フィギュアスケート五輪元日本代表の鈴木明子さん
今回から3回にわたって、フィギュアスケート五輪元日本代表の鈴木明子さんが実践する健康マネジメント術を紹介する。6歳からフィギュアスケートを始め、15歳で全日本フィギュアスケート選手権4位となり注目を集めるが、大学1年のときに摂食障害を患う。身長160cmで32kgまで体重が落ちたが、たった1年で見事に復活。オリンピックに2度出場していずれも8位入賞を果たした。そんな鈴木さんのインタビュー第1回は、「選手としての転機になった」という「摂食障害になった理由や克服したきっかけ」について伺った。
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18歳で「摂食障害」を患いましたが、私は昔も今も食べることが好きですし、体は強いんです。あまり風邪をひかないし、熱もほとんど出ない健康優良児。ひいても1日ぐらいで治ってしまいます。
摂食障害になれば、栄養が足りないので骨粗しょう症のように骨がもろくなります。でも私は摂食障害になっても骨密度は高いままでした。それは幼い頃の食習慣が関係しているのかもしれません。
■トップアスリートの体をつくった幼少期の食生活
私の実家は愛知県豊橋市にある割烹料理店です。父は絵に描いたような頑固な板前で、たまに外食するにしても、炉端焼きなどの和食店ばかり。イタリアンやフレンチ、ファミレスなどに連れて行ってもらった覚えがありません。
幼少期の私は厨房をウロチョロし、父がさばいたお刺身の切れ端を、大きく開いた口に入れてもらうような日々を過ごしていました。ちょうど親鳥がヒナに餌をやるような感じです(笑)。毎日の食事は魚や野菜料理がメイン。調味料を使った余計な味付けはせず、薄味。素材そのもののうまみを生かした料理を食べさせてもらっていたので、料理をおいしくするためには、調味料でどう味付けするかというより、素材をどう生かすかといった考え方や、素材そのものの味を味わうといった味覚を得ました。
今でもサラダのドレッシングは市販品なら少量しか使いませんし、焼いたお肉もタレより塩や山椒などをつけて食べる方が好きです。「よくかんで食べなさい」と軟骨なども食卓によく出てきましたね。おやつの習慣もなかったし、出てくるとしたらフルーツでした。
こんなふうに、親は栄養学の勉強をしていたわけではないけれど、自然と健康的な食事を私に与えてくれていました。体脂肪が落ちて生理がこなかったり、栄養が足りず骨がもろくなったりする女性アスリートは多いですが、そんな経験は一切なかった。親なりの食育が、アスリートとして多いときでは1日8時間以上も練習できる体をつくってくれたのだと感謝しています。
■完璧主義な性格が「摂食障害」につながった
そんな私がなぜ「摂食障害」という病気になってしまったのか……。
フィギュアスケートは表現力や持久力はもちろん、高いジャンプ力も求められます。高くて美しいジャンプを飛ぶためには体重も大きく影響する。もちろん体重が増えると足への負担も大きくなり、ケガにつながるリスクも高まります。特に体重や体脂肪が増加しやすい思春期は女子アスリートにとって難しい時期であり、私自身「体重を落としたらもっといいジャンプが飛べる」という意識が常にありました。
「同世代の浅田真央ちゃんや安藤美姫ちゃんと自分を比べてしまって……」 高校の頃は、アスリートとしての自覚や、必要な知識が足りず、インターネットで知ったダイエット法などを試したこともありました。今思えば、そうした自覚や知識の足りなさも、この病気を患うことになる一つの原因でした。
高校卒業後、20歳のときに迎えるトリノ五輪を目指し、仙台市にいる長久保裕コーチに教えてもらうため、実家を離れて東北福祉大学に進学しました。親に管理されなくなると、「自由にできる!」などと開放的な気分になって自己管理を怠る人は多いでしょうが、私はその逆でした。「自分次第ですべてダメになってしまう」といった、自由であるがゆえの強い責任感を覚えてしまったのです。
もともと完璧主義な性格で「まっ、いっか」という妥協ができません。思い通りにならないと自分を責めてしまいます。
それまで自己管理もすべて自分でできると勘違いしていたこともあって、一人暮らしを始めた途端、何もかもできない自分に愕然(がくぜん)としました。本当は、親やコーチといった周囲の協力もあって、コンディションづくりも競技生活も成り立っていたのに、分かっていなかったんです。
例えば、朝何時に起きて、ご飯を作り、洗濯をし、学校に行って、練習に行って、帰宅後は自炊して、何時に寝て……といった、自分が考える理想のスケジュール管理ができない。そのことにショックを受けてしまいました。「完璧な食生活と自己管理をしなければいけない」という思いが強く、「きょうは疲れたからお総菜を買って、ご飯とお味噌汁だけ用意すればいい」「外食すればいい」といった考えが許せなかったのです。理想の生活から乖離(かいり)した現実に、「日常生活や食生活すら自分でコントロールできない……」という劣等感を抱えてしまいました。
■数字ですぐに結果が分かる「体重」に執着
そのとき、「スケートを上達させる」といった本来の目標を再認識できればよかったのですが、いつの間にか目標が「体重を管理したい」にすり替わってしまった。あの頃は、同世代の浅田真央ちゃんや安藤美姫ちゃんと自分を比べてしまい、「コーチに『頑張ったね』と褒めてもらいたい」「誰かに認められたい」という承認欲求がとても強かった。だからすぐに結果を出したかったのでしょう。スケートは試合に出場しないと結果が分かりませんが、数字ですぐに結果が分かる「体重」に、どんどん執着していきました。
次第に食べられるものの許容範囲が狭くなっていきました。まず、大好きだったお肉が食べられなくなり、脂っこいものが食べられなくなり、油でいためたものや油を使ったドレッシングが食べられなくなった。ご飯を食べるときも「何グラムか」といちいち量らないと安心して食べられず、外食もできなくなりました。大学の学食で注文できるのは素うどんぐらい。それも辛くなって、お昼の時間は食事をしなくて済む図書館に逃げ込みました。すると、誰ともコミュニケーションを取らなくなります。一人の時間が長くなると「体重が増えたらどうしよう」と悪い方に考え出し、負の連鎖に陥りました。
帰宅すれば、まず体重計に乗りました。あの頃は1日8回ぐらい乗っていて、体重が少しでも増えていると、もうパニックになった。水を飲んだだけで増えるのは当たり前なのに、冷静に考えられなくなるのです。
■摂食障害から脱却するきっかけとなった母の一言
この病気の本当の怖さは、脳のコントロールができなくなることだと思います。48kgだった体重はたった4~5カ月で32kgまで落ち、当然体調が悪くなって練習を休むようになって、大学にすら行くこともつらくなった。「これ以上痩せたら危ない!」と分かるはずなのに、食べれば止めどなく太るような気がしてならず、食べられませんでした。
「摂食障害を患った私を母が受け入れてくれた。それが回復のきっかけでした」 さすがに長久保コーチや大学の部長もおかしいと気づき、実家に帰って病院に行きなさいと言われました。病院に行くことはつらかった。だって、「体重の数値だけが頑張った証し」だったから。それに「摂食障害」という病名をつけられてしまうと、それまでの努力がムダになり、自分を否定されることになります。だからかたくなに「私は病気じゃない」と言い続けていましたね。そんな中、医師からは、このままではトップレベルの競技復帰は不可能だと言われ、目の前が真っ暗になりました。
たった数カ月でガリガリになって帰ってきた娘を見て母は言葉を失い、最初は病気を、そして病気を患った私を、受け入れられない様子でした。
母に「食べなさい」「お願いだから食べて……」と言われるほど、せっかく作ってもらったご飯がどうしても食べられない。そんな「食べる」という本能的な行為ができないことに葛藤し、自分を責め、誰からも認められないつらさに落ち込みました。体力がなさ過ぎて寝たくても眠れないし、スケートをやりたいと思っても電車に乗ってリンクまでたどり着けない。「生きている意味があるのかな」。そんなことを思いながら、どん底にいる気分でした。
「食べられるものから食べよう」
私が回復するに至ったきっかけは、母からのこの一言でした。「食べなさい」「野菜とお米も食べないと」という言葉から、「食べたいものを食べればいいわよ」という言葉に変わり、私は母に摂食障害を患った自分を受け入れてもらえているような感覚を覚えました。「何もできていない私でも、生きていてもいいんだ」と思えるようになったんです。少しずつ回復して母が作ってくれたものを食べたとき、「ああ、食べてくれた」と母は泣いていました。
※次回に続く
(ライター 高島三幸、写真 鈴木愛子)
鈴木明子さん 1985年生まれ。6歳でスケートを始め、15歳で全日本フィギュアスケート選手権4位。18歳で摂食障害を患い、体重48kgから32kgに。2004年復帰、06~07年ユニバーシアード冬季競技大会優勝。09~10年グランプリシリーズ中国杯優勝。バンクーバーオリンピック8位入賞。12年世界フィギュアスケート選手権で日本人最年長27歳で銅メダル獲得。14年ソチオリンピック個人8位。現在プロフィギュアスケーター、振付師として活躍。著書に『ひとつひとつ。少しずつ。』(KADOKAWA)など。 [日経Gooday 2018年2月16日付記事を再構成]
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