「今の世の中の常識がわかってない」「時代遅れのおっさん」という批判がよくネットに溢れており、そうした人へは厳しすぎるほどに厳しい批判が向けられる。(おじさんと同様におばさんにも大概な人がよくいるのだが、おばさんは無視される傾向にある)
だが、ちょっと待ってほしい。
それは頻繁にネットを見て情報収集に明け暮れる暇があり、たまたまそういう情報に触れた人にとっての「一般常識」ではないだろうか?
「私はおっさんおばさんだけど、ちゃんと今の常識についていけてます」という人がいるのなら、なぜ遅れている者への配慮がないのだろうか?
50代にとっての40代。40代にとっての30代。30代にとっての20代。20代にとっての10代。
世代が10年近く違うだけで、全く「常識」がわからないのが普通だろう。
常識というものは世代を超えたものとして存在すると思われがちだが、現にこうしたある年齢層以上には無い常識という考えがある。
それはつまり常識には世代ごとの隔たりがあると言っているようなものだ。
おっさんおばさんが若者へ向ける不寛容さ、若者がおっさんおばさんへ向ける不寛容さ。そのどちらも同質のものである。
「長く生きてるほど賢くて偉い」という幻想などとうに無くなった時代だからこそ、「年上のくせにこんなことも知らないのか」という偏見も打倒されるべきなのである。
「これだから若い奴は」が叩かれてきた流れと同じように、「これだからおっさんは」という人が人を冷酷なほど厳しく批判できるような断絶を見逃してはならない。
トラバで指摘されて気づいたが、はてな村でも近年頻繁に「若者の間で常識的なネットの情報を知らない」という老化現象が起こっている通り、年を取るにつれて情報収集速度の低下が見られるので、いつまでも人は昔のような速度で情報収集、情報処理ができないという問題があります。誰もが一瞬で時代遅れとなりうるほど情報の速度が上がっている時代、老化し始めたネット第一世代にもこういった寛容さが必要になってくるのではないでしょうか。
あとネット特有の問題として、ツイッターもはてブもその他のサービスもいつ無くなるのか判らないという問題があり、そういうハブが無くなった場合、これまでのような常識を振りかざすこともできなくなるでしょう。その時必要になってくるのも寛容さなのです。
言っていることはわからないでもないけど、全くそうは思わないな。 頭の固いおっさん・おばはんが足を引っ張っていることで社会の生産性を低下させているのは事実。 ネットに触れる...
「年を取るにつれて誰もが生産性を下げて社会のお荷物になっていく」という前提があり、リスクからの回避のためにも寛容さが必要だと思います。