結局、何者にもなることができず、「只者」で「曲者」な日々を送る今日この頃。
かつて「Mr. トリプルアクセル」という異名を誇る「何者か」であったアンパンマン似のコーチが数々の超人を育てて今度は別の「何者か」になっている姿に感心しつつ、超人たちが異国から送ってくれる「感動」を肴に自分の「非何者ぶり」をビールでただ洗い流しながら、そうやって「何者か」を目指して努力する超人たちのおかげで凡人も人生を楽しめていることを改めて感じる、「只者」で「曲者」な日々を送る今日この頃。
若者は「何者にもなれない」と未来を見て嘆き、中年は「何者にもなれなかった」と過去を見て嘆いたり安堵したりする。その若者と中年との間には、無数の「何者道」が延びている。いずれかを選択すれば「何者か」になれるかもしれないし、選択を誤れば(?)「只者」として「何者か」を引き立てる役割に落ち着くのかもしれない。
少し前までは、『それから』に出てくる高等遊民のように、「如何に生きるか(あるいは、働くか)」が若者の主要なテーマであったように思うのだが、最近は、主観的(自分自身に満足)であれ客観的(他人の評価を得て満足)であれ、「何者か」が重要になってきているみたいだ。変遷の要因は色々あろうが、「見え過ぎる」ことの影響が大きいように思える。ネットや SNS を介して、無数の「何者道」やその行き着く先が見えてしまうし、他人の「映える」「盛る」姿が容易に見えてしまう。
昔の「何者か」は、テレビや新聞・雑誌などを通じてしか拝めない「運命的に超越した何者か」であったのが、近ごろは中くらいの「何者か」や小さな「何者か」の動向までもが見える化されているため、自分自身も映えたり盛ったりできる「何者か」にならなければ、とつい焦ってしまう。若者だけではない。中年も来し方を振り返りながら、「そういう何者道があったか!」と後悔してみたりする。
たとえ、輝かしい「何者か」になれなくても、結婚や子育てという「何者セーフティネット」がかつては普通にあった。パートナーの甲斐甲斐しさによって自分の「何者ぶり」を錯覚させてもらったり、家族や子どもに対する甲斐性で自身の「何者欲」を満たしてみたり。あるいは、永遠に成長し続けるだろうと思われていた企業の中に居場所を見つけ、会社のため日本のために活躍することで「何者欲」を満たしてみたり。でも、そんなセーフティーネットも、かなり目が粗くなってきている。一方、自分が進むべき「何者道」を見つけたと思ったら、「その道は近々、人工知能(AI)専用の道になりますよ」というホントかウソかもよく分からない情報が送られてきて、また悩む。
高校や大学を出てから自分なりの「何者道」を歩もうと思っていたら、社会全体が色んな分野で低年齢化していたり、細分化され過ぎていたり、短期的な結果ばかりを求める風潮になっていたりして、20 歳そこそこで「何者にもなれない」という表現ならまだしも、「何者にもなれなかった」という過去形が自然に口をついて出てしまう世の中なのかもしれない。
若者であれ中年であれ老人であれ、本当はいつまでも「何かのために生きる何者か」でありたいはずだ。そう思いながら、結局何が「好き」なのか分からない自分自身を呪ってみたり、自分の「好き」と社会の「ニーズ」が合わない現実を恨んでみたり、「好き」なのに努力できない自分自身を嘆いてみたりして、最後はいつも、「自分が只者だからだ」という結論に落ち着き、傷をなめ合う仲間を求めたり、傷をビールで消毒してみたりする。
ただ、1つ思うのは、いくら「何者」であってもその自覚がなければ、その「何者」は「只者」と変わらないような気がする(自分は何者にもなってないため、真相は分からないが)。同じように、「只者」もその自覚がなければ、「只者」にすら辿り着けない気がする。「只者」には、「何者か」を引き立てる立派な役割があるだろう。
というようなことを、今朝、「只者道」を歩く立場から「只者道」を歩き始めている子どもたちに伝えようとしたが、もう出掛けてしまっていた。今は「何者圧力」や「好き圧力」の強い世の中だが、「何者道」を行くのなら「何者」であることをただ愛せばよいし、「只者道」を行くのなら「只者」であることをただひたすら愛してほしい。