プロローグ 「こちらブルーローズ73。気圏離脱を確認。星間巡航速度へと移行します」  整合機士スティカ・シュトリーネンは、口元の集声器にそう告げると、左手で制御棹をゆっくりと前に倒しこんだ。  機竜が、白銀の巨体をかすかに震動させる。いっぱいに開かれた両の翼が、ほのかな青に輝く。宇宙空間の希薄なリソースを広範囲から収集し、駆動機関に送り込んでいるのだ。  すぐに、機関心臓部に封じられた永久燃素が甲高い唸りを上げて反応し、長い尾の両脇の主噴射孔から白い炎が吐き出される。ぐん、と体が操縦席に押し付けられる感覚。惑星の気圏内では味わえない強烈な加速に、思わず口元が綻ぶ。 『ブルーローズ74、了解』  耳の伝声器に、短いいらえがあった。ちらりと映像盤を見ると、二番機も噴炎をまばゆく煌かせながら、右斜め後ろに追随してくる。  スティカと同時に叙任されて以来コンビを組む、整合機士ローランネイ・アラベルが二番機の搭乗者だ。普段から無口な子だが、機竜操縦中の使用を義務づけられている古代神聖語で話すときは、いっそうそっけなくなる。  そのくせ、速度中毒っぷりはスティカ以上だ。苦笑しながら、スティカは軽く注意した。 「速すぎるわ、ローラ」 『あなたが遅いのよ、スティ』  なにぃ、と思う。  アンダーワールド宇宙軍の規律は絶対だが、しかしさしもの鬼教官の眼も気圏の外にまでは及ばない。それに、目的地である伴星アドミナまでは三時間の長旅だ。多少の誤差は出て当然。  スティカは、制御棹をさらにもう一目盛り倒しこみ、真横に並びかけた二番機をわずかに引き離すと、にんまり微笑みながら身体を背もたれに預けた。  上向いた視線が、狭い操縦室の天蓋に嵌め込まれた、精緻なレリーフをとらえる。  垂直に並ぶ、白と黒二本の剣。それを取り巻く、青い薔薇と山吹色の金木犀の花。いまや伝説の存在となりつつある、星王の紋章だ。  星王と星王妃が、主星カルディナはセントラル・カセドラルの玉座を去ってすでに三十年が過ぎた。  整合機士に任ぜられて四年、まだたった十五歳のスティカとローランネイは、もちろん直接まみえたことはない。しかし二人とも、同じく機士だったそれぞれの母親から、たっぷりと逸話を聞かされて育った。そして、母たちもまた同じように、その母から沢山の昔話を伝えられたのだ。  シュトリーネン家とアラベル家は、二百年の長きに及んだ星王の治世に、その当初から近衛機士――当時は騎士と称したらしいが――として仕えてきた歴史を持っている。  七代前の祖先、騎士ティーゼ・シュトリーネンとロニエ・アラベルは、まだ王座につく前の星王を護り、当時カルディナ第一大陸を支配していた四皇帝家との戦いに功を成した。やがて、専横をほしいままにしていた皇帝と大貴族はあまねくその権力を廃され、私領地にて虐げられていた民はすべて解放された。  王はその後、最初の機竜を開発し、大陸を囲み気圏いっぱいまでそびえていた壁を超える。  未開の地に跋扈していた太古の神獣たちと辛抱強く交渉し、時には一対一の決闘に勝利して、次々と肥沃な入植地を開拓しては、当時は亜人と呼ばれ差別されていたらしいゴブリン族やオーク族たちに与え、それぞれの国を作らせた。  やがてカルディナ全星を踏破した王の黒い瞳は、無限の宇宙へと向く。  改良に改良を重ねた機竜で、ついに気圏離脱を果たし。  カルディナと対をなしてソルスを周回する惑星を見出し、アドミナと名づけ。  大型星間航行用機竜による定期航路を拓いて、アドミナ星に最初の移民都市を建設したのち、推されてアンダーワールド初の星王位に就いたのだ。  不老者であった王と王妃の統治のもと、二つの星の繁栄は永遠に続く――と誰もが信じていたのだが、しかし王はあるとき、一つの予言とともに玉座を降りて長い眠りに入った。そして三十年前、ついに再び民の前に現れることなく、揃って世を去ったのだ。  以来、政治は軍及び民の代表による合議のもと行われている。もはや戦うべき敵の存在しない現在では、地上軍、宇宙軍の規模は縮小されつつあるが、しかし王の予言に従い機士の訓練だけは古と変わらぬ厳しさを保っていた。  王は、こう言い残したのだ。  ――いずれ、異世界"リアルワールド"の門が再び開くときが来る。  ――そのとき、巨大な変革が二つの世界にもたらされることとなるだろう。  スティカには到底実感できない話だが、異世界の門が開いたのちには、アンダーワールドそのものの存続すらも不確定となる時代が訪れるという。融和と友愛を望むだけでなく、誇りと独立を貫くための力も磨き続けねば、人、巨人、ゴブリン、オーク、オーガの人間五族は、二百年前の"異界戦争"を上回る悲劇に見舞われるだろうとも言い伝えられている。  しかし、スティカに畏れはない。  たとえどんな世界に行こうと、どんな時代が訪れようと、機竜の翼さえあれば私は立派に戦ってみせる。なぜなら、私は、遥か創世の時代より続く伝統を持つ、栄光ある整合機士団の一員なのだから。  と、内心で呟き、再び天蓋の紋章を見上げた――  その直後だった。  副映像盤が突如真っ赤に輝き、異常な規模の素因集積体を感知したことを、文字と警告音の双方で告げた。 「な……なに!?」  叫びながら跳ね起きると、ほぼ同時に伝声器からローランネイの緊張した声が響いた。 『こちらブルーローズ74、闇素系生物の接近を探知! 素因密度……二万七千!?』 「神話級宇宙獣だわ…………"深淵の恐怖(アビッサル・ホラー)"…………」  神聖語ではなく汎用語でそう呟いたときには、すでに主映像盤に広がる星海の右隅に、インクを落としたような漆黒の虚無が映し出されていた。  アビッサル・ホラーの固有認識名を与えられたその生物は、確認されている宇宙棲息型神獣のなかでも、最悪の一頭だった。球状の体から十二本もの長大な触腕を伸ばした全長は、最大で二百メルを超える。単座機竜の十五倍にも達するサイズだ。  そしてその巨体は、高密度に集積した闇素因で構成されており、ほとんどの属性攻撃を受け付けない。しかし、"最悪"と呼ばれる理由は他にあった。  アビッサル・ホラーは、他の多くの神獣と異なり、人間との意思疎通を一切受け付けようとしないのだ。まるで破壊と殺戮の衝動のみで構成されているが如く、星間航行する機竜を見つけるや、一直線に襲い掛かり、喰らい尽くす。  かつて、神獣たちには常に敬意を以って接していた星王も、アドミナ星に向かう民間の大型機竜が破壊されるという悲劇を受けて、この宇宙獣だけは消滅させようとしたと聞く。しかし、一人で一軍を上回るとすら言われた王にも、アビッサル・ホラーを完全殲滅することはできなかった。  その後の研究により、かの宇宙獣は一定の速度と軌道を維持して二つの惑星のあいだを周回していることがわかり、苦肉の策としてあらゆる機竜は接触を回避できるタイミングでのみ星間航行を許可されることとなった。  もちろん、スティカとローランネイも、宇宙獣が遥かアドミナ星の裏側を飛行しているはずの日時を選んでカルディナ星を離陸してきたのだ。  ――なのに。 「なんで……出現が早すぎるわ……」  震える両手を操縦桿に乗せたまま、スティカは呟いた。  しかし直後、ぎゅっと一度強く瞬きし、鋭い声で集声器に向けて叫んだ。 「左旋回百八十度、のち全速で離脱! カルディナ気圏まで退避します!」 『了解!!』  応答するローランネイの声にも、強い緊張の響きがある。  スティカは機竜を左にロールさせながら、思い切り操縦桿を引いた。姿勢制御噴射孔から白い炎が長く迸り、息が出来ないほどの重さで体が座席に押し付けられる。映像盤の星々が、弧を描いて右下に流れる。  旋回が終わったとき、主映像盤には、ほんの数十分前に離陸してきたばかりの惑星カルディナの青い輝きがいっぱいに映し出されていた。手を伸ばせば届きそうな大きさなのに、しかし実際には絶望的なほど遠い。  祈るような気持ちで、最大加速をかける。永久燃素が悲鳴じみた咆哮を放つ。  しかし、速度計に表示される出力は、上限に達する前に停まってしまう。アビッサル・ホラーが超広範囲からリソースを奪っているせいで、機竜の両翼のリソース収集器が性能を発揮できないのだ。  副映像盤の後方視界では、漆黒に染まる宇宙獣の姿が先刻よりも明らかに大きくなっていた。すでに、ざわざわと蠢く触腕までがはっきり視認できる。  そのうち、特に長い二本の腕の先端が、ぼんやりと青紫色の光を蓄え始めた。 『スティ、奴が攻撃態勢に入った!』  二番機からの声に、即座に応える。 「こっちも見えたわ! 後方に光素防壁を展開!!」  言いながら、左手で制御盤に並んだ釦の一つを叩く。ごん、ごんという音とともに機竜の腰部装甲が開く。すうっと息を吸い、意識を集中し――。 「システム・コール! ジェネレート・ルミナス・エレメント!!」  叫ぶと、握りしめた操縦桿内部の伝達経路を介して、機竜の両腰から十個の光素因が宇宙へと放出された。  それらはたちまち、スティカのイマジネーションに従って変形し、円盤型の防壁を作り上げる。  直後。  宇宙獣の触腕が、眩い青紫の光球を、まるで投げるように放った。  金属が引き裂かれるような衝撃音とともに、闇色の攻撃弾が宇宙を貫く。  ほんの三秒ほどで、光素防壁と接触し――。 「……きゃああっ!!」  機竜を襲った凄まじい震動に、スティカは思わず悲鳴を上げた。同時に、伝声器からもローランネイの叫び声が聞こえた。  二つの攻撃弾は、渾身の防壁を紙のように容易く引き千切り、白銀の背面装甲を深く抉ったのだ。  各種計器が、一瞬で真っ赤に染まる。リソース伝達経路にも異常が発生し、加速が格段に鈍る。  映像盤の彼方で、スティカは、不定形の闇でしかないアビッサル・ホラーがにやりと嗤ったのを確かに感じた。  側面映像を見れば、二番機も片翼を引き千切られ、がくりと速度を落としている。 「ローラ! ローラ!!」  叫ぶように呼びかけると、幸い、掠れた声ですぐに応答があった。 『……だいじょうぶ、私は無事。でも……この子は、もう、飛べない……』 「……機外に、脱出するしかないわ。機士服の飛翔器だけで、なんとかカルディナまで……」 『無理よ! …………ううん、嫌よ、そんなの!! この子を捨ててなんか行けない!!』  ローランネイの絶叫に――。  スティカは、何も言い返せなかった。  機士にとって、機竜はただの金属のかたまりではない。心を通わせた唯一無二の相棒なのだ。いにしえの、整合騎士たちが駆っていたという飛竜のように。 「…………そうね。そうよね」  呟き、スティカは両手でそっと操縦桿を包み込んだ。  大きく息を吸い、微笑みを浮かべて呟く。 「なら、最後まで一緒に戦いましょう。……再旋回、のち主砲で攻撃。それでいいわね、ローラ」 『……了解』  最後の通信は、いつものように、素っ気無いひと言だけだった。  微笑したまま、スティカはゆっくり操縦桿を引き、傷ついた愛竜を再び百八十度回頭させた。  主映像盤に、迫り来る巨大な闇の姿がいっぱいに映し出される。蠢く長大な触腕には、すでに八個もの紫色の攻撃弾が蓄えられている。  オオオオオオ――――…………ン。  と、アビッサル・ホラーが吼えた。あるいは哄笑したのかもしれない。  せめて、一矢報いて死のう。次にこの航路を襲うまでの時間が、少しでも長くなるように。  覚悟を決め、スティカは操縦桿上部の赤い釦を半分押し込んだ。  機竜の先端に装備された主砲が、がしゃりと展開する。本来なら、ここで最も有効な属性の素因を生成するのだが、アビッサル・ホラーに対してはどの属性もさして痛打とならない。  ならば、最も得意な凍素攻撃を行おう、と考えてコマンドを唱える。  機竜のあぎとが、澄み切った青に輝く。  ちらりと隣を見ると、二番機の主砲からは赤い光が漏れている。ローランネイは燃素攻撃を選択したようだ。  ほんの千メル先にまで接近した宇宙獣が、攻撃準備の整った八本の触腕をいっぱいに広げた。  スティカは、いっぱいに息を吸い込んで、発射命令を叫ぼうとした。  しかし――。 『ま……待って、スティ!! あれは……!?』  右耳を、ローランネイの驚愕の声が貫いた。  この期に及んでいったい何を……、と思った、その時。  スティカも、それを見た。  星が降ってくる。  映像盤のまっすぐ上方向から、白く煌くひとつの光が、すさまじい速度で接近してくる。  機竜!? と、一瞬思った。しかし、すぐに否定する。距離に対して、あまりに小さい。二メル以下、ほとんど生身の人間の大きさしか……  いや。  そのものだ。  星と見えたのは、球形に展開する光素防壁の輝きだった。その内側には、明らかに人のかたちをした黒い影がくっきりと視認できる。  人影が、二機の機竜の約百メル前方で停止するのと。  アビッサル・ホラーが巨大な咆哮とともに八個の光弾を放ったのは、ほとんど同時だった。  極々低温の宇宙空間になぜ生身の人間が、という驚きに打たれるより早く、スティカは叫んでいた。 「何をしているの!! 早く、逃げて!!」  しかし、その何者かはまったく動こうとしない。  長いコートの裾を翻しながら、敢然と、あるいは傲然と腕組みをしたまま、空間の一点で仁王立ちになっている。  あんな薄い防護壁など、アビッサル・ホラーの攻撃弾の前には薄紙ほどの役にも立たない。唸りを上げて襲い来る弾のひとつに触れたとたん、人影が血肉を振り撒いて四散するさまを、スティカは予期した。 「逃げて――――っ!!」 『逃げなさい!!』  ローランネイと同時に、再び絶叫する。  ひとつが直径三メルほどもありそうな青紫色の光弾が、金属質の唸りとともに殺到し。  まるで、見えない壁に激突したかのごとく、虚空で停止し、あらぬ方向へと跳ね返った。  宇宙が震えた。  見開かれたスティカの瞳がとらえる無数の星々が、水面のように波紋を作って揺れた。直後、到達した衝撃波が、機竜の巨体を震わせた。  唖然と息を飲み言葉を失ったスティカは、映像盤の右端の小さな計器が、一瞬で上端まで振り切れたことに気付いた。 「うそ……あ……有り得ないわ……」  かつて、その計器が二割ほども振れたところすら、スティカは見たことがなかった。耳に、ローランネイの、畏怖したような声が響く。 『……信じられない……こんな……心意強度…………まるで、この世界すべてを揺るがすほどの…………』  だが、眼前の事実だけは疑いようがない。  小さな生身の人間が、素因も使わずに、その心意――古の騎士の秘奥義――だけで宇宙獣の攻撃を弾いてのけた、という事実だけは。  オ……オオオオオオ――――…………  彼方で、アビッサル・ホラーが吼える。  それは怒りか、あるいは――怯えの叫びなのか。  光弾による遠隔攻撃は効かないと悟ったか、宇宙獣は、無数の触腕をいっぱいに伸ばして突進を開始した。  対峙する小さな人影は、広げた両腕を背中に回し、そこに装備された二本の長剣を一気に抜き放った。 「まさか……剣で戦おうというの!?」  思わず身を乗り出し、両手を映像盤に突く。  アビッサル・ホラーの全長は二百メルを超えるのだ。しかも、その体は実存の薄い闇素の集積だ。あんな、一メル少々の刃ではとうてい斬れるものではない。  しかし、人影――謎の剣士は、気負いのない動作でぴたりと左手の白い剣を巨獣に向け。  一声、叫んだ。  虚ろな宇宙空間と、機竜の分厚い外装甲を通してさえ、剣士の声はスティカの耳に朗々と響いた。 『リリース・リコレクション!!』  強烈な光が、一瞬表示映像を白く焼きつかせた。  回復した映像盤の中央で、剣士のかざす刃から、幾筋もの青白い光線が迸りアビッサル・ホラーへと殺到していくのが見えた。  宇宙獣の巨体とくらべれば、まるで絹糸のようにささやかに見える光線なのに、それに貫かれ、絡めとられた獣の突進速度は目に見えて衰えた。自在にのたうっていた十二本の触腕の動きも、徐々に強張り、鈍くなっていく。あたかも、凍りついていくかのように。  しかし、そんなことは有り得ない。アビッサル・ホラーは極限低温環境である宇宙に適応した生物なのだ。宇宙の温度すら下回るほどの冷気など、作り出せるはずがない。  というスティカの驚愕を、耳から響いたローランネイの囁き声が吹き飛ばした。 『あれは……あの技は、まさか…………"武装完全支配術"…………?』 「えっ……そんな、最上位機士にしか使えないはずよ!」 『でも……あの術式は、そうとしか……』  切れ切れの通話を、三度響いた宇宙獣の怒声が遮った。  オッ……オオオオオオンンンン!!  突如、捕縛された巨体が震え、新たな触腕が三本も出現した。それらは漆黒の大槍となって、謎の剣士へと襲い掛かっていく。  しかし、剣士はなおも悠揚迫らぬ動きで、今度は右手の剣を振りかざし。  再び、叫んだ。 『リリース……リコレクション!!!』  迸ったのは、宇宙獣の触腕よりも一層深く、重く、稠密な闇色だった。  全長五十メルを超えるかとすら思われる、凄まじく巨大な闇の刃が、三本の触腕を迎え撃つ。  双方が接触した瞬間、再び空間が歪むかと思われるほどの衝撃波が発生し、二機の機竜を揺らした。青紫の電光が虚空を這い回り、映像盤を眩く光らせる。  もう、スティカには、自身の驚きを言葉にすることはできなかった。  わずか七名の最上位整合機士にしか使えないはずの秘技を、しかも同時に複数発動させ。駆逐機竜の編隊ですら抗し得ないアビッサル・ホラーの全力攻撃を、たった一人で受け止める。  そのような剣士が存在するなどとは、たとえセントリアの両親にだって信じてもらえまい。  だが――。  真に驚愕すべき光景は、その先に待っていたのだ。 『スティ!! また……一人、剣士が!!』  はっ、と視線を彷徨わせると、謎の二刀剣士が出現したのと同じ方向から、さらにひとつの人影が舞い降りてくるのが見えた。  いっそう小柄だ。防御壁ごしにも、長い髪と短いスカートが揺れているのが見える。女性なのだろうか。  右手には、儚いほどに華奢なレイピアが握られていた。  女性は、その剣をすっと真上に掲げ――。  一気に前方へと振り下ろした。  漆黒の宇宙に、虹色のオーロラが一直線に出現し、美しく揺らめくのをスティカは見た。同時に、耳に不思議な、まるで無数の歌い手が高い和声を奏でるかのような音が響いた。  ラ――――――――。  心意検出計の針が、上端でびりびりと震動した。  星が。  あまりにも巨大な隕石が、どこからともなく出現し、炎をまとわりつかせながら頭上を横切っていく。  カルディナとアドミナを結ぶ航路上の隕石は、もう何十年も前にすべて排除されたはずだ。だが、機竜全体をがくがくと揺さぶるその重量感は、幻では有り得ない。  己に向かって、真正面から突進してくる巨大な質量を見て、アビッサル・ホラーが吼えた。  新たに二本の触腕を生成し、星を受け止めようとするかのごとく振りかざす。  衝突の一瞬は、無音だった。  燃え盛る隕石の先端が、宇宙獣の腕を瞬時に分断し。  巨躯の中心に、容易く沈み込み――。  闇の凝集たる獣を、一撃のもとに粉砕せしめた。  オオオオオオオォォォォォ――――――………………  断末魔の絶叫が、隕石の爆発音に重なり、宇宙に響き渡った。純白から真紅へと至るリソースの大解放が、スティカの目を強く灼いた。 「た……倒した…………の……? あの、怪物を…………?」  わななく声で、そう囁く。  だが――。 『あっ……まだ……まだだわ!!』  常にほんの少しばかり冷静な二番機搭乗員が、その現象に先に気付いた。  粉々に四散し、爆発に巻き込まれてすべて焼かれたかと思ったアビッサル・ホラーの断片が、不意に揃って動き出したのだ。  ひとつが数十センほどしかない、もとの巨体と比べればあまりに微細な闇の塊が、蠅の群れのように不規則に蠢きながら宇宙の深淵へと逃れていく。  そう――、言い伝えによれば、かつて星王もここまでは獣を追い込んだのだ。  しかし、数千の断片となって逃走するアビッサル・ホラーをすべて滅することが出来ず、軌道の果てに逃れ去った獣はやがて傷を癒して、再び航路を襲うようになった。  これでは、また伝説が繰り返されるだけだ。 「だめ……逃がしちゃだめよ!! そいつらを、全部焼き滅ぼさないと!!」  思わず、スティカは叫んだ。  しかし、二刀剣士と細剣士は、すぐには動けないようだ。無理もない、あれほど巨大な心意を発動させたのだ。  アビッサル・ホラーの断片群は、まるであざ笑うような湾曲軌道を描き、飛び去っていく。  ――と。  蠅の群が、不意に乱れた。  散りぢりになり、逃げ惑うかのように不規則な動きを見せる。  スティカは息を飲み、映像盤に指先を触れさせると、一部を拡大した。  黄金色の光が見えた。  まるで小型のソルスのように、純粋な金の輝きを放射状に放つその何かを、さらに拡大する。 「…………人…………」  三人目の剣士だ。  黄金を流したかのような髪。同じく金の装甲。純白のスカート。揺るぎなく敵を睥睨する瞳は、空の蒼。  ……知っている。 「私……この剣士……いえ、騎士を、知ってるわ」  スティカは囁いた。即座に、耳に『私も』の声が返る。  この黄金の騎士は、セントラル・カセドラル五十層・玉座の間に掛けられている、巨大な肖像画に描かれた姿そのものだ。古の異界戦争に於いて数多の武勲を上げ、戦いのさなかに姿を消したと言われる、史上最強の整合騎士のひとり。たしか、名を――。 「……アリス……様……?」  まるで、その声が聞こえたかのように、騎士の右手が動いた。  左腰の長剣を、あでやかな動作で抜き放つ。  山吹色の刀身が、ソルスの曙光を反射して、恐ろしいほどの光を帯びた。まるでその輝きを畏れるかのように、宇宙獣の断片は統制を失い、散り散りになって逃げ去っていく。  騎士は、長剣を両手で体の前に構え。  宇宙に吹き渡る爽風のような声で、叫んだ。そして同時に、機竜の心意計の針が、小さな爆発音とともに吹き飛んだ。 『リリース・リコレクション!!』  剣が、自ら強烈な輝きを迸らせた。  刀身が、じゃきっ! という金属音とともに、無数の細片へと分離した。  騎士はゆるりと右手に残った柄を動かした。  細片たちは、まるで風に舞い散る黄金の花弁のごとく、さあっ……と虚空に広がり。  一気に、無数の流星雨と化して虚空を疾った。  黄金の輝きひとつひとつが、恐ろしいほど正確な照準で、逃げ惑う漆黒の断片群を貫いていく。射抜かれた闇の蠅は、ひとたまりもなく金色の光に焼き尽くされ、蒸発する。 「…………すごい」  スティカには、そう呟くことしかできなかった。  たとえ、機士団の機竜をすべて並べ、主砲を一斉射撃したところでこれほどの精度と威力は望むべくもない。  ほんの数分前まで、宇宙……いやアンダーワールド最強最悪の神話獣と恐れられていたアビッサル・ホラーであった闇の断片の、最後のひとつが黄金の矢に貫かれたとき、これまでとは比べ物にならないほどの異質な絶叫が甲高く轟いた。  ギイイイィイィィィィォォォォォォ………………。  その声を最後に、宇宙獣はついに完全消滅した。  スティカはただ茫然と、黄金の光が騎士のもとに戻り、再び一本の長剣へと還るさまを見守った。  黄金の騎士が、仮にいにしえの整合騎士アリスその人なのだとしても、残る二人はいったい誰なのか。  映像盤では、剣を納めた黄金騎士が、すうっと宙を飛翔して黒衣の二刀剣士と真珠色の細剣士のもとへと近づいていく。  三人は、短くなにかやり取りしたあと――そろって、まっすぐスティカたちのほうへと振り向いた。  顔はよく見えない。しかし、そろって口元に微笑を浮かべているのだけは解る。  と、二刀剣士が、その白と黒の長剣を背中に戻し、右手を軽く振った。  その瞬間――。  スティカの胸の奥の奥、とても深いところを、言い知れぬ巨大な感情が貫いた。  息が詰まるほどの、甘く切ない痛み。 「あ……ああ……」  漏らした吐息と重なって、耳にローランネイの声が密やかに響いた。 『スティ。私、知ってる。私、あの人を知ってる』 「ええ、ローラ。私も……私もよ」  二度、三度と頷く。  知識として記憶しているのではない。そうではなく。  心臓が。体が。魂が、憶えている。  不意に、甘く香ばしい蜂蜜パイの匂いが鼻をくすぐる。  草原を渡る風の爽やかさ。穏やかに降り注ぐ日差しの暖かさ。  遠く、微かに響く笑い声。  スティカはたまらず立ち上がると、気密兜の晶板を下ろし、操縦席右側の持ち手を引いた。  ぷしゅっ、と空気が抜ける。機竜の操縦席を覆う三層の装甲が展開し、頭上に無限の星海がいっぱいに広がる。すぐ隣に遊弋する二番機からも、同じ音が聞こえた。  離れたところに固まって立ち、手を振り続ける三人の剣士たちの姿を、スティカはその眼でじかに見つめた。  いや。  もう一人――。  スティカの紅葉色の瞳は、不意に揺らめくように出現した、四人目の剣士の姿を確かに捉えた。  黒衣の二刀剣士のすぐ左に立ち、穏やかに微笑むひとりの青年。その姿は、眼を離した瞬間に消えてしまいそうなほどに朧に透き通り、陽炎のように瞬いている。  短い亜麻色の髪を揺らし、青年はゆっくり、大きく、頷いた。  スティカの両眼から、涙が溢れた。  頬を伝い、透明な気密晶板の内側に滴り、流れていく。一雫、またひとしずく。  やがて青年の姿は、カルディナの影から現れたソルスの光に溶けるように消え去った。  同時に、齢若い整合機士は、ついに悟っていた。  これが――この瞬間こそが、予言に記された"新たな時代のはじまり"なのだ。  彼らは、過去から現れ、未来の扉を開く使者なのだ。  この時から、世界は変わり始める。  異界の扉が開き、新しい時代の潮流が音を立てて流れだす。  それは決して、楽園の到来を告げるものではないはずだ。想像もできないような、巨大な変革と激動が訪れることになるのだろう。  しかし、スティカに恐れはなかった。  なぜなら――――。  こんなに胸が高鳴っているのだから。  あの人たちとの邂逅を、魂が震えるほどに待ち焦がれていたのだから。  ぎゅっと瞼をつぶり、涙を振り落とし、スティカはまっすぐに前を見た。  立ち上がったまま、指先でそっと操縦桿を前に倒す。  傷ついた機竜の翼が、かすかな青に輝きはじめる。  永久燃素が息づき、ささやかな推力が機体を動かす。  隣のローランネイと、一瞬視線を見交わし、深く頷きあい。  アンダーワールド生まれの少女、整合機士スティカ・シュトリーネンは、機竜をゆるやかに飛翔させた。  彼方で手を振る、見知らぬ、懐かしい剣士たちに向かって。  次なる時代の扉へと。  未来へと。  Sword Art Online 4 -Alicization-  完