昔、原作マンガを読んでいた「いちファン」の感想です。
舞台を”現代”のニューヨークに変更したのは、率直に言ってかなり問題ではないかと感じました。
吉田秋生氏の「BANANA FISH」という作品の魅力は、1980年代のアメリカ社会を(読者がその実像を当時知らなかったとしても)リアリティをもって描いたところにあったのではないかと思います。
そもそも物語の発端が、兵士としてベトナム戦争に送り込まれたアメリカ青年たちの心の逃げ場所として乱用された麻薬にあります。主人公のアッシュ・リンクスは、そのベトナム帰還兵である兄グリフィンを密かに守るという裏があるからこそ、コルシカ・マフィアのボスであるゴルツィネの男娼になってまで兄を廃人にした”何か”を追いかけるのです。
ストリート・キッズのボスとして君臨するアッシュは、ある日ゴルツィネの指示で殺された男から「BANANA FISH」という言葉とともに、薬を託されます。それは、文字通り廃人となっている兄が時折つぶやく言葉でもあったのです。
「BANANA FISH」が麻薬であることを突き止めたアッシュは、ゴルツィネがこの「BANANA FISH」を利用することで中米でクーデターを起こし、南米からのヘロインルートを手に入れようという彼の野望に気づいてしまいます。ゴルツィネはアッシュを殺人の冤罪をかぶせて刑務所送りにしてしまいますが、アッシュはそこで兄と同じベトナム帰還兵であるマックス・ロボと出会うのです。
このマックスはベトナムにおいてアッシュの兄グリフィンと同じ部隊に所属していた戦友で、麻薬により自我を失ったグリフィンが友軍兵士に向けて自動小銃をぶっ放すのを、足を射撃することで取り押さえた人物です。帰国後マックスはグリフィンとも疎遠となっており、フリージャーナリストとなっていた彼はこの時ルポを書くために刑務所に入っていたのですが、やがてアッシュとともに「BANANA FISH」の謎を追い始めることになります。
なおマックスは、この時奥さんであるジェシカと離婚調停中で、一人息子のマイケルの親権をめぐって争っています。
ここからアッシュのゴルツィネに対する反抗が開始され、ちょうどカメラマン助手という名目でアメリカへと旅行に来た奥村英二と出会い、大きな影響を受けるのです。
英二は棒高跳びの選手で、インターハイで2位になるほどの実力を持っていましたが、怪我のために飛べなくなり心に深いダメージをおってしまいます。彼を追いかけていたプロカメラマンの伊部は、傷ついた彼をいわば気を紛らわすためにアメリカの取材旅行に同行させたのです。なお作中で英二が幼く見られているのは、一般に西洋人から幼く見られる東洋人であることに加え、幼くして男娼となりそこから実力でストリート・キッズのボスにのし上がったという壮絶な人生を生きてきたアッシュとのあまりにかけ離れた境遇をも反映した言葉なのです。他のグループとの銃撃を交えた抗争で常に命の危険にさらされているアッシュたちストリート・キッズから見れば、スポーツで挫折したことでくよくよ悩んでいる英二が、その外見以上に幼くひ弱に見えたのは仕方ありません。もっとも英二だけが幼かったのではなく、髭を蓄え大人びて見える伊部ですら、ストリート・キッズたちには子供扱いされています。
こうして物語の重要な部分に、1980年代のアメリカ社会が抱えていた様々な問題が色濃く反映されており、それが物語の核心である麻薬「BANANA FISH」の謎にもつながっていくのです。
この「BANANA FISH」という漫画を支える柱がこの1980年代のアメリカであり、であるからこそ成立している部分も相当部分で存在していると思います。
朝鮮戦争に続いて泥沼のベトナム戦争を経験し、アメリカ社会は大きく傷つきました。負傷した帰還兵が街に溢れ、麻薬が横行し、様々な社会問題がクローズアップされた時代でもありました。「BANANA FISH」は、こうした時代背景を元に描かれたからこそ説得力があったのであり、今の時代にマフィアのボスであったり、チャイニーズマフィアであったり、そうしたものを現代の視聴者がリアリティをもって受け入れることができるのかといえば甚だ疑問です。
最近だと学校での銃乱射事件などもあり、未成年の銃所持についても議論がやかましくなっています。
実際問題、作品中には男娼(キッズポルノ)や堕胎、麻薬、未成年の喫煙飲酒、銃所持など現代のアニメでは問題になりかねない描写も多数ありますし、そうした設定は変更せざるをえないのは理解できますが、製作発表と同時に行われたメディア向け記事を拝見していると、「作中のファッションセンスが現代に合わないから舞台を現代のニューヨークに変更した」という旨の発言を見かけ、非常に残念な気持ちになりました。どうも監督はこの漫画の内容をあまり理解していないのではないか(もしくはBL的な側面だけを見ていたのではないか)と感じたのです。
現在の概念で言う”BOYS LOVE”はこの作品の主要テーマではありませんし、アッシュと英二が同じベッドで朝を迎えたという場面などを除いて、今風の露骨な性的描写もなかったと記憶しています。アッシュと英二との関係性は、国籍や性格、立場を超えた男性同士の友情であり、そこに性的関係は必須ではありません。むしろゴルツィネと男娼アッシュという関係のほうが衝撃的かつ外せない核心的な設定でもあり、外伝マンガを含めて何度も描写されています。男娼の価値がいかにして決まるのかという細かい描写まで登場します。
もし”アッシュ・リンクス”ことアスラン・ジェイド・カーレンリースが現代に生きていたとしたら、マフィアの男娼などにならず、IQ180を超えるというそのずば抜けた知能を活かしてITビジネス起業や仮想通貨を始めとした投資などにより富と名声を得ていたでしょうし、そもそも彼の人生のモチベーションであった「帰還兵で廃人の兄」はいないはずです。マンガで描かれた彼の壮絶な人生は1980年代のアメリカでこそリアリティがあったのであり、そこは外してはいけないと思うのです。
この「BANANA FISH」の理解には、ある短編小説がかかせません。
タイトルにもなっている「BANANA FISH」とは、J・D・サリンジャーという高名な作家の「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」という作品に登場する”架空の魚の名前”でもあります。このことはマンガの中でも説明されています。
J・D・サリンジャーといえば「ライ麦畑でつかまえて」が代表作ですが、この「バナナフィッシュにうってつけの日」も短編ながら非常に印象に残る作品です。
「バナナフィッシュにうってつけの日」の中で、主人公シーモアがハネムーン先で出会った少女シビル・カーペンターに話す作り話に”Bananafish”が登場し、このバナナフィッシュという魚はバナナがどっさり入ってる穴の中に泳いで入って行くが、バナナをたくさん食べてしまうために穴から出られなくなり、挙句の果てにバナナ熱という病気にかかり死んでしまうのだと話し聞かせます。この話をしたあと、シーモアは少女を誘って海に泳ぎに行きますが、なぜか少女は、そこで「存在しないはずのバナナフィッシュを見てしまう」のです。シーモアはやがて宿へと戻り、眠っている妻の横で拳銃自殺してしまいます。
作者J・D・サリンジャーは、ポーランド系ユダヤ人の実業家の父と、スコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の母の間に生まれた人物で、1942年の太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して陸軍へ入隊しています。訓練を経て2年後にはイギリスに派遣され、あのノルマンディー上陸作戦にも一兵士として参加しています。その後フランスでは情報部隊に所属しますが、やがて精神的に病むようになり、ドイツ降伏後には神経衰弱と診断されニュルンベルクの陸軍総合病院に入院しています。入院中にドイツ人女性医師と知り合い結婚、軍隊も除隊します。その後に発表した作品のひとつが「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」であるのです。
「BANANA FISH」を描いた吉田秋生氏が、このサリンジャーの作品から何を着想したのかは明らかではありません。しかし、戦争の傷跡を引きずった物語であることは明らかであり、そこに着想を得た「BANANA FISH」自体、その発端がベトナム戦争にあるということもまた重要なファクターでもあります。バナナ穴へと入ってしまったバナナフィッシュが、バナナを食べ続けてやがて抜けられなくなり、バナナ熱で死に至るというモチーフは、「BANANA FISH」という作品の成立に大きな影響を与えたと想像できます。だからこそ吉田秋生氏は作品名に採用したのではないでしょうか。
こうした時代背景を含めたバックグラウンドを認識するのは面倒なことではありますが、「BANANA FISH」はそれに値する作品であり、またそれが作品をより深く理解することでもあるのではないかと思います。アニメ作品を広く世の中に訴えかけるために、ビジュアル面での障害をなくしたいという商業面での都合は理解できなくもありませんが、それは作品の良さ、深さを奪ってしまう諸刃の刃であります。
極端な例を出しますが、例えば映画「ニュー・シネマ・パラダイス」を再映画化するとして、少年が空き缶の中に集めたラブシーンフィルムの断片を、映画がデジタル化した現代にそぐわないと言って別の何かに変えてしまえば、あの作品は成り立たなくなってしまうでしょう。
「BANANA FISH」は当時、月刊の少女コミック雑誌である「別冊少女コミック」に連載されてはいましたが、しかし作品のテーマ性や内容は少年(男性)が読んでも遜色ないもので、そこで描かれた少年同士の出会いと友情は時代を超えたものでした。だからこそ名作という評価を受けているともいえます。
今回のアニメ化にあたり、こうしたことが杞憂に終わることを祈るばかりです。
蛇足ではありますが、このアニメ化で興味持ってこれから「BANANA FISH」を読んでみようという方には、作品を読むだけではなく同時に1980年代という時代や、当時のアメリカ社会の抱えていた問題にも目を向けて欲しいと切に願います。30年前の作品ですからマンガの表現技法を含めて様々な感覚のズレが生じるでしょうが、「今はこんなんじゃない」と切り捨てるのではなく、なぜ当時はこういう時代だったのかを考える一助にすることができれば、きっとあなたの人生の糧になるはずです。