最新の演劇シーンに密着――第62回岸田國士戯曲賞予想対談

去る1月、第62回岸田國士戯曲賞(白水社主催)の候補作8作品が発表されました。一昨年、昨年に引き続き、演劇研究・批評の山崎健太さんと、劇評家の落雅季子さんによる対談をお届けします。

 

若手劇作家の奨励と育成を目的とし、新人の登竜門とされることから「演劇界の芥川賞」とも呼ばれる岸田戯曲賞。今年は複数回ノミネートされている作家も多く、たしかな力量を持つ8人が選ばれています。選考会および受賞作の発表は2月16日です。(構成/長瀬千雅)

 

 

演劇メディアを創刊

 

山﨑 昨年、『紙背』という演劇批評誌を個人で創刊しました。今回、岸田賞の最終候補作品の中にも『紙背』に掲載された作品が入っていて、西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』が創刊号に、山本卓卓『その夜と友達』が三号に掲載されています。

 

 私も『ヨブ呼んでるよ』の批評を寄稿させていただきました。

 

山﨑 『紙背』は戯曲と批評を併催する雑誌で、現在、三号まで刊行されています。実は、刊行を思い立ったきっかけの一つがこの対談なんです。おととし、昨年とこの対談をして、複数の人から「戯曲を読んでいろいろ話す機会がもっとあってもいいよね」という反応をもらって。 

 

 

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山﨑健太さん

 

 

 はい、私もそのような声を聞きました。

 

山﨑 でも、そもそも戯曲を読むことのできる機会自体がそれほどない。

 

 賞を主催する白水社が、最終候補作品を期間限定でウェブ上で公開する取り組みをされていますが。

 

山﨑 読めるのはごく短い期間だし、そもそも候補になっていない戯曲はそこでは読めない。でも、演劇を見る人たちは最終候補作品のラインナップを見て「なんであの作品が入ってないんだ」「今年は絶対この作品だと思ったのに」とかいろいろ言うわけじゃないですか。俺だって思う。それで、批評家として自分が面白いと思っている作家の戯曲を集めた雑誌を作ることにしたんです。

 

 戯曲が掲載される媒体がないわけではないけれど、ごく限られていますからね。

 

 

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落雅季子さん

 

 

山﨑 劇団が自前で戯曲を販売していることはけっこうあるけど、そうすると基本的には公演会場に足を運んだ人しか戯曲を手に入れることができないし。戯曲というのは上演を見ていない人も読める状態にあってこそ意味のあるものだと思うんです。

 

 私も、昨年、『ガーデン・パーティ』という演劇人による文芸メールマガジンを創刊しました。それは、劇作家や演出家の言葉は戯曲、もしくは当日パンフレットでしか触れることができない場合がほとんどだから。演劇人に、作品以外のことを語ってもらう場をつくりたかった。

 

形は違えど、多様性が保たれていないとすぐれた作品は生まれないと思うので、時期を同じくしてお互いにプロジェクトを始めたというのは、似たような思いを持っていたのかなと思います。

 

山﨑 作家のチョイスは重なる部分もけっこうあって、その意味では、同じ対象に対して全く違う方向からアプローチしているということもできるかもしれません。

 

 

選考委員とノミネート作品

 

選考委員:岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、平田オリザ、宮沢章夫(50音順)

 

第62回岸田國士戯曲賞最終候補作品一覧

http://www.hakusuisha.co.jp/news/n23242.html

 

糸井幸之介(いとい・ゆきのすけ)『瞬間光年』(上演台本)

神里雄大(かみさと・ゆうだい)『バルパライソの長い坂をくだる話』(上演台本)

サリngROCK(さりんぐろっく)『少年はニワトリと夢を見る』(上演台本)

西尾佳織(にしお・かおり)『ヨブ呼んでるよ』(『紙背』創刊号[二〇一七年五月]初出)

福原充則(ふくはら・みつのり)『あたらしいエクスプロージョン』(上演台本)

松村翔子(まつむら・しょうこ)『こしらえる』(上演台本)

山田由梨(やまだ・ゆり)『フィクション・シティー』(上演台本)

山本卓卓(やまもと・すぐる)『その夜と友達』(上演台本)

 

白水社による候補作品期間限定公開ページ https://yondemill.jp/labels/167
『バルパライソの長い坂道をくだる話』期間限定公開ページ https://note.mu/kamisatoy/n/na47dc93a9faf

 

 

受賞作を予想してみる

 

山﨑 昨年は二人とも上田誠さんの『来てけつかるべき新世界』を予想して、的中しました。

 

 選評を読んでも、異論はなかったようでしたね。

 

山﨑 今年もまずは予想からいってみましょう。せーの。

 

山﨑 山本卓卓さん/神里雄大さん。

 

 ……割れましたね。

 

山﨑 対抗は? 決まってる?

 

 決まってます。

 

山﨑 じゃあ対抗も発表しましょう。せーの。

 

山﨑 神里雄大さん/山本卓卓さん。

 

 あれ。

 

山﨑 そうなると思ってたけど、でも本命と対抗ではやはり違いますよね。神里さんを本命に予想したのは、戯曲そのものへの評価? それとも賞の予想として?

 

 戯曲としての評価です。でも予想としても当たってほしい。

 

山﨑 俺も神里さんの作品も悪くはないとは思ったけど、今回は山本さんが圧倒的だと思いました。ここが本命と対抗で分かれた理由かな。

 

 じゃあ、この2作品はあとでゆっくり語るとして、他の6作品から。

 

 

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糸井幸之介『瞬間光年』

 

あらすじ:

二人の孤独な宇宙飛行士がいる。彼らは宇宙空間を漂いながら、遥か遠くを目指し旅を続けている。そこへ差し挟まれる地球の人々の情景。ある男の昼下がりの妄想から、泳ぎ続けるスイマーX、親友を待つイギリスのナイスガイ、赤ちゃん型のロボットたち……彼らのひたむきな思いが溢れ出した瞬間、彼らはロケットとなり宇宙へ放たれる。さまざまな背景を持つ人間、生き物、アンドロイドたちはやがて星になり、宇宙で永遠の輝きを得る。だんだん地球から遠ざかる宇宙船の中の飛行士たちの会話が切なさを誘う、詩情に満ちた一作。(落)

 

■上演記録

FUKAIPRODUCE羽衣『瞬間光年』

作・演出・音楽:糸井幸之介

出演:深井順子、日髙啓介、キムユス、岡本陽介、浅川千絵(以上、FUKAIPRODUCE羽衣)、幸田尚子、石川朝日、飯田一期

2017年8月 東京・こまばアゴラ劇場

 

 

山﨑 羽衣/糸井版『わが星』(ままごと/柴幸男)ですよね。冒頭の「作品中、ずっと、秒針のようにリズムが続いている」というト書きもそうだし、上演もラップのようだったと聞きます。

 

 私は上演を観ていますが、同じように感じました。2009年に初演されてその年の岸田戯曲賞を受賞した『わが星』(http://www.mamagoto.org/drama.html)は、まさに私が、戯曲と上演の関係を考えるようになったきっかけの作品のひとつです。俳優が輪になってダンスのように動きながら、セリフをラップのリズムにのせる。作・演出の柴幸男さんは独自の演劇のかたちを作ったと思いますが、戯曲としては、上演のためのインストラクション(指示)であって他の上演を想定されていないのではないか、つまり戯曲とは言えないのではないか、という議論がありました。

 

『瞬間光年』も『わが星』と同じく、非常に音楽的な作品でした。糸井さんならではの音楽的節回しがあった。

 

山﨑 そこを戯曲として評価する?

 

 私がこの作品を良いと考えたのは、主婦スイマーXがプールで泳いでいたかと思うと、突然ロケットが発射されて宇宙に場面が転換したり、思い切り飛躍しているところ。演劇的想像力をかき立てられます。また、これまでの羽衣の作品だと明確に「歌」を歌う場面が多くありました。糸井さん作詞作曲による「生と死」や「愛」といったテーマの、人間くさくも愛おしい歌が、俳優によって歌われる。今回はそのような明確な「テーマソング」がなかった分、純粋に戯曲としての単独的な普遍性を感じます。

 

山﨑 愛と孤独を常に両輪で描く糸井さんですが、今回は孤独に比重が置かれています。人間は誰しも自らの人生の主役=スターだけど、広い宇宙から見れば無数の星の一つでしかない。その孤独を書いているところがすごくいいと思った。でも、その孤独を描くことを選んだがために、個々のエピソードがバラバラのままになってしまっている。一つ一つのエピソードが、無数の「孤独」を描くためのパーツでしかないように見えなくもない。戯曲の魅力である孤独の描き方が、そのまま瑕疵にもなってしまっていると感じました。

 

あと、終盤の徳川家康は……? 上演では突然出てきても気にならないのかもしれないけど。

 

 確かに上演では深井順子さんがこの役を演じていて、とてもチャーミングでパワフルでしたね。戯曲の中で家康は、江戸に幕府を開いた先の未来を想像しますよね。江戸幕府が終わって150年、人口爆発、大量破壊兵器、ウイルスによるパンデミック。地球で暮らせなくなった人類は宇宙へ!

 

山﨑 俯瞰する視点が入っているのはいいんですが、他が「主婦スイマー」とか「淀んだ空気」みたいな役名なのに徳川家康だけ固有名詞である必然性はどれくらいあるのかなあ。

 

 過去から未来へ貫通する視点を一気に魅せようとする時、市井のひとりの観点で語るよりも、歴史上の有名人物の時代から、彼の想像もしえない未来を一本の線で語るという方法は分かりやすかったのではないでしょうか。それを語るのが誰もがその功績を知る徳川家康であったというのは、説得力があったと言って差し支えないと思います。

 

 

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福原充則『あたらしいエクスプロージョン』

 

あらすじ:

時は第二次世界大戦直後。戦争で多くの同僚を失った映画監督・杵山と助監督・今岡は、焼け野原となった日本を立て直すため、また新しい時代の映画を撮るためにあの手この手で奮闘する。彼らが情熱を傾け、撮影しようとしているもの、それは「日本で最初のキスシーン」。娼婦の富美子を女優にスカウトし、貴重なカメラを所有する石王を説得し、撮影は順調に滑り出したかに見えたが、GHQの民間情報教育局、デビット・コンデが難癖をつけ、なかなか撮影の許可が降りない。そこへ月島右蔵という俳優らも日本で最初のキスシーンを撮影しようとしていることがわかり……?(落)

 

■上演記録

ベッド&メイキングス『あたらしいエクスプロージョン』

作・演出:福原充則

出演:八嶋智人、川島海荷、町田マリー、大鶴佐助、富岡晃一郎、山本亨

2017年8月 東京・浅草九劇

 

 

山﨑 残念ながら戯曲としてはあまり面白いとは思えませんでした。上演として観るのは楽しいのかもしれないとは思いましたが。

 

 私も、やはり面白いとは思えませんでした……。

 

山﨑 たとえば、この作品には「役者1」から「役者6」までが登場します。「役者1」が「杵山康茂」と「金剛地」を演じるなど、1人につき複数の役が指定されていますが、全てとは言いませんがほとんどの場面で役を兼ねることの意味があるようには思えません。早変わりだったり、場面とともに俳優が演じる人物も転換することの面白さは上演における趣向でしかない。

 

 この作品の題材は「映画」です。映画は、この作品で用いられている1人が複数の役を演じたり、瞬時に人物が入れ替わるような手法は使われにくいメディアですよね。それを逆手にとって、映画に材をとりつつ、演劇でしかできないことを詰め込んでいるとは思う。

 

山﨑 でも、映画についての演劇でしょ? そこで観客の目の前にあるのが演劇であることを強調することの意味は?

 

 登場人物の杵山ら、戦後の映画人たちがGHQの検閲や物不足などさまざまな困難を乗り越えて映画を撮るというストーリーですが、上演では、「劇中で撮られた映画」は実際には演じられず、観客に想像させるような上映シーンとしてつくられていたそうです。つまり映像に頼ることなく、観客の想像にゆだねている。映画がフィルムとして残る一方、演劇は残らない。だけど観客に想像させることができる……という対比をやりたかったのではないかと、読もうと思えば読める。

 

エピソードとしては、映画に前向きになっていく富美子と自分の身の程に引っ込んでしまうカスミという対照的な女性の友情など、よかったと思うところはいくつかありました。

 

山﨑 断片的にはたしかにいい場面はあったけど、それもそれぞれがいい場面だということにしかなっていない。映画を作るグループが2組出てくるのも、よくわからないです。作り始めること自体の困難と、作れたとしても検閲が入るという困難。両方を「効率的に」書くための方法でしかないように感じました。

 

タイトルはどういう意味でしょう? 「古い」エクスプロージョンは戦争だろうけど、「あたらしいエクスプロージョン」って? 映画は、芸術は爆発だということなのかな。

 

 「戦後の占領下で先が見えない時代に映画を作ろうとした人々の心の爆発」という解釈は?

 

山﨑 でも映画賛歌、芸術賛歌になっているわけでもない。どちらかと言うと、映画をダシに、人間のしたたかさを描いた作品のように思います。1人の俳優が複数役を演じることの面白みが上演で人間のしたたかさを描くことに寄与した可能性はある。でもやはり戯曲としては評価できません。

 

 福原さんは演出家でもあり、エンターテインメント性の高い演出をすることで知られています。そのライブ性も醍醐味のひとつではあるけれど、戯曲としてどう評価されるかは審査員の方々の判断も待ってみたいですね。

 

 

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松村翔子『こしらえる』

 

あらすじ:

舞台はフレンチレストラン。新人のアルバイトにシェフに店長、ベテランウェイトレスなど様々な人物が集う。どうやら、夏目というパティシエが数日前から姿を見せていないらしい。そんな中、シェフの磯部とウェイトレスの内山の不倫関係が、磯部の妻・幸枝にばれてしまう。幸枝は飼い猫がいなくなってしまったこともあり、心を病みかかっている。内山に幸枝が持ちかけたある「提案」とは? 詩的な台詞と、リアルな人間模様のコラージュに加え、ひとり舞台上に佇む「N」という存在が、物語にひそむ不穏さを煽る。(落)

 

■上演記録

無隣館若手自主企画vol.21 松村企画『こしらえる』

作・演出:松村翔子

出演:海津忠、島田桃依(以上、青年団)、岩井由紀子、南波圭、横田僚平、吉田庸(以上、無隣館)、井神沙恵、黒川武彦(以上、モメラス)、山縣太一

2017年2月 横浜・STスポット

 

 

山﨑 この作品の面白さはコラージュのような構成にあると思います。サスペンスで始まったものが急にコメディタッチになり、一方では熱血青春ものが始まっていて、不倫相手の女が妻のペットになるというシュールな展開も待っている。次々とジャンルが切り替わり、一人の観客としては次はどこに向かうのかわからないことに大きな快楽を感じました。

 

ジャンルだけでなく演技体にも同じことが言えます。上演では、現代口語演劇風のナチュラルな発話が急に劇画調になったりという形でもコラージュが形成されていました。

 

落 私は、山﨑くんの言う「どこに向かうのかわからない」感じに、戯曲を読んだだけでは説得されなかった。何かの問題に収斂してほしいと思ってしまったかな。岸田戯曲賞を受賞した作品は出版されて後世に残るわけなので、何らかのテーマ的な切実さのある作品が選ばれてほしいと思いますが、この作品にそういった切実さは感じられなかった。

 

山﨑 むしろその集中しないところがこの作品のいいところだと俺は思いました。我々の日常は、岸田賞の話をしている今この瞬間にも夕飯の買い物のことが気になって……というように、複数のことが同時に進行していますよね。その散漫さがきちんと成立する形で、というのは、観客を置いてきぼりにしない形で舞台に乗せられていた。その散漫さ、あるいは、ままならなさを観客の側の快楽へと転換してしまったところがこの作品の発明。読み物としてもそれに成功していると思います。上演と比べるとどうしても戯曲のほうが控えめに見えてしまうということはあるかもしれないけど。

 

もうひとつ、細かいところですが、上演ではN=男を演じる山縣さんがずっと舞台上にいて、多くの観客は彼をレストランの従業員の会話に登場する夏目さんだと思って見るわけです。ところが、途中からそうではなく、彼はシェフの妻の幸枝に飼われている猫のノラなのではないかという感じになってくる。次々とジャンルが切り替わるのと同じで、観客の側の認識の変化が面白いところだと思うのですが、戯曲で読むと冒頭に「N・・・・男」とはっきり書かれていて、これを読んでしまうとそういう認識の変化のようなものが起きづらい。これはもったいないと思いました。

 

 私、最後で『人形の家』だと気づきました。ウェイトレスの内山が、不倫相手の磯部の妻である幸枝に向かって、「幸枝さんにとって私はただのお人形だったのよ」「だから、ノラは家を出ます」と言うところ。

 

山﨑 ハイコンテクストな演劇ギャグに爆笑してしまいました。

 

 そんなにハイコンテクストかな。フェミニストとしては常識なので……(苦笑)。イプセンのノラは夫を捨てて家を出ていくとき、鍵を置いていくんです。それが女性の自立や主婦という役割からの解放を意味したわけですが、この戯曲で内山が置いていったのは首輪なんですね……。鍵以上に「拘束」の意味を表す小道具だとは思いますがそこからの問題提起を感じられませんでした。問題を提起しないことが目的だとも読めますが。

 

山﨑 畳みかけるように「ジェリクルキャッツだ!」(※編集注:人間に飼い馴らされることを拒否してしたたかに生きる猫、というミュージカル「CATS」を引用したネタ)というのも笑えます。ノラ=野良で日本語でしか成立しないギャグだけど、意味を考えてもよくできてる。

 

落 でも、この作品で『人形の家』がモチーフとして使われた理由は私にはわからなかったな。いなくなった飼い猫のノラの代わりに、内山が幸枝に飼われるとか、単なる夫婦間の問題に収めずに、19世紀以上に多様化している人間同士の関係が現代的に描かれているとは思いましたが、内山も幸枝も、女性の自立を獲得するわけではない。しかし、放り出された男たち–磯部、夏目などの寂しさや虚しさにかえって目が行くという点では新しいかもしれません。

 

山﨑 それはこの作品では一部でしかないんだよね。イプセンのノラはあくまで素材のひとつだと考えるべきだと思います。

 

落 じゃあ、いったい「N」とはなんだったのか。「N」のセリフに出てくるメフィストとはなんだったのか。上演を見た山﨑くんに聞きたい。

 

山﨑 そのわからなさが面白い、というか重要で、強いて言えば、自分が何であるということは決めつけなくていいし、ましてや他人が何であるかなんて一言で言うことは不可能だということなのではないかと思います。未知の面が次から次へと見えてくることはこんなにも面白いことなのだということが戯曲を通して体感される。

 

 Nは夏目であり、ノラであり、ノワール(黒)であり、”Nobody”であると私は解釈しました。そうした暗喩の鋭さは、今後の松村さんの作品にも期待したい部分です。

 

 

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山田由梨『フィクション・シティー』

 

あらすじ:

落ちぶれかけた小説家・園田は妻の藤子と二人で暮らしている。園田のアシスタント募集の広告を見てやってきた横山という女性は、何とか再び園田に小説を書かせようとする。大学生のカップル、物流会社で鬱屈している会社員たち、そして舞台上で何者にもなれないとある人物を配置することで、多様な人間の暮らしと、彼らにとっての「フィクション」の意味を問うている。(落)

 

■上演記録

贅沢貧乏『フィクション・シティー』

作・演出:山田由梨

出演:田島ゆみか、大竹このみ、神崎れな、猪俣三四郎、和田瑠子、野口卓磨、森準人、猪瀬青史、山田由梨

2017年8月 東京・東京芸術劇場 シアターイースト

 

 

山﨑 この作品は「俳優」と「社会の中で役割を引き受ける人間」とを重ね合わせています。登場人物のほとんどが自分が引き受けている「役」に対する苦しさを覚えている。その中で「役付かず」という「役」が出てきて、彼は社会から排除された存在のように描かれる。役に縛られることの苦しさと役割を与えてもらえないことの苦しさの双方を描いた作品だということが言えると思います。その点では松村翔子『こしらえる』と共通する部分もある。ただ、全体としてはそれに成功していないように感じました。

 

 冒頭に「観客に事前に配布する資料」と書かれているのは、これまで一軒家やアパートなど実際の建物を舞台にして体験型の演劇を作ってきた山田さんらしいなと思ったのですが、これ、配る必然性がないですよね。配布するまでもなく、映像で投影すれば済みます。観客を劇世界に引きずり込みたかったのだとしても、成功していない。

 

山﨑 この作品のテーマからすると、事前に観客を劇世界に引きずり込んでしまってはダメでしょう。作品の冒頭で「俳優」が「役」=登場人物になっていく場面があるのに、はじまる前から観客に役を割り振ってしまうのはうまくない。

 

もう一つ、この作品では平凡な人生の苦しさ、というようなこともテーマになっています。既存のフィクションと似たような人生を歩くしかないということ、それでもフィクションを書くこと、そうして書いたフィクションもそもそも借り物の言葉でしかあり得ないこと。あらゆるものがリサイクルでしかないことの苦しさはたしかに描かれていますが、そのような物語もまた、それ自体凡庸なものに過ぎないという点に最大の問題があるように思います。

 

落 他人がかつて描いた人生を生きるしかないというのは、泉が小説家の園田のところに、「私たちのことを小説に書いた!」と怒鳴り込んでくるエピソードがありましたね。

 

山﨑 あの場面の扱いによってはまた別の展開もあっただろうし、展開させるとしたらあそこからしかないとも思うんだけど、展開してしまったら苦しみのもとである凡庸さは失われてしまうかもしれないというアンビバレントがあります。

 

 確かに、あの場面にしか戯曲の跳躍の可能性はなかった。でも、するっと流してしまったことで失敗してしまいましたね。フィクションは誰かが生み出すものだけど、人は時にはフィクションを超えるような超劇的な体験をするかもしれない。じゃあその現実に追い越されたフィクションとはなんなのか。人生はノンフィクションなのか、ノンフィクションは本当に事実だけでできていてフィクション性はないのか。そうした深みのある問題意識がこの戯曲には見て取れませんでした。とにかく、全編が素朴すぎます。

 

山﨑 終わり方もよくない。最後に「役付かず」が、「ぼくはこの物語を離脱します。それでもここは壊れも、変わりもしなくて、そのまま続いていくかもしれません。(中略)みなさん、水をさしてしまっていたら、すいません。では失礼します。」と言って去りますが、この終わり方は成立していない。だって「物語を離脱します」と言うからには物語に入っていなければならないけど、物語に入っていないから「役付かず」なわけでしょう。役が付いている役者がこれを言って舞台を去るならわかりますが、そもそも作品の枠組みから外れたところに追いやられてしまった存在であるはずの「役付かず」に「枠組みから逃げ出します」みたいなことを言われても。排除されることと逃げ出すこととの間には明確な線を引くべきだと思います。

 

 もしかしたら「みなさん」は観客であり、何者でもない観客のみなさん、現実にお帰りくださいということかもしれないですね。

 

山﨑 観客に対しても、あなたたちも役割に縛られていないで早くそこから逃げ出したほうがいいですよと言っているのだとは思うのですが、一方で行ける場所なんてどこにもないということもこの作品は言っている。フィクションと絡めて複数の問題系を組み込んだ結果、それらが互いにバッティングしてしまっていると感じました。

 

落 素朴な作風が陳腐なエピソードの羅列に終始してしまった印象で、残念です。山田さんの今後に期待したいですが、より真剣に、演劇の「フィクションであること」「生身の人間が目の前で演じるリアリティがあること」を区別して考えていかないと、厳しいのではないかと感じてしまいます。ただ観客を巻き込んで、体験を共有するというだけでは太刀打ちできない壁があると思います。【次ページにつづく】

 

 

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