2015年 08月 27日
父たちの戦争2-3 池田浩士 『ヴァイマル憲法とヒトラー』 |
今回は、池田浩士『ヴァイマル憲法とヒトラー 戦後民主主義からファシズムへ』(2015年6月、岩波書店)を紹介したい。
著者が、池田浩士(いけだ・ひろし)さん(ドイツ文学者、ファシズム研究者)であり、サブタイトルに「戦後民主主義からファシズムへ」とあって、つまり現在の日本のことを念頭に論じているのだなと思い、迷わず購入した。

読みはじめると、ドイツでの最新の研究成果などをふまえた論考も多く、学ぶところが多かった。
以下は、その読書メモです。
1「ファシズム」とは
「ファシズム」(fascism)という語は、イタリア語「ファッショ」「ファッシ」(fasci)=「束」や「結束」を意味する語に由来し、「魅惑、魅了」(fascinare ファッシナーレ。英語ではfascinate?)とも関連する。ファシズムは、どこか気持ちいいのである。
「結束」には、団結する主体の意思による「下からのファシズム」と、他者の意思と力によって束ねられる「上からのファシズム」がある。
これはファシズムの一般論だが、それに加え、著者は重要な視点を提示する。
「『束』を作るということは異物を排除することだ、という視点です。…ムッソリーニの偉大さをヒトラーが讃えるとき、彼は反対派を断固として排除するというファシズムのこの基本的な特性を体現するファシストとして、ムッソリーニを讃えていたのです。」
「ファシズムが私たちを拘束し縛るとき…抹殺されるのは、私たちの身体的自由だけでなく思考力と批判精神と目覚めた感覚なのです。」
2 ヒットラー政権の誕生
ヴァイマル憲法(1919年)下で国会議員選挙は、有権者の意思をできるだけ的確に反映することを重視した比例制で、政党の番号に投票する。制度の詳細はすこし煩瑣になるので省略するが、日本の小選挙区制のように大量の「死に票」がでることはない。
そのような選挙制度のもとで、どのようにして国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は多数派となったのか?
1929年10月の「暗黒の木曜日」、世界恐慌はアメリカからの借款が打ち切られるなど、ドイツ経済に深刻な打撃をあたえ、失業者が増大する。
敗戦国ドイツに押し付けられた「ヴェルサイユ体制」とそれを甘受してきたヴァイマル共和政治を批判してきたナチ党の主張が、この社会混乱によって、国民のあいだに伝わりやすい状況が生まれた。そして、1932年の国会議員選挙で、ナチ党は国政第一党となる。
しかし、ナチ党が失業問題を現実的に解決したのではない。それを利用しただけだった。
著者は、この選挙結果に関するドイツでの研究を紹介する。
1 これまで選挙に行かなかった無党派層がナチ党に投票した
2 ドイツ国粋民族党など、右翼政党の票がナチ党に流れた
3 失業者の多い地域ではナチ党は得票を伸ばしておらず、反対に失業率の低い地域で得票を伸ばした
(失業率の高い地域では共産党が得票を伸ばしている。)
この分析結果を、著者は、次のように読み解く。重要な視点だと思う。
「(ナチスを支持するようになった人びとの)心情は、いま現在についての絶望や怒りであるよりは、むしろ、迫りくるものについての不安や危機感です。…ナチズムは、こうした予感的あるいは予防的な危機感を、いわば未然に吸収し組織したのではないでしょうか。」
(感想)→「戦後憲法」や、それを「甘受」してきた「戦後民主主義」と(左派)リベラル政党への憎悪をバネに、「戦後レジームからの脱却」をうたう政党は、その思考回路において、ナチ党と通じるところがある。そして、現にある危機ではなく、「迫りくるものについての不安や危機感」を煽っている点でも。
なお、ナチ党の「ナツィオナールゾツィアリスムス」は通常「国家社会主義」とされるが、池田氏は「国民社会主義」と訳出する。その理由をいくつか挙げているが、ここでは「一人の人間が(すすんで)国民となる」というところにナチズムの性格を見る著者の視点を指摘しておくにとどめる。
3 「国民革命」運動としてのナチズム
著者は、ヒトラーが1933年にナチ党の構成員に向けておこなった演説で、党の運動を「国民革命」と名付けたことに注目する。
つまり、ナチ党は自らを、ヴァイマル体制・戦後民主主義にたいする「革命政党」と位置づけ、国民運動を組織したのである。
ヒトラーが、このように「国民」にこだわったことと、マルクス主義や共産党や社会民主党を不倶戴天の敵と考えたこととは、表裏一体の思考であった。
マルクス主義の運動は、「万国の労働者団結せよ!」のとおり、世界の労働者の連帯(インターナショナリズム)を志向する。ヒトラーは、こうした思想が「『国民』を分裂に導き、『民族民衆』たる同胞をないがしろにして外国に媚を売る風潮を生み育てる…このような思想は、祖国を持たないユダヤ人のものであって、ドイツ人とは無縁なのだ、ドイツ人にとって大切なのは『国民主義』でなければならない。これがヒトラーの基本的な考えでした。」
(感想)→ 第一次大戦末、ドイツ帝国の消滅の契機となったドイツ革命。その革命を先鋭的にたたかったスパルタクス・ブント(共産党)のカール・リークネヒトやローザ・ルクセンブルクはユダヤ人であった(二人とも虐殺される)。社会民主党の幹部のベルンシュタインやカウツキーほかもまたユダヤ人であった。
ナチスによるユダヤ人排斥という出来事を見る際、それを「民族」排外主義としてだけ論じるのでなく、そのなかに、反マルクス主義(反階級理論)、反インターナショナリズムというイデオロギーが憎悪のようにあったことをも見逃してはいけないことに気づかされた。
また、ニュルンベルグ裁判ではクルップ財閥が戦犯になったし、GHQは財閥解体を命じた。裁く側も同じ資本家階級だから早々と免責され復活をとげたのだが…。戦争といえば軍事・政治が表立って見えるが、それを動かしている経済権力(資本主義)の存在も忘れてはいけない。安保法制を掲げた政府が兵器産業と原発産業を強力に後押し、また後押しされているように。
4「遥かな国の遠い昔ではなく」(終章のタイトル)
もう少しメモしておきたことがあるが(ハンナ・アーレントの論じる「悪の凡庸さ」など)、次の終章の一節を引用しておわりたい(疲れてきました)。
「ヒトラーは失業をなくしてくれるだろう、ヒトラーはドイツ人の誇りを取り戻してくれるだろう、ヒトラーは差別をなくしてくれるだろう、少なくともヒトラーはいまよりはましな現実をもたらしてくれるだろうーー憲法が規定する主権者であり、自分自身の生の主体である民衆が、主体としての人間であるよりもドイツ国民であることに自足し、自分の生を職業的政治家に委ねてしまったのが、ヴァイマル憲法のもとでのヴァイマル共和国の大勢でした。ナチス時代の国家社会は、その帰結でしかなかったのです。日本国憲法の第一二条は、それが遥かな国の遠い昔の現実ではないことを、私たちに想い起こさせようとしているように、私には思われます。」
「何となくやってくれそう」という感じだけで「自分の生を職業的政治家に委ねてしまった」結果、ヴァイマル憲法下であってもナチズムが成立したように、民主的な日本国憲法のもとでもファシズム国家の出現は十分ありえる(始まりつつある)と、著者は日本の「いま」を危惧している。それが、この本を書かせた根本にあるものだろう。
だからこそ、日本国憲法第12条をくり返し、想起すべきなのだと…。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない
著者が、池田浩士(いけだ・ひろし)さん(ドイツ文学者、ファシズム研究者)であり、サブタイトルに「戦後民主主義からファシズムへ」とあって、つまり現在の日本のことを念頭に論じているのだなと思い、迷わず購入した。
読みはじめると、ドイツでの最新の研究成果などをふまえた論考も多く、学ぶところが多かった。
以下は、その読書メモです。
1「ファシズム」とは
「ファシズム」(fascism)という語は、イタリア語「ファッショ」「ファッシ」(fasci)=「束」や「結束」を意味する語に由来し、「魅惑、魅了」(fascinare ファッシナーレ。英語ではfascinate?)とも関連する。ファシズムは、どこか気持ちいいのである。
「結束」には、団結する主体の意思による「下からのファシズム」と、他者の意思と力によって束ねられる「上からのファシズム」がある。
これはファシズムの一般論だが、それに加え、著者は重要な視点を提示する。
「『束』を作るということは異物を排除することだ、という視点です。…ムッソリーニの偉大さをヒトラーが讃えるとき、彼は反対派を断固として排除するというファシズムのこの基本的な特性を体現するファシストとして、ムッソリーニを讃えていたのです。」
「ファシズムが私たちを拘束し縛るとき…抹殺されるのは、私たちの身体的自由だけでなく思考力と批判精神と目覚めた感覚なのです。」
2 ヒットラー政権の誕生
ヴァイマル憲法(1919年)下で国会議員選挙は、有権者の意思をできるだけ的確に反映することを重視した比例制で、政党の番号に投票する。制度の詳細はすこし煩瑣になるので省略するが、日本の小選挙区制のように大量の「死に票」がでることはない。
そのような選挙制度のもとで、どのようにして国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は多数派となったのか?
1929年10月の「暗黒の木曜日」、世界恐慌はアメリカからの借款が打ち切られるなど、ドイツ経済に深刻な打撃をあたえ、失業者が増大する。
敗戦国ドイツに押し付けられた「ヴェルサイユ体制」とそれを甘受してきたヴァイマル共和政治を批判してきたナチ党の主張が、この社会混乱によって、国民のあいだに伝わりやすい状況が生まれた。そして、1932年の国会議員選挙で、ナチ党は国政第一党となる。
しかし、ナチ党が失業問題を現実的に解決したのではない。それを利用しただけだった。
著者は、この選挙結果に関するドイツでの研究を紹介する。
1 これまで選挙に行かなかった無党派層がナチ党に投票した
2 ドイツ国粋民族党など、右翼政党の票がナチ党に流れた
3 失業者の多い地域ではナチ党は得票を伸ばしておらず、反対に失業率の低い地域で得票を伸ばした
(失業率の高い地域では共産党が得票を伸ばしている。)
この分析結果を、著者は、次のように読み解く。重要な視点だと思う。
「(ナチスを支持するようになった人びとの)心情は、いま現在についての絶望や怒りであるよりは、むしろ、迫りくるものについての不安や危機感です。…ナチズムは、こうした予感的あるいは予防的な危機感を、いわば未然に吸収し組織したのではないでしょうか。」
(感想)→「戦後憲法」や、それを「甘受」してきた「戦後民主主義」と(左派)リベラル政党への憎悪をバネに、「戦後レジームからの脱却」をうたう政党は、その思考回路において、ナチ党と通じるところがある。そして、現にある危機ではなく、「迫りくるものについての不安や危機感」を煽っている点でも。
なお、ナチ党の「ナツィオナールゾツィアリスムス」は通常「国家社会主義」とされるが、池田氏は「国民社会主義」と訳出する。その理由をいくつか挙げているが、ここでは「一人の人間が(すすんで)国民となる」というところにナチズムの性格を見る著者の視点を指摘しておくにとどめる。
3 「国民革命」運動としてのナチズム
著者は、ヒトラーが1933年にナチ党の構成員に向けておこなった演説で、党の運動を「国民革命」と名付けたことに注目する。
つまり、ナチ党は自らを、ヴァイマル体制・戦後民主主義にたいする「革命政党」と位置づけ、国民運動を組織したのである。
ヒトラーが、このように「国民」にこだわったことと、マルクス主義や共産党や社会民主党を不倶戴天の敵と考えたこととは、表裏一体の思考であった。
マルクス主義の運動は、「万国の労働者団結せよ!」のとおり、世界の労働者の連帯(インターナショナリズム)を志向する。ヒトラーは、こうした思想が「『国民』を分裂に導き、『民族民衆』たる同胞をないがしろにして外国に媚を売る風潮を生み育てる…このような思想は、祖国を持たないユダヤ人のものであって、ドイツ人とは無縁なのだ、ドイツ人にとって大切なのは『国民主義』でなければならない。これがヒトラーの基本的な考えでした。」
(感想)→ 第一次大戦末、ドイツ帝国の消滅の契機となったドイツ革命。その革命を先鋭的にたたかったスパルタクス・ブント(共産党)のカール・リークネヒトやローザ・ルクセンブルクはユダヤ人であった(二人とも虐殺される)。社会民主党の幹部のベルンシュタインやカウツキーほかもまたユダヤ人であった。
ナチスによるユダヤ人排斥という出来事を見る際、それを「民族」排外主義としてだけ論じるのでなく、そのなかに、反マルクス主義(反階級理論)、反インターナショナリズムというイデオロギーが憎悪のようにあったことをも見逃してはいけないことに気づかされた。
また、ニュルンベルグ裁判ではクルップ財閥が戦犯になったし、GHQは財閥解体を命じた。裁く側も同じ資本家階級だから早々と免責され復活をとげたのだが…。戦争といえば軍事・政治が表立って見えるが、それを動かしている経済権力(資本主義)の存在も忘れてはいけない。安保法制を掲げた政府が兵器産業と原発産業を強力に後押し、また後押しされているように。
4「遥かな国の遠い昔ではなく」(終章のタイトル)
もう少しメモしておきたことがあるが(ハンナ・アーレントの論じる「悪の凡庸さ」など)、次の終章の一節を引用しておわりたい(疲れてきました)。
「ヒトラーは失業をなくしてくれるだろう、ヒトラーはドイツ人の誇りを取り戻してくれるだろう、ヒトラーは差別をなくしてくれるだろう、少なくともヒトラーはいまよりはましな現実をもたらしてくれるだろうーー憲法が規定する主権者であり、自分自身の生の主体である民衆が、主体としての人間であるよりもドイツ国民であることに自足し、自分の生を職業的政治家に委ねてしまったのが、ヴァイマル憲法のもとでのヴァイマル共和国の大勢でした。ナチス時代の国家社会は、その帰結でしかなかったのです。日本国憲法の第一二条は、それが遥かな国の遠い昔の現実ではないことを、私たちに想い起こさせようとしているように、私には思われます。」
「何となくやってくれそう」という感じだけで「自分の生を職業的政治家に委ねてしまった」結果、ヴァイマル憲法下であってもナチズムが成立したように、民主的な日本国憲法のもとでもファシズム国家の出現は十分ありえる(始まりつつある)と、著者は日本の「いま」を危惧している。それが、この本を書かせた根本にあるものだろう。
だからこそ、日本国憲法第12条をくり返し、想起すべきなのだと…。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない
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by t_arirang
| 2015-08-27 19:48
| 父たちの戦争(2)
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