国際・外交

斉藤ウィリアム浩幸氏に「国家機密」横流し疑惑

「霞が関のショーンK」もう一つの顔

「飛び級」したと嘘ついて…

前述したように斉藤は'71年カリフォルニア生まれとブログで称してきたが、たとえばJALが公表した生年月日は'70年3月23日となっている。ブログによれば、高校を1年で飛び級して16歳でUCR(カリフォルニア大リバーサイド校)に入学したように書かれているが、JAL発表のUCR入学は'87年で、17歳となる。ある斉藤の知人が指摘した。

「'70年生まれだと普通に高校を卒業したことになるので、ハク付けのために'71年生まれで1年飛び級したとブログに書いたのではないでしょうか。さすがにJALに入る時は執行役員としてのプロフィールだから、本当の生年を書いたのでしょう」

斉藤のことをよく知る日系3世がいる。斉藤と同じく、現在は日本に移住しているマイケル・田中(仮名)だ。本人に会うことができた。

「'90年代の終わりに彼の弟と知り合ったのが、きっかけでした。その弟から兄であるウィリアムを紹介されたんです。ウィリアムにはたいしたIT知識がありませんが、弟はコンピューターのハッキング能力に長けていました」

斉藤ウィリアム当人のブログによれば、医学部在学中に設立した生体認証企業「I/O ソフトウェア」を、'04年にマイクロソフトのビル・ゲイツに売却したという。その会社自体は存在したらしいが、売却で莫大な利益を得たという話はマユツバもののようだ。田中がこう打ち明ける。

「ウィリアムはマイクロソフトとの取引で6000万ドル、日本円で約70億円の売却益を得たと話していました。そのあとIT企業のフォーバルに入り、元ニューヨーク市長のルドルフ・ジュリアーニとGSSA(ジュリアーニ・セキュリティ・アンド・セーフティ・アジア)を立ち上げたが、そこから斉藤の両親の口座に、6000万円とも2億円ともいわれる大きな資金が流れて問題になったという話もあります」

 

中国製ソフト導入の圧力

GSSAの資金トラブルについては公表されているわけではなく、その真偽は不明だ。その後、斉藤は日本に活躍の場を求めていった。ブログによれば、'05年に活動拠点を日本に移したとある。実は、斉藤が世に出るきっかけをつくったのが、この田中である。斉藤を元米国駐日大使のジョン・ルースへ引き合わせたのが彼だったという。

「'09年のことでした。グローバル・アントレプレナーシップ・ウィークのイベントがあり、このときウィリアムが駐日米国大使館の人を紹介してくれないか、と頼んできた。それで、知り合いの米国領事館のメンバーといっしょにルースを引き合わせたのです。それが私のミスでした。今では後悔していますが、そこから彼は親しくなったルースの名を利用し、活動を広めていったのです」

斉藤が次に近づいたのが黒川清だ。東海大学医学部長や日本学術会議会長、内閣特別顧問などを歴任した黒川は、東京電力福島第一原発の国会事故調査委員会を立ち上げた学者として知られる。斉藤は黒川に招聘され、事故調のメンバーに加わったと語っている。再び田中の証言。

「ウィリアムはUCLA医学部時代に黒川先生から学び、弟子になったかのように吹聴していました。たしかに黒川先生はUCLAで教えていたけど、それは'70年代の2回。斉藤は'70年生まれなので10歳にも満たない頃。タイムマシーンでも使ったのでしょうか。政府の人間が、そんなことにも気づかないのはどうかしている」

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