「大丈夫かなあ」「この子もうダメかもねえ……」

　本屋のスタッフたちが口々に心配の声を上げる。何かといえば、トンボである。朝から店に迷い込んだトンボの心配をしているのだ。弱ったトンボは、ジジジジ……と羽音を立てながら、自動ドアの近くをさまよっている。
　なんだか他人事に思えず、レジから首をのばして見守ってしまう。

　迷子のトンボ然り、一年以上本屋さんで働いていると、それなりに色々なことがある。しゃっくりが一時間以上止まらず、お客さんにも笑われて、「しゃっくりさん」とあだ名をつけられたり、レジで元恋人と偶然鉢合わせたり、いただいた恵方巻を休憩室で一生懸命に北北西を振り向いて食べたり、雛人形を飾るため、折れたぼんぼり飾りをセロテープでぐるぐる巻きにしたこともあった。

「どうしてうまくできないんだろう」

　本屋さんの仕事はとても楽しい。でも働きはじめて半年近く経った頃、「自分は〝使えない奴〟なんじゃないか」と内心焦りに苛まれ、落ち込んでいた。

　そもそも誰かと継続的に働くということ自体、本屋が初めての経験。以前働いていた駅のジュース屋さんは、調理も接客も基本一人のワンオペ勤務だった。書く仕事にしても執筆作業は一人だし、特定の人と継続的にかかわるような仕事はまれである。つい苦手な作業や、やり取りを避けてしまいがちになる。

　そのせいか、私は本屋で「わからないことを誰かに聞く」という当たり前のこともおぼつかず、注意されるたび、自分の壁とぶつかっているような心地がした。

　いちいち心の中で「ああ、私が〇〇しちゃったから困らせてしまった」「気を回しすぎて言えなかった」と反省と言い訳の渦に入った。
　優しく苦笑いで注意されても、相手の気遣いようにいっそうへこんでしまうので、私のような若者はさぞかし扱いにくいに違いない。

　そんなダメダメな時期、決まって私の脳裏によぎるのは、過去の冴えない自分のことだ。失敗すると、子どもの頃に母に叱られた文言をリアルに思い出して、心が重く沈んだ。
「本当に役立たずな子だね！」「自分の好きなことばっかりして！」と怒鳴られて怯えていたあの頃の自分に、心はなぜか戻ってしまう。こんな記憶を引きずるのは子どもっぽくて恥ずかしいと思いながら、否応なく気持ちは暗くなった。

　そんな様子が透けて見えたのだろう。ある日、ベテランのスタッフさんに、他のバイトの子と共に呼び出された。
「プレッシャー感じて自分を追い詰めなくていいから。大事なのは、次の人に作業をきっちり引き継ぐことね」
　きっぱりとしたフォローの言葉に、身体の力がするすると抜けた。

​

　新人の時期の「覚え早いね、これも任せちゃおうかな、いいねいいね」の状態が過ぎると、「この子いつまで経っても使えないなー」と判で押したような評価になっていく。それは働きはじめる前から覚悟していたことだ。

　一人前になるためには避けられない段階。お客さん扱いされて甘やかされる状態が続くより、その方が遥かにマシなはずだ。
　でも実際直面すると、その変化に戸惑う自分がいた。人のそういう反応が怖いから、私はどこかに属することを恐れてきたのだろう。

　私自身、自分のミスにしょっちゅう苛立っていた。「どうしてうまくできないんだろう」と憤るたび、「だとすればまわりにかけている負担はいかほどのものか」と思い、苦しくなった。そうなると、周りに対して妙にぎくしゃくしてしまい、コミュニケーションもうまくとれない。

　結果を出せばちゃんと認めてもらえる場なのに、私は失敗することに怯え、立ち往生していた。臆病になっている場合だろうか。私のできることは、よい環境で働けることを感謝し、自分の仕事に力を尽くすことだ、と思い直した。

「詩人」への甘え

　さて、焦りの原因はもう一つあった。週四日のアルバイトと、書く仕事のバランスがとれなくなっていたのだ。

　実を言うと、私は当初「詩人」という素性を隠してアルバイトに応募していた。社長との面接では「フリーでライターの仕事をしています」と話し、その場は和やかに終わった。慌てたのは、採用の連絡が来てからだった。

　当時は、一週間後にエッセイ集の発売を控えていた。加えて、同時期に出版社と調整していた「書店回り」（著者が書店を訪問する）先のお店に、その本屋さんも決まっていたのだ。
　さすがにアルバイトの面接に来た人間が、著者として訪ねて来たら違和感ありまくりだ。でも訪問することは決定済みだし、どうしたものか……。困り果てて前出の担当編集者Sさんに泣きついた結果、訪問前日、出版社の営業さんがその旨をお店に伝えてくれた（面倒をおかけしてすいません）。

「いやー、ポプラ社の人から『今度そちらのお店で働かれる方が、うちから本を出しまして……』と言われてね。なんのことだか全然わからなかったよ！」

　後になって社長が笑っていた。どうやら私が行き当たりばったりすぎて、周りを混乱させてしまったようだ（本当すいません）。

​

　働きはじめて数ヵ月は余裕があったものの、フリーランスは仕事量が読めない。執筆をはじめ、様々な依頼を引き受けすぎて、寝る間もなくなっていた。後から記録をつけていて呆れた。この時期、普段の倍以上の件数の仕事を抱えていた。そんなことにも気づけないほど収捨がつかない情けない有様だった。追い打ちをかけるように、仕事道具のパソコンが壊れてしまい、途方に暮れた。

　このままでは完全に首が回らなくなる。迷いに迷った末、アルバイトのシフトを少しの間減らせないかお店側に打診し、社長と面談することになった。
　結論から言えば、シフトを減らすことは難しかった。当時のお店の事情からすれば当然のことだ。第一、働きはじめて半年足らずの私には、覚えなくてはいけない仕事がまだ山ほどある。

　むしろ気になったのは、こんなやり取りだった。
「原稿の内容をつい考えてしまったり、書くことの方が気になって、仕事に集中できなかったりしない？」
　社長はいぶかしげに尋ねた。
「いえ、それはまったくありません。楽しく働かせてもらっています」と私は本心から否定した。
「それならいいけど、タイムカード押した後はこっちの仕事にきっちり切り替えて……」
　そう告げられて、はっとする。「集中できていない」。そう思わせる言動を自分がしてしまったのだ、と反省した。

　面談の数週間前、「本業が……」と口にしたとき、社長はやはり怪訝な表情を浮かべていた。執筆業の具体的な詳細を語ることが気恥ずかしく、うっかりそんな表現をしてしまった。
　だが、「本業/副業」と差をつけるような言い方をされて、よい気持ちを抱くはずがない。なんてことを口にしてしまったのか。アルバイトとはいえ、仕事を舐めていると思われただろう。

​

　思い返せば、私は「優先順位をつける」ことにおいて傲慢さの塊だった。書くことが仕事になりはじめた高校生以降、「原稿が」「締め切りが」という言い訳一つで、面倒な付き合いやサークルの運営から逃れてきた。

　授業中も上の空でゲラを直し、テストよりも締め切りを優先し、遊びに誘われても断ることの方が多かった。当然のことのようにそうしてきた。そんな態度は、周りから一体どう見えていたんだろう、と生まれて初めて（！）思案した。

　当時の私は、そのことをとがめられても「だって仕方ないじゃん。遊びは記録に残らないけど仕事は残るんだし」「学校にいるときの私なんて知ったことか」と思い、わがままに突っ走っていた。そのくせ立派に「学生と二足の草鞋を履いている」つもりだったのだから呆れてしまう。

　こんな態度は、社会に出たら甘えなのだ。こちら側の都合を相手に悟らせるのは失礼なこと。「原稿が、締め切りが……」と言い訳して、直面すべき問題から逃げていたら、まわりの人間関係も、家庭生活だって崩壊するだろう。

　自分が何に苦しんでいたのかわかった気がした。出会いの入り口が「詩人」ではない人とのやり取りに苦戦していたのだ。

　それだけ今まで「書くことが本分だよね」と許してくれる環境に甘えきっていたのだと思い知った。
　そして、人は自分自身のそういった事情を、違う環境ではもっと隠して慎むものなのだ。それが「気遣い」ってものだよな、と深く深く自分の行いを恥じた。

弱って迷い込んだトンボのように

　五ヶ月目のその出来事以来、私は「本業/副業」という言い方を止めた。

　誰かに話すときは必ず「書店と『兼業』しています」と口にするようになった。実情の仕事ぶりはプロの書店員さんに遠く及ばないけれど、心の中だけでも「書店員は本職だ」という意識を持つように努めた。「アルバイト」と思った瞬間、自分はその言葉の軽さに甘えてしまう気がした。

　次第に、「自分事」として引き受けることの楽しさに目覚めはじめた。売り上げのデータをチェックし、担当の棚を管理することにも、常連さんの顔を覚えて挨拶することにも、自分なりのやり甲斐が見出せるようになった。

　こんなことは、ある程度大人になったらみんな自然と身につけている「責任」なのだろう。臆病な私は、今頃気づいて嬉しくなっている。つくづく調子のいい奴だ。

　本屋さんの仕事をはじめた頃、私は弱って迷い込んだトンボのように心細かった。「使えない」と人をがっかりさせてしまったらどうしよう？　また「役立たず」の幼い自分に戻ってしまうだろうか？

　だが、「ここを新たな居場所にしていくのだ」という覚悟を持ったら、強い安心感が芽生えた。いつまで書店の仕事を続けられるかはわからない。でも、できる限りここにいて、関わる人たちへ恩を返そうと思っている。

　恐れながら、遠く見つめてきた街の現実。その街で、確かにひとつ、臆病な私の居場所が生まれたのだ。

　迷子のトンボは、入口の自動ドアにとまって、しばし翅を休めた後、勢いよく外へ飛び出していった。その力強い羽ばたきを、まぶしい気持ちで見送った。

　私は心の中で会釈する。
　ありがとうございます。またお越しくださいませ。

牧村朝子×文月悠光トークイベント
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