アウトプットのためのインプットばかりしていると先細るよ?(その2)
情報管理LOGの@yoshinonです。
前回は、インプットとアウトプットの関係について書いていきました。
今回は、さらに突っ込んでどんなインプットであれば、先細りを防げるのか?ということについて書いていきます。インプット・アウトプットの関係で行き詰まりを感じている人は、どうぞ。
【 アウトプットのためのインプットばかりしていると先細るよ?(その2) 】 1.前回の振り返り 2.時間的距離が必要な理由 3.アウトプットの先細りを防ぐにはどうすれば良いか? |
この記事を書くきっかけになった記事は、こちらになります。
デザイナーとしての「ゆるやかな死」|モンブラン|note
気づいたらものすごくブクマついてますね。読んだ人多かったのでないでしょうか?
この記事の中で、(センスのかたまりと思っていた)先輩が次第にアウトプットが低下していき、最後にはモンブラン氏の言う、デザイナーにとっての
ゆるやかな死
が訪れたというのです。
先輩は、仕事を辞めてしまい、次に自分自身にも同じように
ゆるやかな死は僕の前にも現れた
というのです。
ある日、コーディングが終わって、久々に依頼されたロゴデザインを着手しようとした深夜、頭を抱えることになった。 「同じようなロゴ」しか作れないのだ。 シンボルなしのロゴタイプ出来た案はとにかく無難な割に仕立てが悪い服みたいに不格好だった。 「ゆるやかな死」が僕に手を振り始めていた。
デザイナーとしての「ゆるやかな死」|モンブラン|note
これは、デザイナーさんの前だけに現れる症状ではありません。
世の中の「アウトプット」を必要とする全ての人に訪れるかもしれない、恐るべき死の病かもしれないのです。
そこで、情報管理LOGでは、どうしてそのようなことが起こるのか?
ということについて、「インプット・アウトプット」の関係を「私」をレンズに置き換えて説明してみました。
縦軸が、インプットやアウトプットの量(や質)、そして横軸が時間的距離として考えるのです。インプットを自分というレンズを通して、アウトプットされていくのです。
さらに、アウトプットそのものが、インプットにもなり、そこに新しい情報がつっけくわわることによって、まるで回転するエンジンのように循環していくのではないか?ということを書きました。
少なくとも、「アウトプットするために、インプットをしなきゃ」というのは、人間を単なる土管のようにしか考えていないのではないか?ということでした。
こういうのは、インプット・アウトプットに対する解釈としては、間違っていると思うのです。
さて、情報管理LOGでは、「アウトプット思考法」という記事を不定期に書いています。
アウトプット思考法の基本の「キ」として、提唱しているのが
書き出す → 見直す
です。
まずは、アウトプットせよ、そして必ず見直そうということを説いています。
そして、見直すまでには、必ず一定の時間を空ける「熟成期間」というのを設けようと提唱しています。
アウトプット思考法の基本のフロー図は、こんな感じ。
大きく分けると「STEP1」と「STEP2」に分けられます。
「STEP1」は、アウトプットしたものを適切なツールに投げ込む部分です。例えば、今回の例で言えば、デザインの作法のようなものです。頭から出てきた「素の状態のアイデア」を加工する過程ですね。
そして、「STEP2」においては、それをさらに追加・修正・削除(削除も重要な要素なのです)してブラッシュアップを図っていきます。
ここで、注目して欲しいのは、「STEP1」と「STEP2」の間に「熟成期間」というものがあることです。この熟成期間を経て「見直す(レビュー)」するという行程は、実はアウトプット思考法において、非常に重要な部分をなすのです。
このあたりについては、以下で説明していますので、興味のある方はどうぞ!
ざっくりと要約すると、熟成期間を設けないと、脳内でエラーが起きやすい状態が続いてしまうと理解してもらって良いです。
そこで、前回の図に付け加えると、こんな感じになります。
アウトプットからの「熟成期間」=「時間的距離」をとることによって、脳からアイデアの残像を消してしまい、「外からの情報(新しいインプット)」や「新しいアイデア」を入れる余地をつくるという意味合いにおいて必要な措置なのです。
ぶっちゃけ言うと、
「表現」は「効率化」とは相性が悪い
のです。
元の記事にあるような「ゆるやかな死」=「アウトプットの先細り」を防ぐには、どうすれば良いのでしょうか?
上記の記事では、結果的にその先輩は辞めてしまい、モンブラン氏は
結果的にはその死から逃れることは出来たけど、その当時は会社を一旦休んで、+DESIGNINGを読み漁ってインプットを押し込んだ。
デザイナーとしての「ゆるやかな死」|モンブラン|note
とやることで、乗り切りました。
でも、よく見ると「会社を一旦休んでいる」のですよね。インプットするための時間を確保したと見ることもできますが、アウトプットを消化し、新しいインプットを入れるための熟成期間(時間的距離)をとったとも言えます。
結局、時間的距離が縮まれば縮まるほどに、インプットもアウトプット結ぶ像は小さくか細くなっていくという宿命からは逃れられません。
では、そういう時間的距離(熟成期間)を設けなければ、このジレンマから抜け出すことはできないか?というと、唯一といって良いと思うのですが、方法が1つだけあります。
それは、
インプットの多様性を増やすこと
です。
インプットの量を増やすという意味ではありません。あくまで「多様性」です。この多様性については、また他の記事で深く掘り下げたいと思いますが、例えるならば、テレビのチャンネルみたいなものだと思ってください。
NHKというチャンネルでは、様々な番組をやっていますよね?
でも、NHKというテイストという枠組みからは逃れられません。例え冒険的な番組がNHKで流れていたとしても「NHKとしては、冒険的な番組」であるに過ぎません。
でも、ここにフジやアサヒ、テレビ東京、さらにはBS、Netflix、YouTube、ニコ動なんて加えていくと、多様性が広がりますよね?
デザインのアウトプットを増やしたければ、デザインのインプット「だけ」をするのではなく、むしろデザインとは関係のないインプットを増やすべきなのです。だから、私はそうい行き詰まりを感じた時には、散歩をしたり、美術館に行ったり、コンサートに行ったり、(仕事は全く関係のない)本を読んだりするようにしています。
仕事とは全く関係のない音楽や美術、本や空白の時間をもつことは、単に仕事のみのアウトプットを回すインプット・アウトプットのサイクルを行うよりも、良い結果をもたらすことが多いのです。これを突き詰めていくと、哲学方面に向かいそうなので、少し躊躇しているのですが、思わぬところに作用することは間違いないのですよね。
なんというか、多次元的に作用する感じ?
気持ちの悪い図になるけど、こんな感じ。
複数のチャンネルをもつことの優位性
インプットの多様性ということで、チャンネルを例えに出したのですが、アウトプットのため「だけ」にインプットしていると、チャンネル内に固定化され、個人におけるブレ幅がどんどん狭くなっていく感覚があります。
そういう意味でも、複数チャンネル(多様なインプット)をもつことは、結果的にはアウトプットの先細りを防ぐことになるのではないか?と考えています。逆に複数チャンネルを持っている人は、アウトプットの幅も広がる可能性が高まるので、多様なニーズにも応えられやすくなるのではないかと思うのです。
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