社会学者・森岡清美による「少数意見の重みを “地鎮祭”の最高裁判決をみて」(読売新聞1977年7月18日夕刊)は、日本の政教分離訴訟として有名な津地鎮祭訴訟を受けて書かれた。
三重県津市が体育館を建設する際、地鎮祭の費用が公金から支弁され、これが政教分離違反かどうかが争われた。
最高裁まで持ち込まれ、最終的に合憲と判断された。だが、8対5という最高裁裁判官の票数を見てもわかる通り、かなり微妙な判決だったと言ってよい。
判決は、地鎮祭は慣習化した「世俗的行事」であるから合憲というものだった。
判決の時には、全国から約30名の神職が傍聴に訪れており、その1人が「あれは習俗ですよ」、つまり宗教的行為ではないという発言をした。
この発言について、森岡は「プロの資格と作法にのっとって厳修する神式地鎮祭の宗教性を神職自身が否定し去ってよいのだろうか」と問いかける。
神社非宗教論はことあるごとに復活してきた。
世界遺産登録などでもはや紋切り型となった「日本人の宗教の本質は自然そのものの崇拝であり、したがって日本人は自然と共生的で寛容であり、神道はこうした宗教的自然観に形式を与えただけである」といったタイプの主張は、神社非宗教論の現代版と言ってよいだろう。
しかし、先にみたように、神社非宗教論は自己の宗教性を否定する危うい主張である。政教分離は宗教を迫害するためのものではない。政治と宗教の領分を明確にすることで、信じない自由と信じる自由の双方を保証するのだ。
森岡の問いかけにあるように、「神社は習俗や文化伝統であって宗教ではない」という主張は、神道を信仰する人の宗教的信念を踏みにじる。政教分離はそもそも「恐れる」ものではないのである。
神社仏閣は歴史的に地域の核となってきた場合が多く、有力な観光資源になりうる。そして現在、観光も地域全体で取り組むべき重要課題とみなされるようになっている。
つまり、宗教と観光が一体となって地域を動員する形が生まれやすくなっているのだ。
しかし、筆者はすぐに軍靴の音が聞こえてくるタイプではないつもりだが、政教分離という近代国家の基本原則が観光化という意外な文脈でなし崩しに侵されることには注意を払う必要があると考える。