知らない間に子どもを産めない身体にされていたとしたら、あなたはどうしますか。
強制不妊手術の適否を判断する優生保護審査会は、各都道府県に設置されていました。ワセダクロニクルは各地の優生保護審査会の議事録を入手し、分析をしました。そこからは、被害者に強制不妊手術を決定していく過程が生々しく浮かび上がります。審議会のメンバーは、自治体幹部、地元の医師会幹部、裁判官、検察官らでした。国は、委員に、副知事、衛生主管部(局)長、地方裁判所判事、地方検察庁検事または都道府県国家地方警察隊長、医科大学教授(精神科または内科)または病院医長(精神科または内科)、都道府県医師会長、開業医師、民間有識者、民生委員が就くよう求めていました(*1)。委員の中には人権問題を指摘し、ナチスを引き合いに出し危惧した委員もいました。ですが、採決になると「異議なし」。危険性は省みられることはありませんでした。
当事者たちはどのような議論をして強制不妊手術の実施を認めていったのでしょうか。今回は、「決め方」の実態を明らかにしていきます。
関連記事:【強制不妊】厚生省の要請で自治体が件数競い合い、最多の北海道は『千人突破記念誌』発行(2018.02.13)
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強制不妊手術 優生保護法第1条は「不良な子孫の出生を防止する」とし、「精神分裂病」「精神薄弱」「そううつ病」「てんかん」「血友病」など、遺伝性とされた疾患や障害を持つ人たちが対象になった。手術に本人の同意は必要なく、都道府県が設置する優生保護審査会の決定があれば不妊手術ができた。医師は「遺伝性の疾患」を持つ人を見つけた場合は、審査会に申請する義務があった(優生保護法第4条)。また、厚生省公衆衛生局通知(1949年10月24日付)では「やむを得ない限度において身体の拘束、麻酔薬の施用又は欺罔(ぎもう)等の手段を用いることも許される」とされた。つまり本人が嫌がって手術ができない場合は、身体の拘束や麻酔の使用だけでなく、だまして手術してもいいとされたのである。男性の場合は精巣から精嚢(せい・のう)につながる精管を切断、女性では卵管を糸で縛り、卵子が卵管を通過しなくする。出典:中山三郎平『現代産科婦人科学大全 第9巻《不妊症 避妊》』(中山書店、1970年)、優生保護法施行規則。
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おことわり 入手した資料には差別的な表現も含まれていますが、当時の状況や実態を正確に伝えるため、原文通りに引用します。
「訴訟でも起こされないか」と心配
山口県、1969年12月10日。
日本赤十字社山口県支部会議室で開かれた審査会では14人の強制不妊手術の適否について審議された。知的障害があるとみなされた子どもへの手術を議論した際、一人の委員が人権上の問題を指摘した。入手した文書では、所属と氏名は黒塗りとなっている。
「人道上、人権上の問題であまり軽く見すぎてはいませんか。自分の意志がはっきりしてきた時訴訟でも起こされないかを心配しています」
しかし採決の結果はこの委員も含めて「異議なし」。審査会は強制不妊手術を決めた。
10年後の1979年3月12日。山口県議会棟3階参与員室で開かれた審査会。5人を対象にした2時間の審議。
1人目の審議は、知的障害の上に身体にも障害があるとみられている女性で、這うことができる程度だという。それについて一人の委員から疑義が出された。
「生むということは本人の権利であり、自由であり、自分が馬鹿だから生むことができないというのはおかしいと思うんです。それを我々が審査会で優生手術を認めるというのはおかしいんじゃないかという気がするんです」
だがこれも強制不妊の実施に「異議なし」。
同じ日。3人目の審議は知的障害があるとみなされた女性。「(障害が軽い)このくらいの者だったら自分で生みたいという意思もあるんだろうかと」(*2)「身内で引き取って育てるということも考えられる」という意見が交わされた。
その後、次のような意見が出た。
「優生保護については、戦前からの発想がずっと残っているようなところがありますね。人権の問題についても。いろいろな問題がございますが、それをどのように国は考えているのか」
「不幸な子供を作らない、母親を作らないということがいきすぎますと、ナチスのやったこととかのように、大変なことになりますね」
それでも採決時は「異議なし」。
審査会は強制不妊手術を決定した。
「バカは産んでもらったら困るということが公益か」
鳥取県、1978年11月29日。
審査対象は精神障害があるとみなされた女性。優生保護法を所管する県の担当課から、父親や中学時代の担任教師に聴取した結果が報告された。以下は要約。
●幼少の頃は普通の子どもでむしろおとなしかったが、その後、素足で外に飛び出したりわめき散らすことが多くなった。
●小学校に行くようになってからもの覚えが悪くなったようだった。
●中学校では性格的に甘ったれたところがあり、いつも先生のそばにいた。
●卒業後は3回就職したが続かない。家事については指示があれば手伝うが、自分からは積極的にしない。
●医師は日常生活の介助について、「比較的簡単な介助と生活指導を要する」と判断している。
この報告をもとに、この日の午後2時から鳥取県庁第4会議室で審議が始まった。
出席した委員は以下の8人だ。
村江潤夫(県医師会長、産婦人科医)▽作野広(県医師会副会長、産婦人科医)▽渡辺元(精神科医)▽首藤幸三(鳥取地検次席検事)▽土師房子(県連合婦人会副会長)▽太田実太郎(県社会福祉協議会長)▽中田正子(弁護士)▽佃篤彦(県衛生環境部長)
県の担当者が、手術の適否を判断するにあたっては「疾患を防止するために公益上必要かどうか」がポイントだと繰り返した。
だが「公益」とは何なのか。委員の鳥取地検の首藤次席検事が県の担当者にこう尋ねた。
「公益上というのは、バカは産んでもらったら困るということが公益になるわけですか」
県の担当者も他の委員もこの質問に対して、誰も発言しなかった。議論はこの女性が子どもを産んだ場合、「精神障害」が子どもに遺伝するかどうかに移っていく。
渡辺元(精神科医)「遺伝ということは非常に面倒なことで、人生わずか50年といいますが、おぢいさんの前になるとわからない。家系調査してもわからない。精神病というものは遺伝性が多いという原則論に基づいて、1人でもあったら、それとの関連性があったことにしないと、あまり厳密な考えをしない方がいいと思う」
太田実太郎(県社会福祉協議会長)「昔の家庭で言っておりました昔の社会では、精神病の家は、あの内は(原文まま)キツネつきの家だと言っていた。キツネつきと言ったら嫁のもらい手も、むこのきてもなかったものだ」
「精神障害」が遺伝するかどうかの話の後は、その女性の育児能力の問題に移る。
中田正子(弁護士)「自分の子供を生んでも育てられないでしょう。この人自身はそういうことですね。子供にとって非常に不幸な結果になる」
渡辺元(精神科医)「誰の子供かわからない、父親が認知もできん、複数の男であるかも知れない」
村江潤夫(県医師会長、委員長)「子供が最も不幸になることですね」
中田正子(弁護士)「そういうことです」
村江潤夫(県医師会長、委員長)「それではこの委員会としては、この申請を認めるということにしてよろしゆござんすか」
一同「異議なし」
審議では「バカは産んでもらっては困るということが公益性」ということに誰も異議を唱えなかった。遺伝するかよくわからなくても「厳密に考える必要はない」という前提に立った。「子供を産んでも育てられない」と委員の意見が一致した。
女性の強制不妊手術はこうして決まった。
審査対象2人で20分
千葉県、1958年7月1日。
審査対象は2人。性別や年齢は黒塗りでわからない。
開会は午後1時30分。1人目の調査書の報告が終わると、議論がないまますぐに不妊手術の適否を採決。「異議ないものと認めます」。手術が決まった。
2人目も議論がなく、一同が「異議なし」。あっという間に手術が決まった。
その後は手術を行う医師の略歴を読み上げ、審査会は終わった。
閉会時間は午後1時50分。わずか20分だった。
福岡県は審査会開かず手術を決定
福岡県、1982年1月28日。
22歳の女性の手術申請書が「遺伝性精神薄弱」という理由で県内の産婦人科医から出された。
その女性の健康診断書がついている。
病名「精神薄弱(痴愚)」
発病後の経過「幼小時より精神発達が遅れ、中学校を特殊学級で終了。音声言語機能障害が顕著。何事にもあきやすく長続きしない。男にもよく誘惑されては相手不明の妊娠を繰り返し中絶する。1981年に結婚して1児を出産するも育児能力がなく、その子を施設に預ける」
現在の症状「知能指数45の中等度の精神発達遅滞がみられ感情的には子供っぽく周囲からの影響をうけやすく社会人としての独立は困難」
遺伝調査書では、父、母、妹、叔母についていずれも「精神薄弱の疑い」と判断している。
これに対して福岡県衛生部予防課は、優生保護委員会を委員の日程上の都合で早急に開催できない一方で、「手術は速やかに行う必要がある」と判断。
審査会を開かず書類で各委員に審査を求めた。
当時の委員は、石田正太郎(福岡県医師会長)、櫻井図南男(福間病院顧問医)、長野作郎 (長野産婦人科院長)、高松勇雄(県立太宰府病院長)、山本義隆(県議)、清水博(福岡地検検事)、高石博良(福岡高裁判事)、酒井義昭(県衛生部長)、松延茂(県民生部長)、池田善枝(民生委員)が務めた。
書類に手術の可否が記入された。全員一致。手術は「可」とされた。
福岡県、審査会開かず年間6人を手術決定
福岡県衛生部予防課が作成した「優生保護審査会議事」によると、福岡県では1981年3月から約1年間で、優生保護審議会を開かず「持ち廻り」審査で強制不妊手術が決定された人が6人いた。ワセダクロニクルが入手した「優生保護審査会議事」は1980年度と1981年度のみ。
「持ち廻り」審査の対象になったのは、前述の22歳の女性の他に4人。39歳女性(1980年8月8日申請)、19歳女性(同年11月3日申請)、29歳女性(1981年6月10日申請)、22歳男性(1981年7月15日申請)、27歳男性(1981年7月15日申請)。
「優生保護審査会議事」によると、県衛生部予防課精神衛生係が39歳の女性を持ち廻り審査の対象にした理由は「早期に(優生保護審査会を)開催することができない」ためだった。だが、この39歳の女性に関して、医師が優生保護審査会に申請したのは1980年8月8日で、持ち廻り審査をすることになったのは翌年3月。半年以上が経っていた。
こうした持ち廻り審査は問題なかったのだろうか。
補償拒否の国、理由は「厳格な手続き経て実施」
優生保護審査会での審査方法ついては、1953年6月12日、都道府県知事宛てに厚生事務次官通知(*3)が出されている。「持ち廻り審査」は不適切とする内容だ。
「審査は、実際に各委員が審査会に出席して行うべきものであって、書類の持ち廻りによって行うことは適当でない」
「審査は、一面迅速性を必要とするが、他面適正慎重を期すべきであるから、審査の迅速性を尊重するため審査の内容が形式的にならないよう十分注意されたい」
国は、強制不妊手術を受けた被害者への補償を要請する国連の98年勧告(*4)を拒否している。強制不妊手術は「厳格な手続を経て」(*5)実施されたということなどが理由だ。
(敬称略)
* * *
第2次世界大戦の敗戦から3年後の1948年、優生保護法という法律ができました。法律は1996年に母体保護法に変わり、強制不妊手術はできなくなりました。その間に国家に強制的に不妊手術を受けさせられた人は、男女合わせて1万6500人を超えました。子どもが産めなくなると知らないまま手術を受けさせられた人もいます。優生保護法は、本人がいやがった場合はだましてもいいとまで解釈されていました。
優生保護法の目的は「不良な子孫の出生を防止する」(同法第1条)でした。敗戦後、「日本民族の再興」を目指した政治家たちの発想でした。遺伝性とされた疾患や障害を持つ人が対象でした。手術の対象は、遺伝性のない疾患や障害を持つ人、そもそも疾患も障害もあるとはいえない人にまで広がり犠牲者は増え続けました。
被害者の多くは今も生きています。しかし、政府は被害者に対して補償も謝罪もしていません。シリーズ「強制不妊」では、「公益」を理由に憲法で保障された基本的人権を蔑ろにした国家の責任を問います。
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<脚注>
*1 都道府県知事宛ての1953年6月12日付厚生事務次官通知「優生保護法の施行について」。
*2 カッコ内はワセダクロニクル。
*3 当時の厚生事務次官は宮崎太一。内務省衛生局から1926年に厚生省入省。保険局長などを経て、1951年5月8日から1953年9月1日まで厚生事務次官を務めた。出典:厚生省20年史編集員会編『厚生省20年史』厚生問題研究所、1960年、462-463項。厚生省五十年史編集委員会編『厚生省五十年史(資料編)』厚生問題研究所、1988年、51項。
*4 国連の自由権規約委員会は1998年11月にジュネーブで開催され、日本政府の第4回報告書に対して「自由権規約委員会の最終見解」を採択した。同見解では、「委員会は、障害を持つ女性の強制不妊の廃止を認識する一方、法律が強制不妊の対象となった人達の補償を受ける権利を規定していないことを遺憾に思い、必要な法的措置がとられることを勧告する」(第31項)とした。出典:国連自由権規約委員会「規約第40条に基づき日本から提出された報告の検討 自由権規約委員会の最終見解」、外務省ウェブページ(2018年2月13日取得、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2c2_001.html )、本記事では外務省の仮訳を使用したが、原文は Concluding observations of the Human Rights Committee、OHCHRウェブページ(2018年2月13日取得、http://tbinternet.ohchr.org/_layouts/treatybodyexternal/Download.aspx?symbolno=CCPR%2FC%2F79%2FAdd.102&Lang=en)。
*5 「市民的及び政治的権利に関する国際規約第40条1(b)に基づく第5回政府報告」2006年12月、外務省ウェブページ(2018年2月13日取得、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/pdfs/40_1b_5.pdf)。