カルチャー
太平洋戦争の始まりは「真珠湾」ではなかった──日本人の知らない「暴力の歴史」を訪ねて|新連載 日本の「侵略」を行く 小原一真
Text and Photographs by Kazuma Obara
小原一真 1985年、岩手県生まれ。フォトジャーナリスト。ロンドン芸術大学フォトジャーナリズム / ドキュメンタリーフォトグラフィー修士課程卒業。チェルノブイリの被曝者の女性を撮影した作品『Exposure』(Editorial RM Mexico)で、世界報道写真コンテスト2016年の「人」部門1位を受賞。
Photo: Kazuma Obara
太平洋戦争の始まりは「真珠湾」ではない──その事実に衝撃を受けた筆者は、日本軍の侵略の歴史をたどる旅に出る。
最初の目的地は、真珠湾攻撃の1時間前に日本軍が対英戦争を始めたマレーシアのコタバル。数千人もの兵士たちが死闘を繰り広げた暗い海で、筆者が見たものとは──。世界から注目を浴びる日本の若手写真家・小原一真の新連載!
数千の兵士たちが波に揉まれ、喘いだ場所
深夜1時を回った頃、海岸沿いでタバコをふかしながら談笑していた若者たちの会話が途切れ、ほどなくして、窓から漏れる蛍光灯の光が消えた。
あたりは真っ暗闇となり、打ち寄せる波は見えなくなった。はるか沖合に浮かぶ漁船の明かりは、かすかに空と水平線の境を見分けるのには役立ったが、どこまでが砂浜でどこからが海水なのを見分けるためには、何か違う光源が必要に思えた。
一瞬、波の音にひきずり込まれそうな錯覚を覚え、私は構えた三脚を持ったまま2、3歩後ずさりした。脳裏には数時間前に見た夢の幻影が再び現れた。数千の兵士たちが血を流しながら、波に揉まれ、喘ぐ光景。彼らは、海岸に立つ僕のほうへ這いつくばったまま、徐々に前進してきた。
寒気がして、ドライバーのファミを意味もなく大声で呼んだ。
サバク海岸にて。2017年10月撮影
マレーシア、クランタン州の州都コタバル。2016年にはイオンモールがオープンし、日本企業ではロームが工場を構えるマレーシアの北東部に位置する人口約50万人の都市だ。州は東側を南シナ海に面し、海岸線のちょうど半ばくらいにサバク海岸と呼ばれる場所がある。
そこは、1941年11月8日、日本軍のパールハーバーでの奇襲攻撃に先駆けておこなわれたマレー作戦で、初めて日本軍が上陸を果たした場所である。太平洋戦争の第一歩はこの地から始められた。
マレー作戦時、クアラルンプールに侵攻する日本軍
Photo: Wikimedia commons
当時、日本兵と英印兵が交戦を繰り広げたこのビーチには数百体の死体が打ち上げられたという。翌日にコタバル市内を掌握した日本軍(銀輪部隊と呼ばれる自転車に乗った兵士たち)は驚異的なスピードで南進し、4ヵ月後の1942年2月15日には、英国の東南アジア戦略における最東端の拠点、シンガポールを陥落させた。
英国という大国を降伏させ、日本中がその勝利に沸き立った。
日本人が知らない「虐殺」
2017年の3月のことだ。講演のためにシンガポールを訪れた私は、話を終えた後、数人のシンガポール人から、「ある問い」を受けた。
講演では私が2014年から取り組んでいた日本の空襲被害者に関するプロジェクトを紹介した。太平洋戦争下で米軍の無差別爆撃によって障害を負ったり、孤児になった日本の子供たちが、いまに至るまで日本政府からなんの支援を受けることもなく苦しんでいる。その被害者たちの歴史を伝えるプロジェクトであった。
コタバル市内にある戦争博物館。写真中央はマレー作戦を指揮した陸軍軍人・山下奉文の蝋人形。日本とイギリスの交戦の経過、南進に使用された日本軍の自転車なども展示される
それを受けてのことだと思うが、来場者から問われたのは、「日本人の華僑粛清に関するプロジェクトはやらないのか」ということだった。
正直な話、シンガポールを訪れることが決定して、その国の歴史を調べるまで、私は日本軍の華僑粛清(1942年からおこなわれた華僑の人々に対する虐殺。対日抗戦を続ける中国の蒋介石軍をマレーシア半島の華僑が支援しているとされ、子供、女性に関わらず抗日分子として粛清をした)に関する認識を持っていなかった。
太平洋戦争の始まりは「真珠湾」ではなかった
そして、同様に大きな衝撃だったのは、太平洋戦争は正確には真珠湾攻撃から始まったわけではないという事実だ。確かに対「米」戦争は真珠湾から始まった。しかし、その約1時間前に日本軍は前述したコタバルから上陸を果たし、対「英」戦争を開始した。私は自分自身の歴史認識に呆れ、その無知さに目眩(めまい)を覚えながら、出国前から少しずつ勉強を始めた。
私は来場者からの問いに、すぐに返答した。「必ず撮影しなければいけないと考えています」と。
マレー作戦時の軍用図
Illustration: Wikimedia commons
ときを同じくして、シンガポール国立公文書館のレアコレクションという通常、一般人が立ち入ることのできない空間で、日本の侵略時期の公文書を展示していた。
その場所に特別に入れてもらうと、Beans Book(豆本)を紹介される、日本軍がシンガポールに進軍したときに子供たちに配った本をはじめとして、さまざまな日本軍の侵略に関する資料の原本が展示されていた。
日本が統治した3年8ヵ月の間に蓄積された資料は膨大な量にのぼる。短い滞在であったが、できうる限り侵略の歴史に関するモニュメントを巡った。
私自身、そして私と同じような歴史教育を受けた多くの同世代の若者から見えていないであろう、戦争の歴史をもう一度、見つめ直したいと強く思った。
その頃から考えていたのが、マレーシアの撮影をコタバルから始めることだった。当初は取材スケジュールがうまくいかず、クアラルンプールから陸路でコタバルを目指す予定であったが、やはり初めて見渡す風景はどうしてもコタバルでなければいけないと思い、関空を飛び立つ数分前にクアラルンプールからコタバルに飛ぶ便を予約した。
飛行機よりコタバル市内を撮影
コタバル上陸
午前9時、コタバル空港に降り立った。空港からタクシーで宿の住所を伝える。30分ほどでコタバル市内に着くが、ネットでの評判通り、あるはずの宿はどこにも見つからない。看板もなければ、道ゆく人に聞いても誰も知らない。小腹が空いていたので、遅めの朝食を食べようとレストランに入ると、まさにその2階が宿であった。
レストランの厨房を抜け、2階に上がると窓のない扇風機付きの部屋を案内された。一泊30リンギッド(約900円)。他の宿泊地ではドミトリーを予約していたので、この旅、唯一のシングルルームである。
全体的に薄暗い部屋のベッドの脇の壁には、材料が足りなかったのか、どこかに通ずる穴なのか、一辺が約50センチほどの三角形の穴が空いていて、その奥には暗闇が広がっている。不気味なそのスペースに嫌な感情を覚えながらも、徹夜続きで日本をたった私の頭痛はとうに限界に達し、なかなか閉まらないドアの鍵を閉め、眠りに落ちた。
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