マンガの中の障害者たち-表現と人権 永井哲 著 という本を借りてみた。
著者自身が耳が聞こえない障害を持った人で、本書はマンガにどのような障害者
が登場するか?また、その描かれ方を紹介するような内容である。
で、ブラック・ジャックも登場していたので少々長いが全文紹介してみよう。
-----ココカラ
ブラック・ジャック-第12話 その子を殺すな!-
手塚治虫、秋田書店、一九七四年
(初出・『少年チャンピオン』秋田書店、一九七四年、一九号に掲載)
手塚治虫の代表作の一つです。ブラック・ジャックと呼ばれる心優しい無免
許の医者の話です。
この、『ブラック・ジャック』の「その子を殺すな!」を取り上げてみたい
と思います。
メスを使わない心霊手術の超能力者ハリ・アドラという人物がいます。この
人がマスコミに踊らされて、ブラック・ジャックのことを金が目あての悪徳医
師と思い込み、ブラック・ジャックと対決しようとします。
ちょうどその時、ブラック・ジャックは子宮外妊娠の女性の手術をするとこ
ろでした。レントゲンをとってみますと「胎児も まともじゃない」ので、
「母親を助けるには 胎児を犠牲にしなけりゃならない」
と、メスをふるおうとした時に、ハリ・アドラが現れます。ハリ・アドラはぶ
ラック・ジャックを
「胎児ゴロシハイクラモラッタ?」
とののしり、
「イクラ胎児ダカラトイッテ イノチヲトルトハナンダ! ワタシナラ
母親モオナカノ子ドモモタスケルコトガデキルノダ」
と、ブラック・ジャック を押しのけて自分で手術を始めます。ハリ・アドラの
心霊手術は成功して、赤ん坊も生きたまま取り出します。ところが、その赤ん
坊は「畸形児」だったのです。
それは「無頭児」と呼ばれる「畸形」の一種でした。作品の中では次のよう
に説明されています。「畸形の一種で 大脳をまったく欠いた赤ん坊である
ごくまれにしか生まれないが もちろん 生まれても生存能力はない」。ブラッ
ク・ジャックはここぞとばかりに叫びます。
「X線像でできそこないということはわかってたんだ だから殺したほ
うが母親のためによかったのだ!! それともその赤ん坊を生かすのが
神のおぼしめしだってのか?」
「そのカエルみたいな脳ミソのない子がどんな一生を送るというんだっ
殺せーっ」
「そのほうが慈悲なんだ!!」
ショックを受け、打ちのめされたハリ・アドラは何も言えずに黙って去りま
す。ブラック・ジャックは赤ん坊を殺し、目覚めた母親には「死んでたよ」と
告げるのでした。
さて、この話についてですが、いくつかの点で、手塚治虫らしくないように
感じるのです。
まず、心霊手術というものを、手塚がなぜこんなに否定する必要があったのか
がわかりません。確かに当時マスコミがセンセーショナルに取り上げて、スプー
ン曲げと似たようなブームになったことがあります。そういう風潮に対して
苦々しく思っていたんじゃないか? というのはわかるのですが、悪いのはマ
スコミであって、心霊手術の側ではないはずです(この話でも、ハリ・アドラ
はマスコミからブラック・ジャックの悪口を吹き込まれて、踊らされているわ
けです)。
一見「科学万能主義」に見える手塚ですが、よく観れば随所に自然を尊重す
る考え方が現れています。人間は科学の力で自然を征服するのではなく、自然
を大切にし、自然と共存していかねばならないという思想が、手塚作品の根本
にあると思います。だからこそ、ここで、西洋医学を代表するブラック・ジャッ
クが「心霊手術」をグゥの音も出ないほどやり込めるというのが、何か釈然と
しません。
そして、肝心の「障害児殺し」の問題です。
ブラック・ジャックはハリ・アドラに対して最後に言います。
「医者はなときには患者のためなら悪魔にでもなることがあるんだぜ!」
まり、たんにうわっつらのヒューマニズムではなく、一見残酷に見える行為
が、実は本当に相手のためになる優しさなんだということを言いたいのではな
いかと思います(事実、ブラック・ジャックの言動は、一見「冷酷」に見えな
がらも、根本はヒューマニズムに裏打ちされているという時がほとんどです)。
しかしながら、ここでなぜ、せっかく生きて取り出された胎児を殺してしま
う必要があるのか、わかりません。無頭児は、生存能力がないからすぐ殺した
方が幸せだということでしょうか?でも、「生きる」ということ、「生きる権
利」ということに手塚治虫は、最もこだわり続けた作家であったはずです。
やはり医者を主人公にしたマンガ『きりひと賛歌』中(手塚治虫、大都社、
一九七四年)では、逃避行を続ける桐人たちは、荒野をさまよううちに、死ん
だ母親のそばで三日ほども行き続けてきた生まれた直後の赤ん坊を見つけます。
ヤケになった桐人は、
「どうせ飢えに苦しみ抜いて死ぬ赤ん坊だっ。安楽死させてやるんだ!おれ
にはこれしかできん!!」
と赤ん坊の首を絞めようとします。同行していた麗花は、桐人を必死で止めま
す。赤ん坊が三日間生きていたのは、死んだ母親の冷え切った体におりた夜
つゆをなめてかわきをしのいでいたからでした。
「こんなにしてまで生きようとしている赤ちゃんを・・・」
麗花のその言葉に、桐人は
「・・・できるだけやってみる!」
と考えを変えます(それでも結局は、赤ん坊は 死んでしまうのですが・・・)。
『どろろ』(手塚治虫、秋田書店、一九七一~七二年)の百鬼丸は、目も耳も手
も足も、四八ヵ所の器官を失って川に流された、とても生きられないような赤
ん坊でした。それを拾い上げた医者はあまりの悲惨さに
「こやつ人間か? 虫か?」
と思わずつぶやきながらも、おかゆをすすらせ、育てていきます。
ブラック・ジャック自身も、双子として生まれるはずだった片方が、畸形
嚢腫として、腫瘍になってしまった女性の手術の時、その腫瘍を殺さずに残し、
合成手術で「人間」として組み立て生きられるようにします。これがブラック・
ジャックのあいぼうのピノコです。
このように、たとえ一見生き延びる見込みがないように見えても、今生きて
いる以上は、行き続けようとする権利はあるんだと、手塚治虫はその作品の中
で主張してきたはずです。
「無頭児」の場合は、大脳がないから、たとえ生きのびて人間として生きら
れないからということでしょうか? いえ、ブラック・ジャックは、脳死と診断
された植物人間でさえ、生きる権利はあるんだと安楽死に反対してきました
(「第37話 植物人間」)。また、人間だけに奇跡のメスをふるったのではあり
ません。動物や魚を含めて生き物すべて、生命すべてを尊重しようとしてきま
した。サルやクマ、シャチやイルカ、モルモットにもそのメスをふるっていま
す。「第217話 オペの順番」では、同時にけがをした代議士、赤ん坊、ヤマネ
コのうち、最も重傷だったヤマネコの手術を優先して、怒った代議士から訴え
られます。裁判の中でブラック・ジャックは、
「三つのケガを調べたら玉城さんが一番軽く イリオモテヤマネコが一
番重態でした だからネコを最初に手当てした それだけのことです」
とあたりまえのことと主張します。
こうしたブラック・ジャックが、なぜ「第12話 その子を殺すな!」でだけ
生きて生まれてきた子を、わざわざ殺してしまっているのでしょうか?この
点だけどうしても納得できません。
ところで『どろろ』に見られるように、江戸時代以前、障害児は生まれて
すぐに殺されていました(これは「間引き」と言われました)。現代ではどう
なのでしょうか?
まず「優生保護法」(現在は「母体保護法」)という法律をめぐって、胎児
が障害児である場合は堕胎を認めるべきという意見が、何度も出されています。
「母子衛生法」の改悪の時はには、より積極的に、胎児が障害児であれば、堕
胎するように勧告するという内容案まで盛り込まれていました。また、日本では
福祉がとてもお粗末なので、障害児が生まれた場合は、その介護や世話などは
全部親だけに集中してしまいます。それに疲れ果てて、親が子どもを殺すとい
う事件も何度かありました。ころが、そうした場合は、たいていその親に同情
が集まり、罪は軽くされるのです。殺された子どもの気持ちや権利については、
軽視されてしまうのです。
こうした状況のなかで、「第12話 その子を殺すな!」に対して批判が出た
ことについては、納得できます。『ブラック・ジャック』自体は僕自身好きだ
し、マンガとしても高く評価されるべき作品と思います。しかしながら、「第
12話 その子を殺すな!」についてだけは、障害者差別との批判を認めざるを
えないと思うのです。
------ココマデ
えーと、この人はワシと同じブラック・ジャックを読んだのでしょうか?
どうも大筋として「心霊手術」と「生存能力を欠いた障害児を殺す事の是非」
がごっちゃになっているようなのですが、
まず「心霊手術」から片付けましょ
結論から言えば手塚治虫は心霊手術否定などしていない。取り出された胎児が
「無頭児」であった事にハリ・アドラはショックをうけたのであって、手術の
出来云々の話ではない筈。
また、ブラック・ジャックにおいて所謂「オカルト現象」は多数発生しており
「畸形嚢腫」でのピノコの超能力(あと、もう一人いたよね?超能力少年)
ミイラの呪い、宇宙人・幽霊への手術、サボテンの寄生など。
オカルトでなくても「針」「時には真珠のように」のような実証されていない
人体の不思議な話。を含めてもいいと思う。
続いて「生存能力を欠いた障害児を殺す事の是非」
「無頭児」についての実態はどうなのよ?って事で検索もかけてみたけど、資
料が少なすぎるうえに専門的過ぎて正直判らん。ただ、やはり生存可能時間は
限りなく短い事だけは了解できた。
ここで事例に挙がっている「植物人間」との違いは(僅かながらも)事態が
好転する可能性が残っているかどうか。ではないであろうか?
「無頭児」は残念ながら生き延びようという自分の意思を発現できないのでは
ないかと思う。やはり「生かされている」では意味がないのだ。
また「畸形嚢腫」では当初よりピノコを生かそう(ましてや欠損部分の補完
をしよう)等とは考えていなかったのであるよ。生かしたのは脅迫を受けたか
らであって、その結果として身体の補完となったのである。
ここら辺の話であれば「ふたりのジャン」「畸形嚢腫2」が批判の対象にな
りそうであるが・・・
あ~最後まで読んだ人お疲れ様。ワシも途中で疲れたので、結構端折り気味である。
また別の機会に思い出したら追記するかもしれんし、しないかもしれない。
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何だか書き上げたらしょうも無い記事になってしまいましたが、勝手にトラックバックさせていただきました。すみません……
2005/4/20(水) 午前 1:59
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むほおお~、多種多様な意見が様々ってカンジですねえ。医学にはくわしくないけど、無頭児は生存能力がないので結局すぐ死んでしまうって聞きました。BJの事だからどうにかすれば生きれるものはすべて助けるが(ピノコみたいに代用モノがきけば)それが出来ないものに関してのみまわりの状況、関わるものの大きさ・問題全て考えた上で最良の処置を取る…ってカンジがします。それが悪魔と言われる行為であっても。…って思ってる。
2005/4/20(水) 午後 7:32 [ カラス ] 返信する
焦点の違い、なんでしょうね。
無頭児の話における最大の焦点は恐らく「完璧な医療と行き過ぎた倫理観へのアンチテーゼ」ですから。
生きる権利、にこだわり過ぎてその当事者の幸福を忘れちゃいないか…ってことではないのでしょうか。
2011/3/30(水) 午前 2:37 [ Q ] 返信する
●Qさん
古い記事に目を通していただき、あまつさえコメントまで頂きましてありがとうございます。
ブラック・ジャックは色々な読み方ができてやはり名作なんだなと改めて思うのでした。
2011/3/30(水) 午後 8:04
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