1970年代〜80年代の哲学・思想の世界で「ポストモダン」という考え方が流行した。人々がそこから受け取ったのは「絶対のものなんてないんだ」という相対主義の考え方だった。人の見方はそれぞれ、価値観もそれぞれ、生き方もそれぞれ。だからそこにひとつの価値で介入するのはよくないよね、ということ。
社会学のいまの研究の基盤をつくった人たちの思想的背景には、おおむねこのポストモダンの思想がある。もともと相対主義と仲のいい価値観を有していた社会学にとっては、いまでもこういう見方は根強いし、「主流の見方に対して別の視点からものを言う」ことが、それだけで意義を持つという立場で社会学を考える人も多い。
ところで僕は社会学と並行して政治哲学の研究もしているのだけど、そちらの世界では90年代以後、ポストモダンの思想は扱われなくなりつつある。代わって登場するのは「価値観が人それぞれの社会を否定せずに、その人たちを結びつける民主主義は可能か」というものだ。格差の広がり、若年失業の拡大が目立つようになる一方で、移民排斥などの問題が起きた欧州においては「人それぞれ」を尊重するために、異教徒や階層の異なる人はお互い接触しないほうがいいのだ、という主張がなされるようになっている。これはいまのポピュリズム政党がよく使うレトリックだ。
つまりポストモダンの相対主義は、現在では移民排斥、下層階級の見殺しのための根拠になっている。これはまずいというわけで、政治哲学の主流は「いかにして政治社会を可能にするか」という議論になっている。その点で日本の社会学は、世界の潮流から20年遅れている。
じゃあどこでどういう議論がなされているのかというと、百花繚乱で決まった論点というものはあまりない。僕の知るところでは、だいたい以下の3パターンというところだろうか。
1)民主主義のような人の理性に期待する仕組みを諦めて、技術による管理を徹底する。
要するに価値観が違うのだから、話し合ったところで理解し合えることはない。だとすると、心理学や脳科学、行動科学、ビッグデータなどの各種技術を用いて、あらかじめテロのリスクが高そうな人を監視するとか、未成年者がタバコを買えないようにするとかで対応すべきだ。キャス・サンスティーンなんかはもともと「憲法共和主義」なんて言ってたのに最近ではすっかりこっちの立場のようだ。
2)価値観には一切干渉しないだけでなく、干渉させないことも含めて徹底する。
要するに個々人の価値観や個性を尊重しようとするから衝突が起きたり、「どこまでが認められるべきか」という話になる。だからそういう個性に関わるところは個人が好きにできる私的領域でやればよくて、公的領域では個々の違いは基本的に認めないというもの。フランスにおける、イスラム教のブルカやハラールフードを公立の学校では絶対に認めないというやつだ。
3)それでもどうにかして、人と人とが分かり合えるよう努力を続ける。
少数派であり、あまり成功の見通しのない立場であり、僕が採るのもこちら。その中には、社会全体で政治共同体を維持するためのコミュニケーションを考えるハーバーマスのような人から、僕のように、クラスや職場、地域など小さなコミュニティにおいてそうした場を可能にする取り組みについて考えるという人もいる。人文・思想・哲学の人にとっては、技術に抵抗する最後の砦みたいになっているのがこの立場。
それぞれに問題点も利点もあるわけで、どれが正解というわけではない。ただ僕自身は一貫して、1)や2)の立場がもつ楽観主義、たとえば技術による治安維持が実はコスト高(なので結局全体としての厚生は悪化する)であるとか、私的領域であれば誰しもが何らかの承認を得られるはずだという想定だとかに懐疑的なので、もうしばらくは3)寄りでいくつもりだけれど、技術的、官僚的管理にもそこそこ共感はあるので、そのあたりは曖昧。
さらに個人的な嗜好としては「人と人とは分かり合える」とか「みんながいきいきとできる場を」とか言い出す人間が心底嫌いなので、どこかのタイミングで3)に飽きてしまう可能性もないわけではない。ただ現状ではそれより害の大きいポストモダン社会学から距離を置いておきたいというのが強いので、実践も含めて3)の道を模索したいところ。