そもそも「本尊」とは何か

本尊とは、「根本尊崇」の略語とされ、仏教においては最高に重要な崇敬の対象です。

伝統仏教の最重要教義として、「法華経が明かされた後には法華経をのみ信持すべし」という釈尊の教えがあります。
その釈尊がお説きになった法華経の文底に隠されていた「文字曼荼羅」を観心して顕されたのが日蓮大聖人です。

したがって、現在では本尊は文字で顕され、紙や木のお姿でありながら、仏様の魂が宿るひじょうに重要な「仏像」と捉えられます。
「仏様の魂」ということはもちろん方便や比喩ではなく、実際に正統の本尊を仏様と信じ尊崇する人は、これもまた日蓮大聖人の御書にあるとおり現世においても安穏な境涯を開いています。

では「ニセ本尊」とはどのようなものか

ニセ本尊とは、読んで字の如くニセモノの本尊です。
「ニセ札」や「ニセブランド品」と意味は同じです。
要するに、正当な資格権利のない個人や団体が、本来の有資格者権利保有者に無断で作ったものを「ニセ」と呼ぶのです。

創価学会が一般会員に販売しているニセ本尊。掛け軸のように見せかけているが、ただ紙に印刷しただけのインチキ商品である。前述のとおり、本尊は最も重要な「仏像」であり、ニセモノなど作れば仏様に対する重大な不敬行為となります。
本尊を有資格者が図顕、管理しないとき、どんなことが起きるのかは、日蓮大聖人が『木絵二像開眼之事』で次のようにおっしゃっています。
「法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳(だつくどく)者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたと(尊)むゆへに後生には無間獄に堕す」。

ここには、真言宗の信仰が不幸の原因になるという趣旨のお示しがありますので、「これは真言宗の破折をなさりたかったのだから創価学会の本尊のこととは関係ない」という屁理屈を言う創価学会があります。
しかるに、前段では、仏像に対しては「法華を心得たる人」による「開眼供養」が不可欠である旨の、いわば教義の基本をお示しになり、後段では、法華経を否定する真言宗の作法では幸福にはなれないという、いわば実例を挙げていらっしゃるわけです。

結論すれば、創価学会に「法華を心得たる人」はいませんし、「開眼供養」の作法を習った者もおりませんので、そのような者が作った本尊は「魔が住む命を奪う本尊」であるということになります。

創価学会戸田・池田両会長も「ニセ本尊」を厳に戒めた

まず、創価学会二代会長だった戸田さんは、「ただ、御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしょうもない。だから、佛立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている(『大白蓮華』昭和34年7月号9P)」と指導しました。

そして、今や日蓮正宗に真っ向から刃を向ける池田さんですら、自ら「現代の御書」と言い放った『人間革命』の中で次のように語っています。

「御本尊については、厳密にいうと唯授一人と申しまして、ただ一人にしかわからぬことなのです(『人間革命』第七巻12P)」。
「代々身延派日蓮宗であったことから、彼の父は宗教に凝り、(中略)本尊までもみずから書写して信者に与えるという、とんでもないところまでいってしまった。(中略)昭和二十五年、岡田一哲の父は胃穿孔で悶死した(『人間革命』第十巻245P)」。

池田さんは宗門を牛耳ろうとして様々の工作を繰り返しましたが、仏様がお赦しにならないひどさに達したと判断され最終的には厳しく指導を受け、そのために逆上して反逆し、ついに破門処分となります。

破門後も会員の心をつなぎとめるために、旧来の日蓮正宗の教義化儀を完全に捨て去ることができないジレンマから、買収した僧侶から日寛上人の御本尊を入手しこれを写し取り、「ニセ本尊」を作りました。
事情はわかりますが、貧乏だから泥棒しましたでは通用しないのと同様、やっていけないことは何があってもやってはいけません。

かつての師である戸田さんも、そして自分自身も「御法主上人猊下ただお一人にその権能がある」と説いていた本尊義をかなぐり捨てるとは、宗教者としては最低の所まで落ちたという感はぬぐえません。

そもそも、自分の主張、教えは今は変わってしまったのに、『人間革命』を改訂ないし絶版しないのはなぜなのか、理解に苦しみます。

創価学会がニセ本尊を作った経緯

栃木県の浄圓寺というお寺の住職は、創価学会に買収されて、同寺を創価学会とともに無理無体にもバリケード封鎖して占拠し、安置されていた日寛上人のお顕しになった御本尊を学会へ提出してしまいます。
この御本尊を写真に撮り、創価学会は「ニセ本尊」の原型としました。
しかも日證師という御僧侶へ個人的に授与なさった御本尊であるにもかかわらず、そのことを表す「授与書き」を消し取ってしまいました。
特定の個人に宛てて授与された御本尊を、不特定多数の信徒へ売り渡すなど、どう贔屓目に見ても許される行為とは考えられません。

本物の御本尊をここまで加工、改ざん。これでよく「本物をそのままに写し取ったから本物」など言えるものだ。そのうえ、江戸時代のものであるため自然な汚れもあり、またお筆のかすれなどもありますが、これらをコンピュータによる画像編集で、真新しく見えるようにと考えたのでしょう、すっかり改ざんを施してしまいました。
画像編集と言ってもきわめてお粗末なもので、文字の周囲が波打っていたり、先端が無理に切り取られたような不自然な文字になってしまったりしており、拡大して見ると、ひじょうに汚らしい代物であることがわかるのです。
これが現在出回っている創価学会のニセ本尊です。

創価学会側は、何の教義的根拠も示せないまま「すべて許されること」と言い張っています。
「本物の御本尊を写し取ったのだから本物だ!」など子供に笑われそうな屁理屈を、巨大宗教組織の幹部が公言するというおかしさを、あなたはどう思いますか。
そればかりか、板本尊の「化粧直し」にこじつけ、「板本尊とて御文字の部分もその外側の部分も塗りをやり直すではないか!それと同じだ!」など馬鹿げた屁理屈を言う者までいます。
紙幅の御本尊に「お化粧直し」とはまこと笑止で、そんな作法は前例が一つもありません。

さらに、紙幅本尊は「表装」と言って、本体の裏側に紙を当てて保護します。
ところが創価学会のニセ本尊は、本体も表装もない、ただの一枚刷りの紙切れに過ぎません。
原価はどう高く見積もっても100円程度で、これを3,000円で売るのは普通の商品としても儲けすぎです。
ましていのちを救うための仏様を下付するのに、大きな利ざやを設定するなどすでに詐欺的要素に満ちています。

こんなニセ本尊を持っていたり、まして拝んだりすれば(手を合わせて拝むということは魔を崇敬する行為になります)、あなたがニセ本尊を直接作ったわけでなくとも、また心から仏様だと信じて祈ったとしても、大謗法の果報をあなたも受けることになります。

また、魔は生きており、空気のように目には見えず姿かたちもないので、誰にも気取られずに自由に出入りして動き回ります。
このことは、ニセ本尊があなたの家にあるだけで、家中を徘徊してどんな悪さをしているかもわからないということなのです。

前掲の御金言にもあるとおり魔は「奪命者」であり「奪功徳者」、つまり不幸を起こす者であり、また災厄をもたらすとも言われるのですから、あなたの家に起こる全ての不幸はニセ本尊の魔の仕業だと疑うのが自然な考えというものでしょう。

創価学会ニセ本尊あれこれ。原版を使いまわして拡大縮小するだけでいろいろな本尊を製作。まさにインチキここにきわまれリ。

特に恐ろしい「お守りペンダント型ニセ本尊」

ニセ本尊の恐ろしさは、もちろん大きさとは無関係です。

創価学会のニセ本尊のバリエーションである「お守りペンダント型ニセ本尊」。幼い子にお守り代わりになど持たせようものなら、事故や病気、ありとあらゆる災厄に見舞われるのは必定である。創価学会では、ふつうの本尊を家に置くと家族がうるさいなどの事情を持つ会員などに、「お守りペンダント型ニセ本尊」の購入を勧めます。
小さく持ち運びのできる本尊は、正統の化儀では、一定期間まじめに信心を続けた信徒にのみ下付されますが、創価学会はそんなことはおかまいなし。
要するに商品販売が大きな目的の一つです。 つまり商業です。

ただ、このように小さなペンダント型ニセ本尊は、常に魔を肌身離さず持ち歩くこととなり、事故や病気、不運に見舞われる確率は格段に高まります
東京の大きな支部を任されていた支部長さんは、「ペンダント型ニセ本尊を持たせた会員は行方不明になる確率が偶然とは到底思えないほど高かった」と語っています。

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