世の中には、バブル景気以前には想像すらできなかった困難な境遇でも働き続け、生活を成り立たせている「大人」がいます。若者時代の失敗によって苦しい立場に置かれ、それでもめげることなく生き続けている「大人」もいます。
子育てや後進の育成に励んでいる「大人」だけが日本社会を成立させているわけではありません。今日の日本社会がどうにか成り立っている背景には、そのような無数の無名な「大人」の存在があることを忘れてはならないように思います。
彼らは失われた「大人」のメリットを享受していないにも関わらず、折からの人手不足でチヤホヤされる若者世代に文句を言うことすらなく、一個の「大人」として生き続けているのです。
誰でもわかりやすく、勲章のように見せびらかすこともできる「大人」の指標をこなしている40代は、それはそれで立派な「大人」です。
しかし、そうではない人生を生き、苦難や理不尽に出会いながらも歳月の重みに折れることなく生き続けている40代も、それはそれで立派な「大人」ではないでしょうか。むしろ一面において、そういった人々こそが厳めしい「大人」の道を歩んでいるとさえ言えるでしょう。
「大人」という言葉のニュアンスは人によってまちまちなので、「子どもや後進を育てていなけりゃ大人じゃない」というご意見もあるでしょう。とりわけ若者側からみて、「いまどきの中年は『大人』合格点とは言えない」、といったお叱りがあるとしたら、それは真摯に受け止めなければなりません。
なぜなら、「大人」が「若者」にあれこれモノ申すよりは、「若者」が「大人」にあれこれモノ申すほうが健全ですし、年下の人には、それを言う資格があるように思うからです。
それでも、これまでの指標どおりの「大人」も、そうでない「大人」もそれぞれに年を取り、過去の積み重ねのうえにできあがった人生を生きているという事実の重みを、これから中年を迎える人や、すでに中年を迎えている人は、もう少し積極的に捉えて構わないのではないでしょうか。
多種多様な人生を生きる同世代の姿を見ていると、過去から積み重なった長い時間のなかを生きる人々、これからの夢や希望に生きるのでなく、これまでの経験やいきさつを背負って生きる人々に、「未熟」などと言ってはいけないように私には思われます。
今、「大人」の年齢を迎えている人も、これから「大人」の年齢になっていく人も、どうか狭い範囲で「大人」を定義するのでなく、さまざまな人生に、さまざまな蓄積があることに思いを馳せてください。そして、そのような「大人」の生きざまには「若者」とは一味違った、面白みや気付きがあることを思い出してみてください。
これまでの指標どおりの「大人」が少なくなってきているのは事実ですが、それでも彼らは「若者」ではなく、「大人」というほかありません。今、「若者」盛りを迎えている人も、やがて「若者」ではなくなるでしょう。
だからこそ、「若者」を終えて「大人」が始まった後のことについて、もっと多くのことが、もっと積極的に語られても良いのではないかと、私は思っています。