生産性について考える。もともと生産性というのは単位時間あたりの生産量のことだから、製造業に由来する概念であり、昨今言われる「サービス業の生産性が低い」というのも、そもそも単純に比較できない話だろうと思っている。ただサービスを担うのが人的労働である限り、労働投入量に対する付加価値が諸外国に比べて相対的に低いことは間違いなさそうだ。
付加価値が低いのにも、①クオリティの低い労働をしているのに不要な人件費がかかっている、②クオリティの高い労働をしているのに妥当な人件費をかけていない、という2つの可能性がある。前者は残業だとか、機械で自動化できる仕事をいまだに人海戦術でこなそうとするといった問題から発生する。後者はいわゆる「ブラック労働」だけれども、派生効果として、人件費を抑えて「安くて良いサービス」の提供を行った結果、人件費を上げると競争に負けるという負の循環も引き起こしている。それが昨年あたりからの「人手不足にも関わらず賃金が上がらない」という現象の根本的な原因なのだと思う。
そもそも、「安い価格で高品質のサービスの担い手を確保する」というマジックが可能だったのは、その多くを若者が担っていたからだ。アルバイトが持て囃され、情報誌が刊行されるのは80年代の終わり。団塊ジュニア世代が若者のボリュームゾーンであり、好景気もあってバイトの需給は満たされていた。それが不景気になり、デフレ環境下で価格は下げるがサービスクオリティは落とせないという状況の中で、働き手に給料以上の精神修練を求め、若者の成長の場としてバイトを位置づけるという企業戦略が横行した。店長がシフトに入らない学生バイトをメーリングリストで説教するという光景も、この当時は普通に見られた。
だが「ブラック」という言葉が人口に膾炙し、過労死などの問題がクローズアップされるに及んで、この状況も変化している。成長の実感を得られるとか、就活の支援を売り出すバイトは学生に人気だが、そうでないサービス業は人手不足で業務を縮小するか、いよいよ切羽詰まって外国人を安く雇えるようにしろと言い出す経営者も出てきている。どうやら彼らはいまや大陸アジアにおいて、日本企業は仕事が多いのに給料が安いという不評の対象になっていることを知らないようだ。
こうしたことを考えるのは、教育だとか、あるいは進学を希望する留学生の話を聞いたりするからだ。彼らの多くは日本企業の生み出した製品にシンパシーを感じているし、お金になるところにならどこでも移動するという「Anywhere」なメンタリティではない。そして総じて人柄がよく、素直で、意欲的だ。
それではダメなのだ、と強く感じる。これからの文系の教育はおそらくそうした「どんなにブラックな環境でも、生産性を向上するのではなく素直に自己犠牲を受け入れる従順な若者を送り出す」機関と、「真に生産性を高めるための自己研鑽や成長に対するビジョンを持ち、それを実現できる」機関の間で、大きな格差を生んでいくことになる。もっと言えば、前者のような環境で評価されてきた若者と、後者のような環境で評価されてきた若者とで、進路選択の中身が変わってくる。では、どうやって後者のような環境をつくるか?
分野として注目されているのは、「STEAM」、つまり科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、芸術(Art)、数学(Mathematics)だ。社会科学も、上記の分野との関わりの中でどういう価値を持つのかを明確にしていく必要があるだろう。科学的で数理的な社会調査とはどのようなものか、社会学にありがちな「考え方」は、技術や工学によってどのように現実のものになるのか、美学と社会はどう関わるのか、そうしたことをビジョンとして持てないまま、「常識にとらわれないものの見方を身につけよう」といった、常識的かつ陳腐なキャッチコピーで社会学を売り込むのは、最悪の愚策だと言わざるをえない。
議論、協働、提案といったところが、どうやらこのゼミの売りポイントらしい。ただ最近の高校でもこうしたことをカリキュラムに取り込むようになっているし、形式としてそれが「できる」というだけでは、大きなアドバンテージにはならないだろう。「レベルの高い提案」をできるようになるために、どのような取り組みを取り入れるのか。1年2年ではなかなか完成はしないだろうし、それがゼミという形式に必要なことなのかどうかも含めて考えなきゃいけないとは思うけど、ぼんやりと見えてきた40代のミッションは、そういうことなのかなと思っている。