前回の続き。
「戦争と性 近代公娼制度・慰安所制度をめぐって」川田文子、1995年4月30日初版、P122-124、より引用。
強制労働に狩りだされ、そこで継続的に性蹂躙を受けた被害者もいる。
クリスティータ・アルコーバーさんが生まれ育ったレイテ島タクロバン市サンホセに日本軍が駐屯したのは、彼女が十六歳のとくである。金や食料のある人びとは、日本軍駐屯前に村から逃げ去った。ある日、日本軍は、残っていたほぼ全戸の村民を集め、労働を命じた。アルコーバーさんの家では彼女と弟が連行された。サンホセの飛行場のそばで塹壕掘りなど、石や砂を運ぶ重労働であった。日給二十五センタボ*1、軍票で支払われたが、使う機会はなかった。十四歳の弟は約一年後、少ない食事と灼熱の炎天下での重労働で脱水症状を起こして死亡した。
女性は十六歳から四十歳くらいまで約三十人いた。連行されて三か月後、二、三人の日本兵が夜、宿舎に来て、十人ほど選んで連れだし、近くの浜で待っている数十人の日本兵に引き渡した。強姦するためであった。それから毎夜、仕事が終ると浜に連れだされ、ココナツやバナナの木の下、あるいは塹壕で、数人の兵の相手をさせられた。担当の兵士は女性を選ぶとき、「オーケーカ、パタイカ(もし拒否すれば殺す)*2」といった。このような生活が一九四二年から二年以上続いた。
自宅で強姦され続けた被害者もいえる。プラシダ・カランサさんである。夫は農夫、三人の娘と一人の息子がいたが、一九四二年九月、二番目の子の誕生日に、家で赤ん坊をあやしていると、突然十名以上の日本兵がマカピリ*3を連れて乱入してきた。そのとき、夫と息子は畑に出ていた。カランサさんは抵抗して、軍刀の鞘で頭を強く打たれ、気絶してしまった。兵隊は赤ん坊を八歳の長女に抱かせ、部屋の隅に追いやると、泣き叫ぶ子どもたちの目の前で、倒れているカランサさんを強姦したのである。
それから間もなくして、日本軍はその辺一体を駐屯地にし、比較的大きな木造家屋であったカランサさんの家を司令部として使った。夫は日本軍に連行され、家には帰って来れなかった。ふだん、カランサさんは子どもたちの食事の支度や洗濯など家事をしていたが、夜になると、一週間のうち何日かは兵隊に襲われた。作戦行動から帰って来た日などには、昼間から下士官がカランサさんを襲った。夫は二ヵ月後に帰ってきたが、子どもたちは何もいわなかった。しかし、長女はその頃の光景を現在でも鮮明に記憶しているという。
植民地朝鮮の「慰安婦」徴集が官憲の協力を得て、その多くが業者を介在させて行われたのに対し、フィリピンでは軍人が直接に、ときにはゲリラに対する報復措置として女性を駐屯地や将校宿舎に連行した。アルコーバーさんの証言が示すように、「拒否すれば殺す」という武力威嚇によって徴集されたのである。