書物は、先人たちからの分厚い手紙――。ペーター・スローターダイクの言葉を引用しながら語るのは、龍谷大学で理論社会学と社会哲学の教鞭を執る清家竜介氏だ。シリーズ「高校生のための教養入門」、今回は、若いころ抱いていた社会への疑問に答えを求めたら、哲学の世界に入り込み、さらには社会学へ関心を深めていったという清家氏に、理論社会学や社会哲学の魅力をお話いただいた。(聞き手・構成/増田穂)
社会が学者たちの中でどう考えられてきたのか
――先生のご専門は理論社会学と社会哲学ということですが、まず理論社会学とはどのような学問なのでしょうか。
社会学の理論を扱う学問です。つまり、一般的な社会学が現実の社会現象を研究するのに対し、理論社会学では社会学者が作り上げた理論を研究します。現実の社会が、社会学者たちの間でどのように理論的に扱われてきたのか、またどのような概念や理論が生み出され用いられてきたのか、そうしたことを研究するのが理論社会学です。
――先生はどのような社会学者の方を研究されているのですか。
主に研究してきたのは、ゲオルク・ジンメル。あとはユルゲン・ハーバーマスです。修士論文はゲオルク・ジンメルについて書いています。博士論文はジンメルの理論を基礎にして、ハーバーマスの理論も用いて社会的交換理論を展開しました。
ジンメルは1900年代前後に活躍した哲学者で、同時に社会学者です。ドイツで初めて専門的な社会学の講座を立ち上げた人でもあります。「社会哲学」という学問も、彼が自分の学問の枠組みの中で作り上げようとしました。
私も自分自身の研究も社会学と哲学の間で進めてきていて、ジンメルが構想した社会哲学という学問も引き継ついでいるつもりで研究しています。そういうわけで今は2枚看板で理論社会学と社会哲学が専門、ということでやっています。
――ジンメルの理論とはどのようなものだったのですか。
ジンメルの社会学は、形式(形相)社会学と呼ばれます。ギリシア哲学のプラトンを起源としている考え方です。例えばギリシア哲学では、質量と形相という考え方があります。かたちのない質量に、かたちとしての形相(イデア)が結びつき存在が生じるという考え方なのですが、ジンメルの理論はそれに近い考え方です。
ジンメルの思想では、社会というものは個人から離れて実体的に存在しているのではなく、人々の相互行為やコミュニケーションによる結びつきによって成り立っていると考えます。つまりコミュニケーションや相互行為による人々の結びつき(競争・交換・闘争など)という形相が先にあって、そこから宗教や共同体などのさまざま質料をともなった社会活動の具体的なフォルムが生まれてくるんです。
――ジンメルの考えはどのような点で当時画期的だったのですか。
当時は民族心理学などが盛んで、個人を超えて「民族」というものが実体的に存在しているのだと考えられていました。ヨーロッパの伝統的な社会の考え方には、有機体的社会観というものがあり、当時のドイツではその思想の傾向が強かったんです。
――有機体的社会観、ですか。
はい。社会を人間の身体から類推する考え方で、一つの生命体のように、社会や民族が存在しているという思想です。典型的なものは、カトリックをはじめとするキリスト教の考え方ですね。社会は人間の身体のようになっていて、頭は教会、その中心にキリストがいて、キリスト教の共同体を守るために王や貴族などの武力を持った戦士たち、そして身体の土台を支えるのが農民たち、という世界観がありました。
それぞれが人間の身体のような形をとった共同体の頭となり、心臓となり、四肢となり、社会が成り立っている。ヨーロッパでは、社会をそう捉えるのが一般的でした。トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』の有名な口絵などを思い浮かべてください。リヴァイアサンという巨人は、小さな人間たちの集合体として描かれています。
この伝統的な世界観から考えると、ジンメルの「社会は実体ではない。人々の結びつきが社会なのである」という考え方は、破壊的なものでした。宗教を中心としてコミュニティが成立し、国家が成り立っていたのに、人々の結びつきが変わってしまったら具体的な宗教やコミュニティ、さらには国家さえも消えてしまいかねないというのは、当時の人々にとっては衝撃的な思想でした。
また社会を一つの有機体とする考え方は、民族や国家を“聖なるもの”として扱う全体主義と親和性があります。日本でも、哲学者の和辻哲郎が戦中に出版した『倫理学』などは、個人を国家という全体を存続させるための手段とする全体主義的社会観を提示していました。いまでもジンメルの社会観は、そのような滅私奉公をモットーとする全体主義的社会観にたいする処方箋となりうる力を持っていると思います。
――ジンメルの思想は社会についての認識をより流動的なものにしましたよね。つまり、それまでの絶対的な社会観が崩された。
そうですね。ジンメルは当時相対主義者という扱いを受けました。絶対的な物事がないのだという哲学を作った人だと認識されていたのです。フリードリヒ・ニーチェという先行者はいますが、当時のドイツではかなりラディカルな方だったと思います。
――バッシングを受けたりもしたんですか?
はい。とても高名な学者だったのですが、当時のドイツの大学や学会では排除される傾向にあったユダヤ系だったので、晩年になるまで常勤の職を得ることはできなかったといわれています。
――逆にどのような人には受け入れられたのでしょうか。
ジンメルの講座には、外国人が多かったといいます。外国人にとても好評で、ジェルジュ・ルカーチ・やエルンスト・ブロッホなど、その後のドイツの哲学思想や社会学を担う人たちが受講していたそうです。
経済活動の変化で社会が変わる
――清家先生がジンメルの研究に関心を持たれたきっかけは何だったのですか。
私はもともと、大学院で環境問題をやりたいと思っていたんです。それで実際に大学院に進学した時に、社会哲学が専門の指導教授に相談したら、そのテーマでは2年で論文はかけないから、とりあえずジンメルでも読みなさい、と言われて読んでみたんです。読んでみたら環境問題なんて一言も書いてなかったんですけど……(笑)。でも、それが縁でこれまでジンメルの思想を基礎にして研究をするようになりました。ただ、環境問題に対する関心は今でも持っていて、ジンメル研究も一周回って今では環境問題と結びつけて考えられるようになりましたよ。
――ジンメルはどのように環境問題と関連させられるのですか。
ジンメルには『貨幣の哲学』という本があります。近代社会は貨幣というメディアを通じてのコミュニケーションに支えられている、という内容です。私はその書物から、なぜ貨幣を中心に近代社会が成立しているのかという問いをジンメルから引き継ぎました。貨幣を媒介にした経済システムが暴走していることが環境問題の根本に存在しているのではないかと思うんです。いいかえると、近代経済の基本的なメディアである貨幣の問題の重要性を理解した上で、環境問題を含めた諸問題を考えることができるようになったわけです。
――貨幣がメディアというのはどういうことですか。
コミュニケーションとは何かを介して行われますよね。例えば思考や意識のコミュニケーションは言葉を介して行います。ジンメルは経済活動、つまり物のやりとりもコミュニケーションの一つだと考えるわけですが、そのさいに媒介にするものとして、お金があります。近代社会ではお金というメディアを通じて、経済活動を成立させているんです。
近代以前の社会では、貨幣を媒介とせずに物財のやり取りをしていました。その典型的な例が、女性です。これはレヴィ=ストロースが『親族の基本構造』に書いています。婚姻というコミュニケーションを通じて、女性をやり取りすることで、他の物財のやり取りも活発になるのです。
男だけのコミュニティだったら、次の世代が生まれず、すぐに滅んでしまいますよね。コミュニティは、男性だけでは持続可能性がないんです。それは、コミュニティの存続にとって、女性が非常に重要な存在であることを意味します。だから、婚姻により女性を受け取った親族となるコミュニティは、女性を送り届けてくれたコミュニティから、自らの存続のために最も大切なものをもらったという恩義を受けるわけです。
つまり、女性を与えられたコミュニティは、相手に対して強烈な負い目があるから、その負い目を払うべく対抗贈与というかたちで物財のやり取りを行うんです。女性の婚姻を起点とする物財のやりとりが相互に負い目を与えて、経済を活性化する。これが人間にとっての最初の経済だというのがレヴィ=ストロースの考えです。
この感覚は我々にも残っていると思います。例えば贈り物をもらったら、何かを返さなきゃいけないと思いませんか。手紙をもらったら、手紙を返さなきゃとか、挨拶されたら、挨拶をかえさなきゃとか。そういう互酬的な感覚をうみだす最も大きな宝物ものとして、娘さんをいただく、ということだったんです。こういった経済を贈与経済と言います。
これが、貨幣をメディアとした財のやり取り変わると、当然その人と人との結びつき、つまり社会のかたちも変化します。お金をやりとりは、量的にも質的にも等価交換を可能にします。100円の価格の商品を100円玉で購入したとしても等価交換ですから、売り手と買い手の間に負い目が発生しないのです。この負い目から切り離された等価交換の拡大は、特に家族や親族の強いつながり、場合によってはしがらみからの解放をもたらしました。貨幣経済は、親族関係から人々を解放することで、自由な個人を生み出したんです。
――社会も大きく変わりそうですね。
ええ。社会は大幅に変化しました。交換によって得た物財は、いずれ劣化して壊れたり、なくなってしまいます。洋服もよほど大切に着なければ10年も20年も持ちませんし、今話をしているこのキャンパスだって、いずれ老朽化して、建て替えることになるでしょう。そういう意味で、物財は必ず劣化します。だから、物財だけの社会だと、物をため込もうという感覚があまりないんです。ため込むことのできない財だから、お祭りのときなどに派手にパアっと消費(蕩尽)してしまう。
他方のお金はあえて劣化しない素材で作ってあります。昔は塩や貝殻などが貨幣の前身として使われていましたよね。そして徐々に、耐久性があって、持ち運びに便利で、希少性の高い金や銀などの貴金属が使用されるようになりました。金属はなかなか劣化しないので、貯蓄できるんですよ。すると、お金を集めようという欲望が生まれてきます。贈与経済と貨幣経済では、ここが決定的に違うんです。貨幣の出現によって富を蓄積しようとする欲望が飛躍的に高まるのです。
しかも、そのお金は、時代を経るごとに、銀行券や紙幣など、信用貨幣になっていきます。つまり、例えば1万円札には「1万円」と書かれているけれど、その紙自体に1万円の価値はありません。1万円札を持って江戸時代にタイムスリップして、その1万円札で米俵を買おうとしても、取り合ってもらえないでしょう。だから紙幣自体には価値はないんです。いいかえると、紙幣は信用で成り立っているということです。この紙には1万円の価値があることにして取引をしようという約束と、それが遂行されるという信用で成り立っているんです。
信用でできているものは劣化しません。もちろん、ハイパーインフレーションなどは別ですよ。でも、それを除けば価値がなくなることはないんです。いくらでも蓄積することができる。だから、貨幣経済ではお金を集めるために経済システムが整っていって、お金をためた人が強いポジションに立ったり、尊敬されるようになる。銀行業や法人企業なども貨幣経済の産物です。
――近代社会がこうした仕組みで動き、その上に環境問題という課題が発露したわけですね。
そういうことになります。人間の経済が貨幣という劣化しない富と結びつくことで、無限に富を蓄積してゆく道が開けてきます。しだいに蓄財への欲望にかられた人々は、たんに貨幣というかたちをとった富を蓄財するだけでなく、より合理的に、貨幣を投資資本として扱うようになります。そして産業を興すことでさらなる富を蓄積しようとするわけです。いわゆる産業資本による拡大再生産ですね。
産業に投資を続けていけば、より多くの物財が安価に生産できるようになり、多くの人々がそれを消費することになりますし、雇用もどんどん増えていきます。また貨幣に対する信用は、異なった言語や文化を超えて通用し、グローバル化していきました。けれども産業資本の増大とそのグローバルな拡大は、自然環境に対してより大きな負担をかけてゆくことが分かりますよね。
ジンメルは、貨幣に対する人々の欲望について詳細に論じました。この貨幣への欲望が、産業資本の拡大による地球規模での自然環境破戒の根源にあると思っています。その欲望は、いまや自然環境の破壊だけではなく、グローバルな規模での格差社会をうみだし、社会環境や人々の心にも大きなダメージを与えていますね。お祭りなどですぐに消費しちゃって拡大再生産をおこなわないエコロジカルな贈与経済では、そのような問題は生じません。【次ページにつづく】
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