しょっちゅうある脳味噌足らない意見として、
「アイツはイエスマンの意見しか聞かないんだ!周りに信者ばかり置くんだ!反対意見には耳も貸さないんだ!」とかあるけど、

そりゃそうだ。

国民全体を代表している国会議員ならば、広く意見を集めて熟議をする必要があるだろうが、普段、日々の生活の中で、反対意見を素直に聞く機会って、要るか?
ましてやネチネチうるさいネットのアンチの言うことを聞く必要が一ミリでもあるのかどうか、誰か教えてほしい。

SNSが「集合知」である時代は終わった。というか、来なかった。
この場で熟議が交わされることもなければ、有益な意見が出ることもない。
少なくとも「匿名性」がある内は皆無だろう。

そもそも、反対意見はある程度の同意条項があってこその議論ならば成立するものだ。
つまり「反対意見は言うが、最終決定権は頭領にある。決まったらそれに従う」という前提があってこその、反対意見だ。
これは国会などでも言えることだ。

ていうかお前ら、お友達と信者ばかりを周りに侍らせているアベ君や自民党が好きでしょうがないんでしょ?
一方で対立や分裂の絶えない民進党やそこから出た各党をボコボコに批判するんでしょ?

一方、「信者」の中にもその矛盾は言える。
「自分は信者じゃない!」とどうしても言い張りたい人間がいるのだが、じゃあ何になりたい訳?どういうスタンスを取りたい訳?
自分に自信がないだけの、不毛な言い訳にしか聞こえない。
「信者」という呼称に対するアレルギーが、信者にもアンチにも多い気がする。

結局何かを「信じる」自信がないだけだ。
だから肯定ではなく否定ばかりする。批判は楽だ。信じる必要がないからだ。
宗教だ!信者だ!とだけ言っておけば、大抵批判の体裁にはなる。

少なくとも僕は「信者」以外は要らない。
そこに対して作品を作り、訴え、満足させる。それ以上の仕事をするつもりは毛頭ない。
そうしなければ主張がボケるだけだ。事実、今までそうだったのだ。

そういう、当たり前のことだけを、やる。