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手賀沼

埋め立て危機、絵図で阻止 農民が製作、方針覆す

明治初期、開墾阻止のために手賀沼周辺の農民が作製した絵図の写し=千葉県柏市沼南庁舎で

 手賀沼(千葉県)が明治初期、新田開発による全面的な埋め立ての危機に直面した際、地元農民が結束して阻止に動いた史実が、柏市史編さん委員会の調査で分かった。薩摩、長州出身者らを中心とした明治新政府が食糧増産を計画したのに対し、農民はウナギやカモといった豊かな自然の恵みをもたらす沼を保全するため、知恵を出して沼消滅の危機を乗り越えた。新政府の方針を覆したのは、農民が作った詳細な沼の絵図だったという。【橋本利昭】

     市教委によると、明治新政府は、それまで江戸幕府の管理下にあった全国の荒れ地を民間に払い下げて開発させようと計画。手賀沼についても1871(明治4)年8月、当時の葛飾県に払い下げのための調査をするよう指示し、同年10月には、開墾を進める大蔵省勧農寮が払い下げの方針を布告した。

     これに対し印旛県は翌72(明治5)年3月、大蔵大輔だった井上馨に「(手賀沼の)地境不分明」などと訴える上申書を提出。農地の複雑な権利関係を理由に性急な開墾は困難として、民間業者の入札をいったん取り消すよう求めた。73(明治6)年には当時の沼周辺にあった39の村が追加資料として「手賀沼全絵図」を製作した。

     旧鷲谷(わしのや)村(現・柏市鷲野谷)の村長宅で保管されていたこの絵図の写し(縦105センチ、横310センチ、和紙製)には、東西に細長い沼周辺に、江戸時代から開墾が試みられていた農地が測量によって記され、彩色や線引きして所有関係を詳細に明記。絵図は魚やカモの収穫量を示した資料とともに印旛県令に提出され、これが決定打となって新政府は沼の開墾を中止したという。

     市教委の高野博夫主任(62)は「農地や猟場を書き込むことで、農民は税金を納めていることを訴え、印旛県も地元寄りに動き、国の開墾方針を変更させた」と指摘。その上で「『お役人様、お願いですだ』というイメージが強い農民は、実は情緒に頼らず、データに基づき、これまでの沼との関わりやその必要性を主張する賢さがあった」と推し量る。

    来月20日・公開講座 今年は明治改元から150年。当時の市の歴史を考える公開講座「柏市の成り立ち」が3月20日午前10時~正午、柏市大井の二松学舎大学柏キャンパスで開かれる。先着100人で同2日から同大で申し込みを受け付ける。入場無料。問い合わせは同大地域連携室(04・7191・8753)。

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