無題

「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について - シロクマの屑籠

 「何者にもなれなかった」という、この種のお話を見る度に、「それは逆だろう」という違和感を抱く。第三者とか関係なく、人はきちんと「自分はこういう人間になった。なってしまった」という実感はある筈だ。学生だろうと、社会人だろうと、サラリーマンだろうと、ニートだろうと、老人だろうと、若者だろうと、今現在の自分というものは自分自身が一番理解していて、そのいくらか先の未来まである程度正確に見通していて、寧ろそれを受け入れたくない、目を背けたいがために、「何者にもなれなかった」という「言い訳」をするのではないだろうか。本当に、心の底から「自分は何者にもなれなかった」だなんて漠然とした不安を本気で信じている人間がいるとは私にはどうしても考えられない。鏡を見て、これまでの人生を振り返って、明日の行動を思い浮かべて、自分というものをほんのり意識するだけで、そこには明確な「何者か」があり、自分の情緒とは何の関係もなく、事実としてそれを認識する能力が人間にはある。それはつまり「ただの人間である」という事実だ。人格とか、精神とか、魂とか、そんなものはただの空気の様に形のないもので、私達を本当に規定しているものは、この肉体と、過去と未来という時間だけでしかなく、今自分が持っている技術と知識だけが全てなのだという事だ。成功した、失敗した、うまく出来た、下手をうった。それらの私達が「自分自身」だと思っている体験の大部分は結果論に過ぎず、それはつまり私達は心のどこかで常に「自分を喪失している」状態でなのである。そうした心の拠り所のなさというものが、本質的に私たちに「何者にもなれなかった」という感覚を生むのではないだろうか。

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