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北朝鮮 インテリジェンス

2018年、日本は北朝鮮「撹乱テロ」と闘えるか

今年こそ議論されるべき防諜のあり方

オウム真理教事件と金正男暗殺を巡る深い闇

2017年2月13日、マレーシア・クアラルンプールで金正男氏が暗殺された、まさにその日、私は東京都内で某国のテロ対策官と食事をしていた。

事件の第一報が入る前、そのテロ対策官はこんな指摘をしていた。

「日本政府は、オウム真理教の科学者たちが蓄積した化学兵器製造技術のノウハウを、もっと厳重に管理すべきではないか」

 

その人物によると、1995年のオウム真理教のサリン事件は、世界で唯一の化学兵器テロの「成功例」だ。簡易装置でサリンやVXを精製する技術を欲しがるテロ組織は多いし、技術の流出、拡散は世界のインテリジェンス関係者はいまでも警戒している、とのことだった。

化学兵器を製造した理系信者たちの多くは、死刑判決を受けて、東京拘置所にいるのだから、外部に流出しようもないだろうと思ったのだが、このテロ対策官は実に興味深い指摘をした。

「東京拘置所では、条件を満たす者なら死刑囚に面会することが可能だ。面会者たちのチェックを、日本の法務省、警察はきちんとやっているのだろうか。

それに、当時の捜査では、オウム真理教が隠した化学兵器のサンプルをすべて回収できているのか。どの警察関係者に聞いても明確な答えがない」

情報は、簡単に持ち出せるのではないか。もしかしたら、すでに――。このテロ対策官は、そう言いたげな口ぶりで指摘を続けた。

そんな会話の中で、金正男氏の暗殺の第一報が入った。その後、次第に明らかになったことは、この暗殺には1994年12月、世界で初めてオウム真理教が殺人にもちいたVXガスが使用されたのだった。

[写真]金正男氏暗殺を受けて空港内のクリニックを調査する防護服姿のマレーシア当局者たち(Photo by GettyImages)金正男氏暗殺を受けて空港内のクリニックを調査する防護服姿のマレーシア当局者たち(Photo by GettyImages)

クアラルンプールに飛んだ私は、奇妙な身震いを覚えながら取材を続けたのだった。

世界の水面下で行われている諜報戦の中では、あらゆる危険な情報がやり取りされ、ときに時間や場所を超えた思いがけない場面で、人々に牙を剥くことがある。日本では事件の記憶も薄れかけたオウム事件が、二十数年のときを超えて金正男暗殺と結びついたのだろうか。

そんな疑問は、暗殺を依頼した北朝鮮工作員が本国に戻った今、解明されぬままだ。

2017年には米朝の対立が先鋭化したことや、ミサイル発射実験など、表面的な出来事が大きく報道された年だったが、私にとっては日本人の日常生活の「すぐ身近」でうごめいている諜報員たちの存在を、あらためて感じる年だった。

「東京で撹乱テロはあり得る」と話す公安捜査官も

米国と北朝鮮は戦争に突入するのか、それとも対話か。2018年は、この二者択一の年となる。

北朝鮮は対話モードに入る可能性があるが、平昌五輪終了後の米韓合同軍事演習の行方によっては、軍事的緊張が高まる可能性がある。

緊張が高まった時、北朝鮮が先制攻撃として、いきなり核ミサイルを飛ばすことは考えにくい。まずは、北朝鮮は日本や韓国を人質にして、対米心理戦を仕掛けてくるだろう、と多くの外交関係者は言う。

1994年、第一次北朝鮮核危機で米クリントン政権は北朝鮮攻撃を検討したものの、反撃があればソウルで50万人超の犠牲者が出るとの推計を受けて、攻撃を断念した。金正恩の祖父・金日成の時代だ。

核問題を先送りにし、軽水炉供与確約という大きな果実を得た祖父。その成功体験に基づいて、金正恩が動くというのが、外交関係者たちの見立てなのだ。

では、その際に北朝鮮が仕掛ける対米心理戦とは何か。「ソウルを火の海に」という得意のフレーズは使い古された感がある。次は、心理戦を実行に移すのだと読むインテリジェンス関係者は多い。

それは、東京やソウルの市民の恐怖心を煽る撹乱工作である。

警視庁公安部の捜査員は、「あくまで個人的な分析」と前置きした上でこう語る。

「いきなり、金賢姫がやったような爆破テロを東京で実行する可能性は高くないと見ている。やるとすれば、人の命を奪うことを目的とするのではなく、東京で暮らす人々が心理的に恐怖を覚える、撹乱テロだろう。

丸の内や霞が関、永田町の地下鉄駅に化学兵器入りの瓶を次々置かれたら、(実際には化学兵器を散布しなくても)東京はパニックになるし、厭戦世論は一気に高まる。対話を支持する世論が強くなるだろう」

シナリオはこうだ。

ホームに置かれた小瓶を駅員が回収し、中を確認した拾得物担当者がVXガス中毒になる。警視庁の科学捜査によって、オウム真理教事件で使われたものと成分比が一致する――。

そこに、北朝鮮の影はない。

そんなとき、駅の防犯カメラに映るのは、北東アジア系の男の姿だ。だが、警視庁の最新の顔認証技術でも、個人の特定まではできない。対照する顔のデータベースに登録がないからだ。

都内で小瓶が次々発見されるが、ある日、神奈川県逗子市の京急神武駅でも同じ小瓶が見つかる。米軍住宅の目の前の駅だ。

メディアではコメンテーターたちが、「北朝鮮工作員犯人説」を唱え始める。しかし、そこに証拠はない。ただ、<米国が北朝鮮を攻撃すれば、本当に化学兵器テロが起こるのではないか>という恐怖の世論が次第に広まっていく――。

北朝鮮がこうした撹乱テロを実行するとすれば、日本に極秘裏に潜入し、日本社会に「浸透」した北朝鮮工作員が行う可能性が高い。もしくはマレーシアの金正男暗殺事件のように「現地雇用」の協力者かもしれない。

いずれにせよ、北朝鮮工作員の活動実態は、今の日本の防諜能力では掴みきれないだろう。2017年、冬の日本海で起きた問題は、その一端を浮き彫りにしている。

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