(P133-135)
証言 日本政府は誠意を示して
ビクトリア・カンラス・ロペス(フィリピン・日本軍「慰安婦」制度被害者)
こんにちは。私は1922年4月20日生まれです。夫は亡くなり、七人の子どもがおります。
二歳のとき父が亡くなり、ひとりっ子の私は母と一緒にマニラに引っ越しました。母は再婚し、義父との間に六人の子どもをもうけました。高校二年まで学校に行き、その後六ヶ月、洋裁を習ってからその仕事の見習いになりました。十四歳ごろパンパンガに戻ったとき、義父は農場を監督していました。母は家のまわりに野菜を植えて、朝その世話をし、午後から夕方五時までは農場に出て働きました。
1942年の3月、日本軍の六輪トラックが、食料を調達するために村にやって来ました。兵隊たちが家に来てドアを叩き、食料庫の鍵をよこせと言いました。でも鍵はでかけていた両親が持っていましたので渡せませんでした。すると日本人は食料庫のドアを破って、五十キロ入りの米を三百袋、次から次へと運び出しました。コバヤシという上官が私を捕まえました。私は泣き叫び、抵抗しようとしましたが無駄でした。弟が聞きつけて部屋から出て来たのですが、二度兵隊に殴られて気を失ってしまいました。
私はトラックに乗せられ、シドラナン小学校に連れて行かれました。そこが日本軍の駐屯地になっていたのです。建物は新しくなりましたが、この学校はいまもあります。トラックには他に女性は誰も乗っていませんでした。
六時ごろ、私は平屋の学校の教室の一つに入れられ、閉じ込められました。抵抗するとコバヤシは私の胃のあたりを蹴り、殴りつけ、服を破って強姦しました。初めての性交渉だったので、出血しました。コバヤシは、私を二度強姦し、部屋を出ていきました。私は部屋の角に座りこんで泣き、祈りました。
その日から、部屋の外には衛兵が立ちました。三ヶ月間、コバヤシだいたい日中に二回、毎晩三回、私を強姦しました。他の兵隊は誰も部屋に入ってきませんでした。外に出るどころか、トイレに行くことも許されず、ただボウルを一つ渡されただけでした。お風呂も同じ部屋で入りました。ときどき兵隊が食べ物を差し入れにきました。私は何もできませんでした。
ある日、義父が洋服と食べ物を差し入れに来てくれました。でも兵隊たちは義父を私に会わせる代わりに連れ去って、太陽の下に三日間、食べ物も水も与えずに立たせたのです。義父はその後家に帰されたそうですが、すぐに亡くなりました。心臓発作でした。
1942年の6月、ゲリラが日本軍の指令部を攻撃しました。銃撃戦があった私は混乱し、何が何だかわからないまま窓を破って逃げ出しました。窓から飛び出した後、ショックと死にもの狂いの気持ちで、這い始めました、五百メートルくらいの砂糖キビと竹の畑を抜け、道を渡りました。誰もいませんでしたので、それからは歩いて、またひとつ砂糖キビと竹の畑を通り抜けました。そしてついに家にたどり着いたのです。畑を這い、歩き通して来たために、青あざと傷だらけで、玄関の前で倒れてしまいました。隣の人が見つけてくれて、家に上がるのを手伝ってくれました。
体力が回復したとき、私は農薬を飲んで自殺を図りました。吐いているところをまた近所の人に助けられ、ココナツ水を飲ませてもらいました。それで私は農薬を吐き出し、命拾いをしました。それからお茶をもらって眠りました。次の朝、病院に連れて行ってもらうと、医者に「心臓が弱っているから、安静にして心配事をしないこと」と言われました。そこで、しばらく家で静養しました。
(略)