なぜアメリカ人は真っ青なケーキを平気で食べるのか? その理由がほぼ判明
1つは、シェイクにポテトをディップして「美味い」と頬を落とす、その味覚。そしてもう1つは、公共トイレに「蛍光ピンクのハンドソープ」を設置する、その色覚だ。
日本では「衛生」や「安全」を表す色は、緑。それゆえ、公共トイレでは緑色のハンドソープをよく目にし、工場の床なども緑に塗られていることが多い。
こうした先入観を引っ提げ、初めてアメリカのトイレのハンドソープディスペンサーをプッシュした際、「ようこそアメリカへ」と登場した“蛍光ピンク”に、安全どころか危険すら感じた筆者は、出した手を体のもとへ引っ込める結果に相成った。
このように、国にはそれぞれ独自の色彩感覚がある。
今回は、筆者がアメリカで感じる、日本との「色に対する固定観念や感覚の違い」を多角的に紹介してみたいと思う。
一概には言えないが、日本人には「色の深みや移り変わり」を、アメリカ人には「色の違いや組み合わせ」を好む傾向がある。
日本では江戸時代、幕府が贅沢を禁ずる「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」を発令する中、庶民によって「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」なる繊細な色彩感覚が生み出された。
鼠色や茶色など、限られた地味色の範囲でも、わずかな違いを楽しむ美的センスは、現代の日本人にも、しかと受け継がれている。
一方のアメリカには、多種多様な移民が個人主義のもと生きているため、「私を見ろ」といわんばかりの明るく眩しい色が、街のそこかしこに溢れている。
人気店のディスプレイに並ぶ“蛍光パステル色のカップケーキ”に、「どれにしようかな」と食欲をぶつけるアメリカ人の友人の隣で、茶色い部分を必死に探す筆者の腹中は、胃液を打ったように静まり返る。
こうした「モノの色」に対する固定観念の違いは、他にも多くある。
例えば、日本では「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の7色と認識される虹は、アメリカでは「赤、オレンジ、黄、緑、青、紫」の6色。国や地域によっては「虹は2色だ」とするところまで存在するから面白い。
太陽においては、日の丸の影響からか、赤で描かれることが多い日本に対し、アメリカの太陽は、黄金色か黄色が一般的だ。
また、色そのものに抱くイメージも、国ごとにずいぶん違う。
日本では、先に紹介した「緑」の「安全」や「清潔」の他に、「赤」には「情熱」、「紫」には「優雅さ」、「青」には「知的さ」といったイメージがなされる。
それに対し、アメリカでは「緑」には「嫉妬」、「赤」には「警戒」、「紫」には「尊敬」や「喪失」、「青」には「卑猥」というワードが並ぶのだ。
文頭で紹介した「ピンク」には、日本では「かわいらしさ」、「甘え」といった印象が強い。そのためか、成人映画のことを「ピンク映画」と表現するなど、“オトナ色”としても使われることがあるが、アメリカでは先に紹介した通り、その役目は「青」。ゆえに、「ピンク映画」も「Blue movie」と表現される。
また、アメリカ人が抱く「ピンク」には、「健康」というイメージもあるため、英語の慣用句「in the pink of health」は、「健康そのもの」と訳されるのだが、初めてこのフレーズを聞いた思春期只中の筆者は、「ピンク」と「ヘルス」のコラボのせいで、これを“やらしさの極み”と勝手に解釈し、人知れず動揺していたことを、今でも時々思い出す。
◆日本独自の色彩感覚もまた、外国人を悩ます
一方、こうして私たちが海外の色彩感覚に違和感を覚えるのと同じように、多くの外国人が首を傾げる「日本の色彩感覚」も少なからず存在する。
中でも外国人を悩ますのが、「青」と「緑」の関係性だ。
筆者が日本語教師をしていた頃、“毎朝すること”をテーマにした授業で、
「(ホームステイ先の)お母さんは毎朝ジュースを作ります。“青汁”といいます、でも“緑汁”です」と、困惑した様子で発表した学生がいた。
諸説あるが、これは、色彩表現が「白・赤・青・黒」の4色しかなかった平安時代、「青」を指す範囲が、現在の「緑」や「紫」、「灰色」と、多色に渡っていたことに由来する。
そのため、先の「青汁」のほか、緑色のモノは今でも「青信号」や「青りんご」と表現されることが多いのだが、「先生、“青々とした緑”は何色ですか」と、授業後に集団で質問にやって来る学生に対峙する度、例を挙げて説明しながらも、正直「2対1でもうこれは青だろ」と内心思うこともあった。
欧米との間で色彩感覚に違いが生じたのには、こうした歴史・文化的背景の他に、「メラニン色素の量の差」という、物理的な理由も一部あるといわれている。
こげ茶色や黒い目を持つ人が多い日本人に対し、白人の瞳は青や緑、グレーにヘーゼルと、実に多様だ。
そんな彼らの目は、日本人の目よりメラニン色素が少なく、眩しさに弱い。そのため、色の見え方にも違いがあるとされており、「赤色」においては、青い目は黒い目よりも4倍の色素視感力があるという研究報告もある。
余談だが、筆者はニューヨークで、御年90歳になる白人女性オーナーとアパートをシェアして暮らしているのだが、彼女は筆者の部屋から漏れ出る明かりを見つけると、毎度「なんでこんなに明るいのに電気をつけているんだ」と、ドアを叩きにやって来る。
筆者はその都度、「あなたと私のメラニン色素量の違い」を丁寧に説明するのだが、彼女は毎度、腑に落ちない様子で、「稲川淳二氏」がいないと成立しないほど暗いリビングへと戻っていくのだ。
このような、日米間に生じる「色に対する感覚の違い」に言及すると、思い出されるのが昨年から年初にかけて話題になった、「お笑い芸人の黒塗りメイク問題」だ。
「これのどこが差別なんだ」と首を傾げる人々と、「浅はかだ」と主張する人々の意見の投げ合いは、当時から幾度となく繰り返されたが結論が出ず、後味だけ悪くして立ち消えた感が否めない。
アメリカは、言わずもがな「移民の国」だ。そのため、「アメリカ人」とひとくくりにしても、その前には「ヨーロッパ系」、「アフリカ系」、「アジア系」、「ヒスパニック系」など、異大陸からのルーツを持つ国民がほとんどで、ゆえに無論、日本以上に体の色の違いや、各民族の色彩感覚を目の当たりにする機会も多くなる。
化粧品売り場に行けば、「肌色」の概念が一気に吹っ飛ぶほど多色のファンデーションが並び、車の運転免許証にも目の色が明記される。
1つのテレビ番組に出演する俳優やアナウンサーが、同じ人種で揃うことは決して起こり得ないし、公共トイレを示す「男女プレート」も、赤=女性、青・黒=男性とせず、「世界で標準化されていない固定観念は使わない」といった配慮が進む。
こうした「色の違い」が日常に溶け込む国と、3,000年もの間、たった1つの民族によって築き上げられた国とでは、感覚が違って当然で、蛍光ピンクのハンドソープに手を引っ込めるのも、蛍光パステルカラーのカップケーキに食欲が湧かないのも、黒塗りされた顏に笑ってしまうのも、なんら不思議なことではない。
ただ、重要なのは、それらを「なんら不思議なことではない」、で終わらせないことなのだ。
各々の国には、他国から見れば「自文化との違い」でしかないものであっても、中には、他国が想像し得ないほど深い伝統や歴史、傷を背負っていることがある。
それらを100%感じ取ることは難しいかもしれないが、目元の色眼鏡を一旦外し、時には互いの色眼鏡を試し掛けしてみるくらいの理解・関心があれば、いつか我々にも2色の虹が見えてくるのかもしれない。
【橋本愛喜】
フリーライター。大学卒業間際に父親の経営する零細町工場へ入社。大型自動車免許を取得し、トラックで200社以上のモノづくりの現場へ足を運ぶ。その傍ら日本語教育やセミナーを通じて、60か国3,500人以上の外国人駐在員や留学生と交流を持つ。ニューヨーク在住。