意見を異にする人たちとの対話を好む
保守派の論客として知られた評論家の西部邁(2018年1月21日没、78歳)は、1995年2月、オウム真理教から、教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)とウラジオストック放送で流すための対談を依頼された。麻原とはかつてテレビ朝日の討論番組『朝まで生テレビ!』で一緒になり、その発言に怪しげなものを感じていたという。それでも、自分と立場や意見を異にする者との対話を好む西部は、対談を引き受けようと思った。
しかし、依頼の手紙を受け取ったときはあいにくひどい宿酔で、返事を遅らせる。そこへ来て、オウムから雑誌類がどっさり届けられ、夫人が異変に気づいた。雑誌には「自衛隊が毒ガスを撒いている」などとあまりに奇妙なことがたくさん書かれており、それに彼女は「少し気をつけたほうがいいのではないか」と夫に忠告したのだ。西部はこれを受け、依頼には返事をしないで放っておくことにする。夫人の予感は的中し、それから1週間も経たずして、地下鉄サリン事件が起こった。もし対談に応じていたのなら、その内容など関係なしに世間からは「オウムの支持者」の烙印を押され、発言の場を失っていただろうと、彼は忠告してくれた妻に感謝したという。
オウムとの一件は極端な例だが、西部はできるかぎり幅広く人間とつき合うことを旨とした。たとえば、思想的に相違も多い評論家の佐高信とはテレビのCS放送で対談番組を3年にわたり担当し、書籍化もされている。亡くなる前月には、漫才師の村本大輔(ウーマンラッシュアワー)との対談が週刊誌に掲載された。アウトローとのつきあいもあり、札幌でやくざの親分にもなった高校時代の唯一の親友について『友情』(2005年)と題してエッセイにまとめている。彼によれば、人間関係の広さは《知識は人間の生を母体とするという考えからして当然のこと》であった(西部邁『ファシスタたらんとした者』)。
意見の違う者とのあいだでは、当然ながら論争も生じたが、そこで大事にしたのはユーモアだった。ただし、西部の言うユーモアは、単なるしゃれや諧謔とは異なる。これはイギリスの作家・批評家チェスタートン(西部は折に触れてこの人物の言葉を引用した)がユーモアとウィットを区別したのを踏まえたものだ。彼は次のように説明する。
《僕なりの解釈でいうと、ユーモアというのは自分を超えたものの存在を想定して、しかし自分はそれに近づけないという絶望があって、そこからペーソス混じりの表現が出てくるんですよ。つまり、おのれを知った者の滑稽というのがユーモアだと思うんです。/その点、いまふうの言論で気に入らないのは、パロディ文化もそうですけれど、ユーモアにいかず、せいぜいのところウィットなんです。ウィット、つまり機知というのは、自分が大した者だと思っているんですよ。自分の才能の誇示なんです》(筑紫哲也『若者たちの大神』)
これはジャーナリストの筑紫哲也との対談で、「知識人が他人を批判する場合のやり方、言葉の使い方が下品に思えてしかたがない」という相手の発言を受けてのものだ。
後年にいたっても、いまどきの「自称保守」が中国や韓国・北朝鮮、あるいは旧民主党や共産党寄りの論客などを敵視し、悪しざまに非難することに対し、《「議論」なるものの大前提は、自分にも誤謬がありうるし相手が自分よりも正当ということもありうる、と想定することにほかならない》とフォリビリティ(可謬性)の自覚を促した(『ファシスタたらんとした者』)。
絶望から、おのれの分を知ったうえでのユーモア。自分も間違いを犯す可能性があるという前提のもとでの議論。それは、西部自身が何度となく挫折を繰り返してきた体験から来るものでもあったのだろう。ここで彼の来歴を振り返ってみたい。
左翼運動との訣別
西部邁は1939年3月、北海道長万部に生まれ、現在の札幌市厚別区で育った。生家には、高校2年のとき突然、世界文学全集がそろい始めるまで本らしいものはなく、彼に政治的・思想的な雰囲気は皆無だった。それが、一浪して再び東京大学を受験するまでの1年間、家に閉じこもって勉強をするうちに、《まったくどういうわけか、東大に入ったら自分は学生運動とかいうものをすることになるのだろうと確信しはじめていた》という(西部邁『六〇年安保』)。
1958年4月に東大教養学部(駒場)に入ると、確信どおり学生運動に携わるようになる。やがて先輩の誘いで共産党に入るが、わずか4ヵ月で除名される。このころ、共産党中央と学生党員グループが路線対立から衝突、同年12月には党を除名された全学連(全日本学生自治会総連合)幹部を中心にブント(共産主義者同盟)が結成され、西部もこれに参加した。ブントは、既存の左翼政党を批判・否定し、独自に社会変革をめざす新左翼の走りとされ、1960年の日米安全保障条約の改定に際してはその反対運動(60年安保闘争)の急先鋒となった。そのなかで西部は入学して1年半後には自治会委員長、都学連副委員長と全学連中執を兼ね、闘争の最前線に立つことになる。
安保闘争は、1960年6月23日に新安保条約が国会で自然承認されたことで終焉したが、西部は政治活動により逮捕・起訴・保釈を繰り返す。60年11月に4ヵ月間の拘留から保釈されたあと、翌年3月には「戦線逃亡」を宣言、左翼過激派と訣別した。それから7年、3つの裁判で被告人となり、この間、64年に東大経済学部を卒業したのを機に結婚する。裁判はいずれも執行猶予がつき、実刑は免れた。
東大を卒業すると、同大学院経済学研究科修士課程に進んで新古典派経済学を専攻し、修了後は1970年より横浜国立大学の助教授を務める。裁判中の20代後半から荒んだ生活を送っていた西部は、職に就いてもなお深酒と博打にふけっていた。だが、1972年、新左翼の一党派である連合赤軍の組織内でのリンチ殺人事件が発覚すると、活動家時代の自分と重ね合わせ衝撃を受ける。10年間を無為に過ごしてきたことを恥じた彼は、ちょうど母校の東大教養学部の助教授に就任するタイミングでもあり、ふしだらな遊びを一切やめ、哲学・社会学・政治学・心理学・歴史学・文化人類学・言語学・記号学など、ありとあらゆる本を読み漁った。
1975年には、経済活動をより広い社会的行為との関係でとらえ直そうとした『ソシオ・エコノミックス』を発表して注目される。77年から翌年にかけてはアメリカのカリフォルニア大学バークレイ校、さらにイギリスのケンブリッジ大学に、夫人と子供たちを連れて留学した。フェローシップ供給元とは1ヵ所に2年間滞在との約束であったが、戦後の占領期より抱いていたアメリカへの複雑な思いが滞米中にますます深まり、嫌気がさしたため結局1年あまりでイギリスに渡ったのだ。
伝統社会であるイギリスで「保守」についてぼんやり考えていたという彼は、帰国後、保守思想家として論陣を張ることになる。
大衆批判の急先鋒として
敗戦後のアメリカ占領下での民主化と、その後の高度経済成長を経て、大衆が圧倒的な力を持つようになった社会を、西部は「高度大衆社会」と呼んだ。彼の言う大衆とは、《産業の産物である物質的幸福と民主制の成果である社会的平等とを、いささかも懐疑することなく、ひたすらに享受し、やみくもに追求する》世の多数派を指した(西部邁『大衆への反逆』)。
大衆はすでに政治、産業、文化とあらゆる方面を支配しており、それを批判することはタブーとされた。西部は1980年、新聞への寄稿のなかで、そのタブーを侵して大衆批判をすることを宣言する(「'80年代を生きる」、『大衆への反逆』所収)。このとき彼がしきりに引用したのが、大衆批判の先達である20世紀前半のスペインの哲学者オルテガだ。「“高度大衆社会”批判——オルテガとの対話」(『大衆への反逆』所収)と題する論文で、オルテガについて書いた次の一文は、まるで彼自身の行く末を暗示していたようにも読める。
《少し皮肉なことに、オルテガは知識人のための知識というものを軽蔑し、大衆の直中にいようと努力した人である。(中略)新聞・雑誌・講演などがその主要な活動舞台であった。その意味で彼は大衆と共にいた。しかし、一八九八年の米西戦争の敗北後にスペインをつつんだ憂うつ、苦悩、疲弊に巻きこまれることを拒んだし、また、敗北感にたいする反動としての過剰な愛国心や伝統への退嬰に与することもなかった。その意味で彼は大衆から離れて独りでいた》
西部もまた、大衆への迎合を拒みつつも、新聞・雑誌・講演・テレビと、大衆のただなかで著述活動を展開した。そのおかげでアカデミズムの世界では、ジャーナリズム寄りだと疎まれることも少なくなかった。他方で、左翼からは保守反動と呼ばれ、保守派や右翼からは元左翼過激派の反米主義者と批判されることもしばしばであった。
東大在職中(1986年より教授)の西部は経済学者という肩書を持ってはいたが、いかなる学会にも入らなかった。そこには知識人の在り方に対する疑念があった。社会が複雑に機能分化した現代にあって、知識人のなかでも、物事の全貌をまったく洞察することなくその断片だけ取り出してみせる「専門人」が幅を利かせるようになった。こうした傾向に対し、彼は「専門を失くすのが俺の専門」と言ってはばからず、人間社会の全体像を描くことを追究し続ける。
そこへ来て1988年、彼の勤務する東大教養学部で、宗教人類学者の中沢新一を助教授として招聘するか否かをめぐり、教授たちが対立する。西部は、当時ポストモダンの旗手と目されていた中沢に批判的だったものの、《ポストモダンの論客と日常的に論争できるというのは面白いな》と考え、招聘に賛同した(西部邁『サンチョ・キホーテの旅』)。しかし、中沢の業績を学問として認めない教授も少なくなかった。結局、この招聘案は、人事委員会と社会科学科会では可決されたものの、学部の教授会では反対多数で否決されてしまう。教授会は本来なら、科会の案を形式的に承認するだけだが、このときは反対派の教授たちが裏で悪い噂を流すなどして、中沢を徹底して拒否したのだった。
このとき人事委員長として中沢招聘に奔走した西部は、人事案がつぶされたのに大学にとどまるわけにはいかないと、教授を辞職した。そして辞職後は3ヵ月間という期限付きで、騒動の内幕を各メディアで“暴露”する。オルテガの言う「知識人のための知識」を弄び、専門知に閉じこもる知識人を批判し続けてきた彼にとって、この騒動は格好の材料を提供した。
教授を辞してからは生計を立てる必要もあり、ますます盛んに言論活動を展開するようになる。『朝まで生テレビ!』の準レギュラーとなったのも東大を辞職してまもなくのことだ。1994年には私費を投じてオピニオン誌『発言者』(のち『表現者』)を創刊、同誌と連動して私塾を開くなど、自前のメディアをつくることにも熱心だった。各媒体を通じて、西部は政治における「改革」の流れに疑念を示したり、「開かれた皇室」に異議を唱えたり、あるいは日本の核武装などタブー視されがちなテーマにも果敢に言及するなど、さまざまな議論を喚起した。
西部はまた、保守派の知識人らが結成した「新しい歴史教科書をつくる会」にも参加し、『国民の道徳』(2000年)や『新しい公民教科書』(2001年)を執筆している。それは国家意識への覚醒や道徳の回復に共鳴してのことであったが、その後、2003年のアメリカの対イラク戦争に際し、「つくる会」でアメリカを支持する者が大勢を占めたことに反発し、退会するにいたった。
あらかじめ告知されていた「自死」
2018年1月、西部が多摩川で入水自殺したことは衝撃を与えた。しかし彼を知る人たちにとっては、それはけっして唐突なできごとではなかった。それというのも、彼はすでに55歳のときに『死生論』(1994年)を著して以来、人生の終わりには簡便な自死を選びとると決め、そのために精神をトレーニングするとともに周囲からも承諾を得られるよう努めると公言してきたからだ。50代にしてそのように考えるにいたったのは、《自分の生の最後を自己解釈しえない思想、それは脆弱な精神だとみなさざるをえなかったからだ》という(西部邁『ファシスタたらんとした者』)。前出の『国民の道徳』の最後の章でも、「死生観が道徳を鍛える」と題して自殺について次のように書いていた。
《思想的に一貫せる唯一の死に方は、シンプル・デス(単純死)、つまり簡便な自死を選ぶことである。自分が精神的存在としてもう活動できない、あるいはそれ以上活動すると自分のあるべきと思う精神の在り方を裏切る、という単純なことがありありと見通せたとき、そのときには自死を選ぶしかない。簡単にいうと、精神が死んだときには人間も死んでいるとみなし、そこでなお生き延びようとすると、自分の声明を目的なき手段に貶めることだ、と考えることである。しかもそのように自己を貶めることは社会全体に、とくに自分の周囲に、負担を強いることである。それは人間の精神にとって認めがたいことである》
彼に言わせれば、生命は目的ではなくあくまで手段であった。したがって《もしも人間の生が価値として否定されるべき目的しか見出しえていないならば、(中略)手段としての生命もまた価値を持たない》と、人間が生き延びることを第一義とする生命至上主義を真っ向から否定した(『国民の道徳』)。
その後、夫人が癌で闘病中に書かれた『妻と僕』(2008年)では、彼女に先立たれたら《僕は、たとえ自分に知力と体力が少々残っていたとしても、筆を手にすることは二度とあるまいと思います》と書いた。夫人は、西部にとって唯一、実体の感じられる読者であった。そればかりか、保守思想のよりどころとなる故郷や祖国を実体化して想念しようというとき、彼女が自分の故郷・祖国であるという隠喩をほとんど無自覚につくりあげてきたという。それだけに、彼女の死はそのまま、彼の《言語能力の基盤が陥没する》ことを意味した(『妻と僕』)。
このとき、西部は、夫人が死んだら二度と筆はとらないと決めた「付帯的な事情」として、「保守思想の見地からして重要と思われる論題については、もうすべて論じてしまったこと」や「自分の(文章のみならず生活の全般における)『文体(スタイル)』に飽きがきてしまったこと」などをあげた。
しかし、そう書きながらも、西部は2014年の妻の死を挟み、晩年にあってなおも多くの著作を残した。かつて接した人々や郷里の記憶をつづった『サンチョ・キホーテの旅』(2009年)は芸術選奨文部大臣賞を受け、選考委員のひとりだった文芸評論家の秋山駿から「この著者は新しい分野を創ろうとしている」と評された。
秋山が「新しい分野」と呼んだのは、西部の著作のなかでも、彼がこのころもっとも熱意を込めて書いていた《自分の私的な体験の一齣一齣を、自分流の哲学にかんする知見、思想にかかわる態度、そして政治・経済・社会・文化にたいする分析知と総合知をあれこれ混じえながら、随筆風の文体で著述する》という種類の作品群であった(西部邁『生と死、その非凡なる平凡』)。前出の『妻と僕』、さらに『生と死、その非凡なる平凡』(2015年)や『ファシスタたらんとした者』(2017年)などの最晩年の自伝的エッセイもこれに当てはまる。いずれも、波乱万丈ともいえる人生体験がつづられ、文体も一般的になじみやすい。夫人に先立たれたら筆をとることはないと一旦は書きながら、それでも著作を出し続けたのは、いまいちど自らの軌跡を省み、各体験を論理的に解釈しつつ、そこで得た知見を世に伝えておきたいという義務感からではなかったか。
日常の会話すらも、知識と感情と意思(知情意)の全域に及び、仮説の形成・演繹・検(反)証という論理的過程を、ほぼ無自覚にではあるもののたどっていたという西部は、社交場で論争になるたび、《感情的に怒っているんじゃないのだ。論理的に怒っているのだ》と声を荒らげたという(『妻と僕』)。その最期も、彼としてみれば、きわめて論理的な判断のうえで導き出したものであったのだろう。
■参考文献
西部邁『ソシオ・エコノミックス』(中央公論社、1975年)、『蜃気楼の中へ——遅ればせのアメリカ体験』(日本評論社、1979年)、『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋、1986年)、『大衆の病理 袋小路にたちすくむ戦後日本』(NHKブックス、1987年)、『剥がされた仮面——東大駒場騒動記』(文藝春秋、1988年)、『リベラル マインド 歴史の知恵に学び、時代の危機に耐える思想』(学習研究社、1993年)、『知識人の生態』(PHP新書、1996年)、『死生論』(ハルキ文庫、1997年)、『国民の道徳』(新しい歴史教科書をつくる会編、扶桑社、2000年)、「保守主義者vs.無党派知事の一致点 戦争に乗じる覚悟も想像力もないインテリたちへ」(田中康夫との対談、『現代』2004年6月号)、『友情 ある半チョッパリとの四十五年』(新潮社、2005年)、「激論 異世代「保守」言論人 われわれの思想はどこへ?」(八木秀次との対談、『論座』2006年5月号)、『妻と僕 寓話と化す我らの死』(飛鳥新社、2008年)、『サンチョ・キホーテの旅』(新潮社、2009年)、「怖いものなしの二人だから世の中、メッタ斬り」(佐高信との対談、『週刊現代』2012年1月21日号)、『難局の思想』(佐高信との対談、角川oneテーマ21、2014年)、『大衆への反逆』(文春学藝ライブラリー、2014年)、『生と死、その非凡なる平凡』(新潮社、2015年)、『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社、2017年)、『保守の真髄——老酔狂で語る文明の紊乱』(講談社現代新書、2017年)、「フェイク飛び交う民主主義の末期」(村本大輔との対談、『AERA』2017年12月18日号)
阿川尚之『アメリカが見つかりましたか——戦後篇』(都市出版、2001年)
倉数茂「西部邁」(『日本大百科全書』小学館、「ジャパンナレッジ」収載)
筑紫哲也『若者たちの大神 筑紫哲也対論集』(朝日新聞社、1987年)
イラスト:たかやまふゆこ