ああ、バレンタインデー
バレンタインデーである。いつもこの日思うのは、昔見たチャーリー・ブラウンのアニメの挿話だ。米国では日本のように女性から男性にチョコを贈るという風習ではないけど、それでも愛をちょっとしたプレゼントで伝えるということはあって、チャーリー・ブラウンは誰かに貰えるかなと期待している、がもらえない。記憶がデフォルメされているかもしれないが、チャーリーはそうしてがっかりしていると、一人の女の子から、余ったプレゼントだからということで、それをお情けで貰う。チャーリーはそれでも嬉しい。すると彼の友人が寄ってきて、余り物のお情けなんか受け取るなよと言う。チャーリーはどうしたか。彼は、それでも嬉しいんだと受け取る。なんか惨めなやつだなあという笑いを誘うのだけど、私はちょっとある衝撃も受けて、その後半世紀近くこの挿話を胸に抱えている。それは、チャーリーは、どんな形であれ、きちんと愛を受け取ったのだということだった。愛を受け取ることに、微妙な屈辱のような情感が交じることがあるとしても、愛を受け止めるということを優先すべきなのだろう、と。もっとも自分の青春時代、それから先でもだけど、そううまくはいかず、逆に、チャーリー・ブラウンって偉いなとますます思うようになった。聖チャールズである。
そういう、どんな形でも愛ではあるという点なら、義理チョコもその一種だろう。ゴディバは先日、義理チョコはやめようという広告を出していたが、先日もひいたが『シルビーの日本発見』(参照)にもその話がある。「不思議というより、気に入らない習慣だ。どうして親しくない人にあげなければならないのか。どうも分からない。お返しをしなければならない、というホワイトデーも日本独自のものだ」
そうだろうなとは思うが、たしか、ホワイトデーは韓国にもあったはずで、そうだとすると、日本独自というより、日本と朝鮮のようによく似た文化を持つ国では自然なことかもしれない。
ということろで、どうでもいいようなことだが少し考えた。義理チョコは、感謝の意味もあるとして、感謝がそして愛の一つの形だとしても、聖ヴァレンタインという原点で考えるなら、愛というより恋であり、恋という愛の点から見れば、義理チョコは偽りの恋の象徴なのだろう。あるいは偽りの愛。まあ、そんなにふうに考えることはないかとも思う。
ただ、偽りの愛の象徴という思いは、ふと、なにかぞっとするものを感じさせる。私たちの身の回りは偽りの愛の象徴で満ち溢れているのではないかという思いが少しする。「少し」というのはよくわからないからだ。愛にはいろんな形があり、曖昧でありながら、成長していくものもあるだろう。愛は義とは違うのだから、義のようなあり方で見るべきでもないだろう。愛にそもそも偽りはないのかもしれない。
考えてみてもよくわからない。話がそれるが、日本独自のヴァレンタインデーの風景といえば、この日の朝の電車で紙バッグやサイドバックを抱えている女性高校生の姿だろう。なにかまぶしい。友チョコというのだろうと思うが、私が高校生だったころはなかったように思う。
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