年寄りの説教と昔話と自慢話は嫌われる
どうも千日です。最近、自分の本の話ばかり書いてる気がします。早い話がこれって自慢話と取られてもしょうがない話ですよね。
でもって、その本の第一章は ”「家を買う」ときに後悔しないための心構え” ときたら説教以外の何ものでも無いでしょう。今日の話のネタ元は私の敬愛する高田純次さんの言葉です。
年を取ったらやってはいけないことが3つあるんだそうです。
- 説教
- 昔話
- 自慢話
の3つです。
そして芸人らしくオチとしてこんな風に締めてます。
だからオレの話は「エロ話」しか無くなるんだよね。ハハハ。
じつに、深いです。
もう本の自慢も十分にしましたし、そろそろ平常運転に戻りたいですし、また自戒の意もこめてこうしたブログらしいブログを書きたいなと思います。
今週のお題「バレンタインデー」
老害とか言うけどさ、どっから年寄りなの?
だいたいにおいて、こうした説教、昔話、自慢話というのは「老害」などと言って忌み嫌われるオジサンの終わらない話の特徴として捉えられてますよね。
でもね、どっから年寄りなんでしょうか?
制度的に何歳からというのはありますけど、説教、昔話、自慢話で迷惑をまき散らす「老害」というのは相対的なものだと思っています。
オレらの時代はよー
例えば学校のサークルなんかのOBやOGなんかは、社会的には若いですが、サークル内では十分な「老害」になりうるポテンシャルを持っていますよね。
たぶん「あーアイツか」みたいな具体的な顔が思い浮かぶでしょう。
ずいぶん緩くなったよな、時代かなー
オレらの時代はよー
という声で鳴くやつらです。
そうです。
そいつは、そのまま年をとって見た目がくたびれてくると「老害」というレッテルを貼られるオッサンになるんです。
老害は若いときから老害
初老となった千日の実感なのですが、人間の成長にせよ、老いにせよ、境目というのはありません。
例えば既に成人になった人であれば、なんとなくわかると思います。成人式を境に大人になったわけではないですよね。
少年から青年、青年から中年、中年から壮年、壮年から老年、言葉としてはありますけどそれぞれに境目が無いというのが私の実感です。
中身はみんな子どもの頃から変わらない
いま私は中年ですけど、自分の中身に少年のわたしがいます。コアとして、少年のときの私が居て、その少年の千日が「中年男性」の着ぐるみを被っているような感じです。
この着ぐるみも、あちこち傷んできてます。
私は「中年男性」の着ぐるみの中から外の世界を覗いている少年です。
社会に出ていろんな人と会ってきて、分かったのですが、私以外にも「着ぐるみを着た少年」がいっぱい居ることに気づいたんですよね。
ていうか、皆そうなんですよ。
なんとなくそういうルールだからってことで、それらしく振舞っていますけど、着ぐるみを脱いだら自分と同じ年恰好の少年がそこにいる。それが分かってから、誰に会うのも気兼ねしなくなりました。
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中身は成長しないのか?
こんな風に言うと、
中身も成長しているから、そんなガキじゃないよ、それはオマエだけだろ。
と反論する人もいると思います。そうですね、子どものころの中身と大人になってからの中身はちょっと違います。
でも、それはある日、ガラッと変わるような変わり方ではないですよ。
内面の成長はらせん状
内面の成長ってらせん状になっているんだと思っています。まっすぐ上に向かって伸びるのではなくて、どちらかというと同じところをぐるぐる回っているような伸び方です。
自分としては…
- 毎日、毎年が同じことの繰り返しだ、
- やってることも、自分自身も変化が無い、
そんな感覚だと思います。しかし気が付いたら、昔の自分よりは確実に成長した気がする。
これは自分としては、ぐるぐる同じところをまわっているような気がしていても、何かの力が働いて、どっちかの方向に傾斜が付いていたからです。
いま歩いているこの道はいつか懐かしくなるだろう
自分の成長を実感できるときは、かなり後になってからです。自分に見えるのは、いつもと変り映えのない同じ道です。
しかし、「今」歩いているこの道の先にしか未来は無く、その道をどう歩くかが未来を作ります。
私も、その道を歩いてきました。そして、今も歩いています。
中身は同じですけど、今歩いている道は、既に昔歩いた道ではありません。かつて自分の歩いた道はもう歩くことが出来ません。それを懐かしく思うのです。
同じところをぐるぐる回っているように思えても、いつか懐かしくなる日がくるよ。
これが年寄りが説教をするインセンティブなんですよ。
懐かしいから昔話になります。
それでもって、自分なりにこのらせんの傾斜をどう付けてきたか?という自分なりの分析をしたい、つまり自慢話というわけです。
かつての道を懐かしむ=ステージを降りる
なので、老人の説教、昔話、自慢話については、一寸くらいは付き合ってあげても良いのではないかなと思います。
しかし自分がこれを行うことは厳につつしむべきでしょう。
後ろを振り返っているときというのは、歩いていないときだからじゃないか?と思うからです。年寄りの説教、昔話、自慢話はある意味「ご苦労様です」という気持ちで聞いてあげて良いんですよ。
これは、降りた人の言葉です。この人がステージから降りてくれたことによって、次の自分がステージに上がれるのですから。譲ってくれているということなんです。
冒頭の高田純次氏はどうなのかというと…
俺は最後までここから降りない!
そういう決意表面なんですよ。多分すごく根はストイックな方なんだと思います。
若いうちから説教、昔話、自慢話の多い人はダメです。そんな暇があったら歩けバーカ、と言ってやりたい気持ちです。
以上、千日のブログでした。
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《あとがき》
とは言っても、私くらいの年でも、ちょっと油断するとやってしまうのが説教、昔話、自慢話の類です。私の本やブログなんて、この三つが無ければほとんど成立しないんじゃないでしょうか?
昨日実家に行って両親の説教、昔話、自慢話をたっぷり聞いてきました。昔はこういうの耐えがたかったんですけどね。最近大丈夫になりました。いくらでも聞いていられる。
両親には私の「着ぐるみの中」しか見えてませんし、そんな私に直に話しかけてくる人はだんだん少なくなってくるからです。
2018年2月12日
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