた小笠原の選択は・・・
「弓枝!ソチ行くよ!」
背中を押されて[編集]
突然の申し出に船山は「へ、ソッチって?あたしの家?それとも空知?なんで?」と素で返した[4]が、「とにかく話そうか」ということになり、小笠原はまだ1歳にもならない子供を連れて船山の家を訪れる。
ところが小笠原は船山と顔を合わせた瞬間黙ってしまった。トリノ後は多くのイベントに2人セットで出演し、幾度と無く「いつか復活する」と言い続け、さらに出産時期も合わせた。2008年にはミックス(男女混合チーム)のローカル大会で「Rice Getters」というチームの助っ人に2人で参加し、2人で一緒に復活する時の予行演習も済ませている。が、今それを決断する時が来てるのに、なかなかそれを言い出せない。
「目の前に居る乳飲み子どうするの?」
現役復帰したら、練習中や試合中、遠征期間中は子供の面倒を見ることが出来ない。誰かに面倒を見てもらう必要がある。もし、その「誰か」が悪意を持っていたら…?デリング時代に、妻と子供が攫われて二度と会えなくなった過去がある。もうあのような思いはしたくない。そのトラウマが「また一緒にやろうよ」という言葉を発するのを躊躇させていた。
ここで船山が「歩が来る前に、ユミなんとかと言う神様から『お告げ』があったんだよ?無事出産時期も合わせられたんだし、復活するなら今だって。子供のことだって、みんな助けてくれるから!それに、歩のことよろしくって。あの神様にお告げされたのはこれで3度目。キレイな女神様だよねー。私と名前似てるし」と小笠原に告げる。
その神様が誰であるか、小笠原はすぐに分かった。彼女から4年前に言われた「再出発すべき時期」は今でしょう…と。背中を押された小笠原は「これから、一緒によろしくお願いします」と船山に伝え、ここから復活劇が始まる。
「北海道銀行フォルティウス」結成[編集]
現役復帰を正式に決めた小笠原は、まずはメンバーの選定と活動資金をサポートしてくれるスポンサー探しに奔走した。同級生に誘われて入ったシムソンズ、失意の中誘われたチーム青森と違い、自らの意志で1からチームを作るのは初めてであった。また子供の手が離れない時期でもあり、子育てをしながらチーム作りをするという苛烈な挑戦でもあった。
ただし、1人ではなかった。隣には20年来の付き合いになる船山が居た。
小笠原が熱い思いを語ろうとして泣き出して意味不明状態になっている横で、彼女の言いたいことを冷静に解説する船山のコンビはチームの初期構築を促進。まずは2010年秋までに3人目のメンバー吉田知那美の招聘と、メインスポンサーとして北海道銀行を確保する事に成功し、2010年11月8日に小笠原・船山・吉田の3人で現役復帰記者会見を行った。冷静に熱い思いを語る船山の横で終始泣いていた小笠原の姿を見て「良くも悪くもこの2人変わってねええええ」とファンは昔を懐かしんだ。
しかし、その後のメンバー招集は難航した。
女子カーリングは藤澤五月率いる中部電力カーリング部や本橋が率いるロコ・ソラーレなどを中心に群雄割拠の体をなしており、各地で有力なカーリング選手の取り合いが起きていた。結局2010-2011年シーズン開始までにメンバー4人を揃えることが出来ず、同シーズンは長野オリンピック男子代表の佐藤浩を助っ人に入れた「チーム佐藤」という肩透かし感満載のチーム名で地元のカーリング大会に出場するだけにとどまった。「こないだまで焼きそば売ってた人がいきなり上に行けるわけ無いかー」と、ソチではなく平昌オリンピックを目標に据えたのはこの頃である。
そこで目をつけたのは吉田の元チームメイトであり、その後カーリングから離れ陸上七種の選手として中京大学に所属していた小野寺佳歩であった。小野寺には2010年夏の時点で一度声をかけていたが、当時は断られていた。しかし同年大晦日に小笠原・船山・吉田の3人で小野寺の実家を訪問。さらに翌年には3人で愛知県にある大学にまで訪問した。この三顧の礼を受けた小野寺はとうとう折れ、チーム参加を決意。これで4人揃い、晴れて2011年4月に新チームを正式スタートすることになった。
新チーム名は、チーム青森の結成時名称の「フォルティウス」を入れた「北海道銀行フォルティウス」となった。「シムソンズ」にしなかった理由はお察し下さい。
その後、同年8月にはミキ フジ ロイがヘッドコーチに就任し、9月には5人目の選手として苫米地美智子が加わりチームが完成。この苫米地は前年に一度フォルティウスへの参画を逆オファーし当時は一度話が流れたものの、翌年に苫米地がミックスダブルス(男女混合の2人制)の海外遠征からちょうど帰国したタイミングで小笠原が電話でオファーして加入が決まったという経緯がある。小笠原の「一度狙った獲物は逃さない」というストーカー戦術執念深さがチーム構築の上で大きかったことを示している。この様子を船山は「(小笠原)歩はこの人が必要、と思ったら死ぬまで付いてくる。私も気づけば20年以上…」と実感を込めて述懐する。
日本代表へ[編集]
フォルティウスはチームメンバーが揃った2011-2012年シーズンから本格的に始動する。小笠原は時に厳しく激しく小野寺、吉田、苫米地を指導し、そのサポートを船山が務めた。練習中は厳しく3人を叱り、お手本の一投を見せようとして失敗して「アレ?」と苦笑いする小笠原が練習終了後に船山から叱られるという風景はフォルティウスの風物詩となっていた。このシーズンは日本選手権で4位とそこそこの成績を残す。
翌2012-2013年シーズンは、札幌市に完成した通年のカーリング施設どうぎんカーリングスタジアムが使えるようになったこともありチーム力が一気に上昇。2013年2月の日本選手権では予選リーグを1位で突破してソチオリンピック世界最終予選日本代表決定戦の出場権を獲得し、一気に日本一に突き進むと思われたが、決勝戦で中部電力に敗戦。中部電力がソチ五輪出場への高い壁となって立ちはだかっていることを実感させられた。
その中部電力は「美しすぎるカーリング娘」という見出しで写真週刊誌に度々掲載された市川美余を筆頭にマスコミから持て囃され、9月の代表決定戦でも中部電力が本命視されていた、というより正確にはマスコミが中部電力をソチに行かせたがっていた。マスコミはカーリングの選手達を「五輪で視聴率を稼ぐためのマスコット」としか見ていなかったのである。代表決定戦をBS中継したNHKの番組オープニングでも中部電力のメンバーばかり映されており、フォルティウスは完全に脇役扱いであった。下世話な事情を抜きにしても、中部電力はバンクーバ五輪以降の3シーズンで日本選手権3連覇という実績もあり、前シーズンの世界選手権に日本代表として久々に出場し、ソチ五輪世界最終予選の出場枠を日本にもたらした功績もある。扱いとして中心になるのはむしろ当然であった。
しかし、代表権を勝ち取ったのはフォルティウスであった。
2012年のパシフィックカーリング選手権をピークにチームが下降線をたどっていた中部電力は予選リーグで3勝3敗と伸び悩み、タイブレークを制して何とかフォルティウスとの決勝戦に進出。しかしここでも良いショットが続かない。最後には選手同士で言い合いをするという、バンクーバーのチーム青森の再来のようなシーンも見せてしまい、ほぼ自滅の形で敗退。小笠原・船山の「あゆみえコンビ」を筆頭にチームワークが優れていたフォルティウスが予想以上にあっさりと代表権を獲得した。
この結果に対して、日本国内の評価は二分された。トリノを見ておらず、マスコミ報道でカーリングの若いメンバーに興味を持っていた人達からは「市川でも本橋でもなくて35歳のBBAかよ…」と捨て台詞を2chやTwitterなどに吐く人が続出した一方、「あの2人が戻ってきたのか!!」とトリノを懐かしんで喜ぶ人も多く出た。特に代表決定直後に小笠原が抱き合った船山を押し倒しそうになるシーンを見て、よく分からない熱い何かを思い出す人達も少なくなかった。
その喧騒を他所に、小笠原は少し寂しい思いをしていた。
カーリングはチームワークのスポーツであるのに、日本でそれが出来ているチームがフォルティウスしか無い。天上界に居た頃から「チーム」を組んでいたデリングとしては、それが一番看過出来なかった。またこの代表決定戦の結果を民放キー各局がこぞって「小笠原・船山の復活」ではなく「市川の涙」として報道しており、カーリングがマスコミから「スポーツ系アイドルの発表会」としか見做されていない状況についても危機感を覚えた。30~40代のカーラーが多く居る世界と比べて、日本のようにアイドルっぽい若い選手を使い捨てするような状態では永遠に経験不足を嘆き続けることになるし、何よりカーリングの普及が頭打ちになる。
その流れを止め、今度こそ日本にカーリングをあるべき姿で普及させることが、7年前に「まだ投げていないでしょう」と言われた本当のラストストーンであるのだと。そのために先ず絶対必要になるのが「ソチオリンピック出場権獲得」であるのだと。それに気づいた小笠原は、過去に無いほどの重圧を背負い込むことになる。
ソチオリンピック代表へ[編集]
トリノ以前と比べたらカーリングの競技環境は飛躍的に向上した。マスコミが取り上げてくれたことをきっかけにカーリング場が増え、チームの数も飛躍的に増えた。しかし中部電力の敗退というマスコミの期待を裏切る結果が出ていたが故に、ここで五輪を逃したら「ババア頼りでも弱い、終わった」「負けるのならせめて市川を出しとけよ」などと猛バッシングを受け、カーリングが普及するどころかデリング降臨前の状態にまで逆戻りしかねない雰囲気であった。「失うものがある」状態で大一番に臨む小笠原にかかる重圧は非常に重いものであった。
が、重圧があろうが無かろうが実際のプレーにあまり影響しないのがこの人の特徴である。
チーム青森の頃から初戦に弱い小笠原はソチオリンピック最終予選でもスロースターターの本領を遺憾なく発揮し、参加国の中では力が落ちる初戦のイタリア戦で度々ミスを犯して第9エンドまで同点という接戦を演じる。この時の2ch実況スレは「俺達は最下位決定戦を楽しんでいる」「日本の最後の勝利を見届けよう」という自虐的な書き込みで溢れていた。
そのイタリア戦を何とか勝利した後も、ノルウェー戦では4点取った後に3失点するという劇場を演じる。さらに次のラトビア戦では小笠原のミスをきっかけに3連続スティールを食らって第7エンド終了時点で4-7、かつ残り時間も少ないという厳しい状態になったが、大逆転で3連勝。この試合ではスキップのショット率50%台(58%)で勝利するという世界大会では稀に見る珍記録も出し、「追い詰められて目が覚める」「何故か結果は順調」というデリング劇場初級コースを披露していた。
「これでは残り試合全敗」と思われていた中、第4試合目のドイツ戦から久々にスーパーデリングモードが発動。この試合の小笠原はほぼノーミスで10-4と圧勝し、次のチェコ戦でも試合中盤までスーパーショットを連発し「デリングどうしたんだ?何か悪いモノでも食ったのか?!」と逆に心配になる観戦者が続出。第8エンドで2投目をショートさせてスーパーデリングモードが終了した時、多くの観戦者がホッと胸を撫で下ろした。フォルティウスは5連勝を飾り、プレーオフ進出を決める。
しかしここから小笠原が悪デリングモードに急変する。予選リーグ最後の中国戦はスルーやショートなどのミスショットを連発して前半で大量リードされ、わずか6エンドでコンシード(ギブアップ)。さらにプレーオフ第1戦の中国戦では他の3人が前試合とは別人のような出来を見せたにも関わらず小笠原が足を引っ張ってしまい、プレーオフ1位による五輪出場権獲得を逃す。この試合で五輪行きを決めるつもりだった小笠原は、まだ五輪が消えたわけではないにも関わらず試合後インタビューで泣きだしてしまった。
物凄く落ち込んでいた小笠原を、船山と他チームメイトとコーチが「次は勝てるから」と励ます。しかしその声は届かない。珍しく、船山の檄すら届かない。ショックを引きずったままの小笠原は続くノルウェー戦でも第3エンドで大量得点のチャンスを自ら潰してしまうなど、苦しい展開が続いた。2013年の日本スポーツ界はJリーグで最後に連敗して優勝を逃した横浜F・マリノスなどのように目標を目の前で失うシーンがトレンドになっており、フォルティウスもこの流れを続けてしまうのかと思われた。
ここで小笠原の状態を戻したのは、長男から「ママが変なことしないように」と見張り役として託されたガッツ星人であった。
最終予選ではガッツ星人が試合会場のスコアボードの裏に立ってチームを見守っていた。しかし予選リーグの中国戦からプレーオフノルウェー戦の前半までガッツ星人は寝ていて見張り役をサボっており、ノルウェー戦のハーフタイムにそれに気づいた小笠原が「起きなさい!」とガッツ星人を叩き起こす。ガッツ星人からお詫びに力をもらった小笠原は通常モードに戻り、ノルウェーとの我慢比べに勝ったフォルティウスは第8エンドで6点を叩きだして一気にソチ出場を決めた。本物のガッツ星人は途中まで調子が良くても最後に木っ端微塵に砕かれることから「最後にデリングが壊れそうで縁起悪い」と心配する向きもあったが、壊れたのはノルウェーの選手達であった。
重圧から開放された小笠原は、試合終了直後に座り込む。しかしそれは歓喜の座り込み。同じ「35歳アスリートの座り込み」でも、目標を目の前で逃した中村俊輔と、目標を達成出来た小笠原歩の姿は全く様相が違った。2人とも求心力があるアスリートであるが、明暗を分けたのは、味方選手が全員「頼ってしまった」俊輔と、船山や他選手達だけでなく天上界の神々やウルトラ怪獣までが「盛り立ててくれた」小笠原との違いにあると言えるだろう。
ソチ劇場[編集]
目標を果たしたフォルティウスメンバーはメディアとカーリング関係者達から大歓迎を受けながら凱旋帰国した。凱旋インタビューで小笠原が宣言したソチの目標は「5位以内」。五輪出場までのプロセスを知っている人に取っては「無謀すぎる」と言われ、それを知らない人達からは「メダルを目標にしない時点でダメじゃね?」と言われる、ほとんどの人から支持されない微妙な目標であった。
一方で小笠原はなんとフライデーでグラビアデビューも果たす。本来は中部電力の市川美余を「五輪美女アスリート」として撮影しまくる予定だったカメラマンとフライデー編集者に対して「キレイに撮ってくださいね(笑)」という誰得なコメントも発し、無駄にサービス精神が旺盛な所をアピールした。他にも道内メディアから小学生当時の顔がパンパンな田舎娘姿を暴露されるなど散々弄られるが、一連の取材やメディア出演は札幌市内で受けるにとどめ、来る本番に向けてコンディション調整を図った。
しかし、小笠原を含めた日本の「嫁」を務める人達にとって最大の関門、「正月の親戚周り」が待ち構えていた。
2014年正月、2大会ぶりのオリンピアンとなった小笠原の元には「会ったこともない親戚」が殺到。嫁としての務めを果たしながら挨拶回りを行うという日本ならではの苦行を強いられた小笠原は、正月明けのスコットランド遠征に向かう新千歳空港に疲れ切った姿で登場する。一方で同じような目に遭っていたはずの船山は至って涼しい眼鏡っ子顔で空港に登場していた。
そのスコットランド遠征の終盤に、小笠原がオリンピック日本選手団の旗手を務めることが決まる。「弓枝が居ないのに旗持てるのか」「道に迷って選手団ごと迷子にしてしまうんじゃないか」「五輪史上最大のハプニング間違いなし」と35歳の選手に対してとは思えない心配の声があちこちから挙がっていた。
迎えた開会式では、小笠原は顔面と全身が硬直した状態で登場しながらも、なんとか道に迷う事無く旗手の勤めを果たす。道に迷って船山が助けに来るというハプニングを期待した一部の人達に安心感と肩透かし感を与えて、本番の試合に挑んだ。
予選リーグ序盤戦[編集]
初戦の韓国戦の前日、フォルティウスに思わぬトラブルが発生する。
セカンド小野寺佳歩、インフルエンザ発症。
前年の五輪予選で急成長した不動のセカンドが数日離脱してしまうという大ピンチ。急遽リード予定だった吉田をセカンドに移し、調子を落としておりリザーブに回す予定だった苫米地をリードに回すというスクランブル体制を敷かざるを得なくなった。戦術もドロー系ショットを得意とする反面テイクアウト系ショットが不得手な吉田を活かすために「セカンドもドロー系中心」という世界であまり見ない戦術に切替え、バンクーバー前年のチーム青森以来相性の悪い韓国に対して試合中盤まで互角の試合を演ずる。
しかし、ただでさえドロー系が決まりづらいソチのアイス、かつアイスが読めていないため他国もあまりドロー系を投げてこない初戦でドロー系中心戦術に切り替えたのはあまりにも無謀すぎた。吉田が調子を出せない中で小笠原が初戦にしては珍しく好ショットを多く出してカバーしたが、第6エンドのラストショットがアイス上のゴミを噛んだ影響で大きくショートしてしまうハプニングが響き、初戦を7-12で落とす。
しかし次のデンマーク戦では吉田のショット精度が上がり、小笠原も要所要所できっちりショットを決め続けて8-3の快勝。続くロシア戦では小笠原が第8エンドで豪快なスルーをやらかしてしまうものの、第2戦よりさらに状態が上がった吉田と好調の船山に助けられて8-4と連勝。「あれ?思ったよりやれるんじゃね?」と思わせた。
予選リーグ中盤戦[編集]
4戦目から小野寺が復帰する。3戦目までやや不調だった苫米地をパワーとスイープ力に長けている小野寺に入れ替えてベストメンバーが揃い、最下位のアメリカ相手に勝ってさらに勢いをつける・・・はずであった。
が、そんな舐めたプレイが出来るほどフォルティウスは力がついていなかった。
復帰した小野寺が第1エンドのファーストショットがハウスをスルーしてしまうと、それを皮切りに試合は超低レベルなミスショット合戦に突入。セカンドをドロー系ショットが不得意な小野寺に変えたにも関わらず3戦目までと同様にセカンドにドロー系を多用させた戦術が仇となり、ミスを繰り返すうちにアメリカにミスショット合戦から抜けだされてしまい6-8とこの試合を取りこぼしてしまう。
続くイギリス戦はソチ五輪最低の試合であった。フロントの吉田と小野寺が何も出来ず、小笠原の手番に来る前に当該エンドの勝負が決まってしまっているシーンが連発。第7エンドで船山と小笠原まで崩れてしまい5点もスティールされて3-12になったところでコンシード。TVで観戦していた人達を大いに落胆させた。
次のカナダ戦では吉田に代わって出場した苫米地が最高の出来を見せ、小野寺が相変わらず不調だったもののカナダのセカンド(日本名:田中真紀子)も不調だったため接戦となり、第5エンド終了時点では5-4とリードして金星なるかと思わせたが、第8エンドで小笠原が最後のドローショットをミスしてスティールされたことが響き、6-8と逆転負けを喫する。残り3戦の相手関係を考えると予選リーグ突破が極めて厳しくなり、「あと3試合気楽に見よう」と観戦者のほとんどが終戦モードになった。
予選リーグ終盤戦[編集]
許してくれたスイス戦[編集]
しかし、フォルティウスはここから脅威の粘り腰を見せる。第7戦のスイス戦は調子の上がらない小野寺をリザーブに戻し、勝っていた第3戦までのメンバーに戻すと、スイスのスキップ「許してくれないミリアム・オット」にあこがれていた吉田が好ショットを連発。一方そのオットはドローショットのミスを連発し、第5エンド終了時点でフォルティウスが5-2とリードする。その後第6エンドで追いつかれたものの第7エンドでまた2点突き放し、最終エンドの小笠原の一投でキレイに勝つはずであった。
・・・が、そのショットがスルー。推定2千万人以上の日本の視聴者をずっこけさせ、エクストラエンドに突入する羽目になった。
それでもエクストラエンドで吉田の好ショットとオットのミスショットに救われて9-7で勝つには勝ったが、「また劇場か」「我々が見ているのはデリング劇場だと思い知った」と呆れる観戦者が続出した。
そして、このプレーに対して船山が「ああいうのはよく見ているから」と報道陣に吐き捨てた後、宿舎(2人部屋)[5]にて・・・
- 「歩、ちょっとそこに座って」
- 「・・・はい」
- 「ああいうのは、本当によく見るわね」
- 「・・・・・・」
- 「あ、ドアが開いてるから閉めてね」
- 「・・・はい」
- (…ガチャッ)
その後船山と小笠原の間に何があったかは分からないが、翌日の朝イチで行われた中国戦、普段は試合前の選手紹介で笑顔で手を振る小笠原ではなく、ニコリともしない、思いつめた表情の小笠原が居た。
スーパーデリングvs王冰玉(中国戦)[編集]
この試合で、長丁場のリーグ戦の疲れが出てきたのか好調を保っていた船山が突然不調に陥る。ドローもテイクアウトも決められなくなり、相手は調子の波が少ない中国。これまでの展開なら為す術無く敗れる相手であった・・・
が。
第1エンド。スティールのピンチを小笠原が神がかり的なプロモーションテイクアウト(前にある石に当てて後ろのストーンを弾き出すショット)で救って2点先制。第2エンドに追いつかれ、第3エンドは大量スティールのピンチを迎えるも、小笠原がNo.1を確保するショットを決めてピンチを凌ぐ。第4エンドも船山がプロモーションテイクアウトを大失敗して複数失点のピンチになるも、小笠原がきっちりフォローして1失点で凌ぐ。そして第5エンドはラストショットでちょっとでもズレたらガードストーンに当たって失敗してしまう難しいテイクアウトを決めて前半で5-3とリードする。
「まさか・・・」「来たのか・・・」「この中国戦で・・・」
Super
Dellingr,
Here!!
人は、誰かを想う時、持てる以上の力を発揮できる。これまで船山に救われ続けた小笠原が、いざ船山が不調に陥った時にスーパーデリングになるという長年のファン感涙の展開が待っていた。第6エンド以降の小笠原はショット率100%という脅威的な記録を残し、中国のスキップ王冰玉に「つけ入る隙が無かった」とまで言わしめ、8-5と快勝。通算4勝4敗として予選突破の可能性を残した。
この勝利を受けて、NHKが当初BS中継にとどめる予定だった最後のスウェーデン戦が地上波放送に格上げされた。最終戦がBS放送すら取り止められたバンクーバーの悲劇とは天地の差であった。
また、この勝利は今後の女子カーリング界にとっても非常に大きなものであった。そもそもソチで日本が五輪最終予選に回されたのは、2009年以降日本代表になったチームがアジアパシフィック選手権で中国と韓国になかなか勝てず五輪出場ポイントを得られる世界選手権出場に四苦八苦するようになったことが原因であった。その中国に勝てたことは、平昌以降の五輪出場に向けた道が開けたということになったのである。
そして誰よりもこの勝利を喜んだのが船山であった。試合後に「待ってました、この勝利!」と話し、支え続けてきた相方がスキップ対決で勝ったことを大いに喜んだ。
一方で、この上下動が激しいデリング劇場を見続けてきたファンの人達は待ちに待ったスーパーデリング発動に「お互いに助け合う、これが本当の理想の夫婦だ!!」と涙する一方、「さらに俺の寿命が縮むのか」「万が一、次勝ってタイブレークに進んだら心臓が止まりそう」「あえて試合見ずに寝るか全裸で正座して見るかマジで迷う」と右往左往する人が続出した。
力尽きる(スウェーデン戦)[編集]
しかし、ここまでが限界だった。
チーム結成後世界選手権を一度も経ずに五輪に出たフォルティウスは、長くてタフな予選リーグを戦い抜く体力がまだ身についていなかった。中国戦終了時点で既に小笠原もスーパーデリングモードが解けてしまい力尽きて顔面蒼白の状態であり、同日夜のスウェーデン戦では一転してミスショットを連発。他メンバーも精細を欠き、前半で2-5とリードされてしまう。
それでも最後の力を振り絞って4-5まで追いすがるが、第8エンドに4-7と突き放されると、第9エンドの小笠原のラストショットは難易度が高くないダブルテイクアウトを決めて2点追い上げる場面であり、小笠原が投げたストーンはその予定通りの軌道で進んでいったかと思われた。しかし当たる角度がわずかにずれてダブルテイクアウトに失敗してしまい、万事休す。
小笠原の後ろには、フォルティウスメンバーを支えてきたガッツ星人が力尽きて倒れていた。「最後には木端微塵になる」という、ガッツ星人の設定が見事に生かされた玉砕劇であった。
フォルティウスはトリノのチーム青森と同じ4勝5敗で準決勝進出を逃した。しかし同率で並んだ中国とデンマークに勝っていたことで順位は5位となり、目標の「5位以内」は達成した。波瀾万丈の予選リーグが終わったことで、「お祭りは終わった」「これでやっと休める」と安堵の声をこぼした人達が非常に多かったという。また多くの人達がデリング劇場に色々な意味で魅入られてしまった影響で、日本中で胃薬や解熱剤の売上が増えたと言われている。筆者も38度の熱を出してしまった。
ソチ五輪後[編集]
日本に帰国したフォルティウスメンバーは帰国後わずか3日で日本選手権を迎えることになった。疲れ切った状態で迎えた選手権では小学生と高校生の混成チームに負けそうになるなど相変わらずの劇場を見せるが、何とか決勝まで勝ち上がり、決勝戦をBS中継予定だったNHKの面目を守らせた。
ところが決勝戦当日、このニュースが日本中を駆け巡る。
「中部電力の市川美余、電撃結婚!寿引退か」
選手権の内容や結果よりも、こちらのニュースのほうが大きくメディアで扱われてしまった。ソチで小笠原達がそれなりの結果を出したことで世間のカーリングへの興味をある程度取り戻すことは出来たが、メダル獲得まで行かなかった影響か、多くのマスコミがカーリングを「スポーツ系アイドルの発表会」としか見ないという慣習を正すには至っていなかった。日本にカーリングをあるべき姿で普及させ、この競技に「曙光」(Dellingr)を差し込み「夜明け」を実現させるには、もう少し時間がかかる…そう痛感した五輪後の選手権であった。
なお、決勝戦の結果については触れないでおく。
平昌への道[編集]
デリング劇場[編集]
喜怒哀楽の激しい性格同様、小笠原のプレーはお世辞にも安定性があるとは言えない。格上の相手に完勝したと思ったら格下の相手に接戦を演じたり、同じ試合の中で小笠原の一投で戦局があちこち行き来する様子は「デリング劇場」と呼ばれている。デリング劇場はカーリングに興味が薄い人を引きこむ力がある一方、ファンになった人達に心労の絶えない日々を与える。
以下、その劇場を司るプレーと作戦の要素を紹介する。
- Bプラン
- ストーンを投げた時に、本来行う予定のショット(Aプラン)から距離または場所がずれる見込みであることが分かった時に「次善策」として行う戦略。通常時の小笠原のショットは高確率でずれるので、AプランよりもBプランのほうが発動率が高い。Bプラン発動時に他メンバーが死ぬ思いでスイープする姿は「神のやらかしを必死でフォローする下僕達」として観戦者に同情から来る応援心理を与える。
- デリングショート
- ハウスの中にストーンを置くだけで複数得点が見込める場面でショートしてしまい、みすみすチャンスを逃してしまうプレー。神でも時にはやらかすのである。神の割には確率が高いが。
- デリングスルー
- 「デリングショート」の逆。ハウスの中にストーンを置こうとして、距離が長くなるか方向がズレるなどしてどの石にも当たらずにストーンがハウスから出て行ってしまうプレー。スキップのスルーは試合を悪い意味で決めてしまう致命傷になる確率が高いが、何故か小笠原の場合はあまり致命傷にならない。2013年のソチ五輪最終予選プレーオフノルウェー戦の6点ショットの1投前のように勝利フラグ化することも多い。豪快なスルー劇を見て相手チームが「え、そこでスルー?Why??」と戸惑うためと思われる。まさに「神のいたずら」である。
- パルプンテ
- 小笠原が大失敗の一投をやらかしたはずが、予定よりはるかに良い結果が出てくるプレー。ハウスの中の石が多い場合に低確率で発動する。2013年の日本代表選考会最終戦(対中部電力)の第3エンドでナンバー1ストーンをはじき出す予定のショットがずれた結果ナンバー1・2を弾き出し、そのエンドのスティール成功に繋げたシーンが典型例である。逆にパルプンテに失敗して大量得点のチャンスが失点劇に変貌することもある。まさに「結果は神のみぞ知る」を地で行く様相を呈している。
- 神の一撃(Dellingr's Attack)
- 極めて難易度の高い場面でスーパーショットが出る単発技。いつ出てくるかは神のみぞ知る状態であり、小笠原の2投目に発動した場合は漏れ無く当該エンドで2点以上を獲得できる。高確率でショット後に小笠原がバカ笑いするシーンとセットになる。一方で次のショットの失敗率が上がるという難点も有り、小笠原の1投目に発動した場合は2投目に失敗して失点リスクのほうが上がってしまう諸刃の剣でもある。
- スーパーデリング(神デリング)
- 小笠原が確変した状態。難易度にかかわらずどんなショットでも狙い通りに投げることが出来、「これが神なのか」と世界中の全てのカーラーを震え上がらせる。観戦しているファンも「デリングは変なモノでも食ったのか」と別の意味で震え上がる。長くて1試合半までしか続かず、試合途中に突然効果が切れてしまうことが難点。発動条件は不明だが、「船山に怒られる」「正座で船山に説教される」など船山の動向が絡んでいる可能性が高い。
- 悪デリング
- 何をやってもダメな地獄モード状態。スルー、ショート、パルプンテ失敗などありとあらゆる失敗ショットが立て続けに起こる。もちろん試合に勝てる訳がなく、敗戦後「今日は帰って寝まーす」と観客席に声をかけるまでがワンセットである。試合中にこのモードから脱出させたい場合は、船山に小笠原の尻を叩かせることで約50%の確率で通常モードに戻すことが出来る。また子どもに「ママへたくそ」と言わせたり、お守役のガッツ星人を叩き起こすことで通常モードに戻せた事例が確認されている。
- コメンテーター・リプライ
- 小笠原の手番の時に、チーム内の会話に対して放送席のアナウンサーと解説者に無意識のうちに突っ込ませる作戦。トリノオリンピックで小笠原が「(この石は)見える~?」と投げ手に質問した時にNHKの刈屋富士雄アナが「見えますね」と放送席から即答したシーンが有名。この技は2013年に小野寺佳歩にも受け継がれており、小野寺の「(相手のストーンが)出ればいいから」という発言に対して解説の敦賀信人が「そうです、出ればいいんです」と返したことが確認されている。話し声のボリュームと場の雰囲気が合わないと成功しないため成功率は極めて低いが、成功時のショット率は100%になる必殺技である。
- あゆみえ会議
- 試合中に小笠原が必要以上に船山に顔を近づけた状態で作戦会議を行うこと。チームワークが一時的に上がる効果があり、ごく一部のファンに「次回のコミケで今度こそあゆみえの薄い本を描くぞ」とよく分からない専門的な決意を促させる効果もある。稀に会議に熱中しすぎてストーンを投げる順番を間違えてしまうことがある。
- ジーコの教え
- 小笠原と船山が「あゆみえ会議」で選択に迷った時にフジミキコーチを試合中に召喚して教えを乞うこと。試合中に一度だけ使用できる。何故「ジーコ」であるかは小笠原が知っているサッカー監督がジーコしか居ないためと思われるが、そもそも何故サッカーと関連づけているかは本人にしか分からない。日本のサッカーを知っている人にとって「ジーコ」は黒歴史メーカーであるので(鹿島国人除く)、別名で呼ぶことをアンサイクロペディアは強く推奨する。
- デリングリッシュ(一例)
- 小笠原は元々北欧の神であるため多くの語学に堪能であり、通訳なしで英語を聞き取ることが出来る。日本の他チームと比べて海外遠征をあまり苦にしない理由がここにある。ただし会話の方は北海道に降臨後しばらく使わなかったために話し方を忘れてしまい、非常にたどたどしい語彙とシングリッシュレベルの発音を引っさげて試合後インタビューに登場し、「そのうち"ジス イズ ア ペン!"と言い出すんじゃないか」と聞き手と視聴者の注目を無駄に集める。
屈強なチームワークの秘訣[編集]
トリノオリンピックのチーム青森や復活以降のフォルティウスのように、小笠原がスキップを務めるチームはチームワークが物凄く高くなる傾向がある。バンクーバーのチーム青森や、2013年に急降下した中部電力との最大の違いはここにある。
その理由は小笠原のパーソナリティに依るところが大きい。具体的には、
- 行動力が極めて高く、一度やると決めたら絶対にやり遂げる強い意志
- 喜怒哀楽が激しい暴れ馬タイプ
- 天真爛漫
- 常に出来不出来が激しい
- 何をしても目立つキャラクター
つまり「放っておいたら何をしでかすかわからない」という共通認識がチームメンバーの中に出来、「この人は私(達)が近くで見張ってないとダメ!」と母性本能が刺激されることで「仲間意識」とは根本的に異なる強い団結力が生まれるのである。また適当にあしらう術をサポートの勘所を心得ている船山の存在が大きいのは言うまでもない。
脚注[編集]
- 元の位置に戻る ^ よく「トリノで名付けられた」と間違えられるが、ソルトレークシティの時から呼ばれていた。まとめWikiも参照。
- 元の位置に戻る ^ 本人はどちらかと言うとがっちり巨乳タイプである。バンクーバー五輪でゲスト解説に呼ばれた時は子供の授乳時期だったためさらに膨張しており「デリングが爆乳化した」と一部で騒がれた。
- 元の位置に戻る ^ 実際に2008年2月に出演したラジオ番組で「林さんと話し合って出産する」と宣言している。
- 元の位置に戻る ^ 本来、船山は天然キャラである。
- 元の位置に戻る ^ 日刊スポーツによると、「小笠原+船山」の部屋と「小野寺+吉田+苫米地」の3人部屋に分かれていたらしい。どこまでも二人一緒である。