ある休日のこと、洲本の町を歩いていると、こんなポスターを見つけました。
そう言えば、ドラクエどころか生オーケストラは、ヨーロッパで1回だけ聞いたことがあるものの、日本では一度もなかったりします。当時全国トップクラスの実力だった中学の吹奏楽部の演奏なら聞いたことはあるけれど、それはプロのオーケストラではない。
地元でやる、それも縁もゆかりもありまくりのドラゴンクエストのコンサート。それも、作曲者のすぎやまこういちさんと、ドラクエの制作者ほりいゆうじ(堀井雄二)さんもあらわれる。生ドラクエの上に生すぎやま&堀井も見られる良い機会だと、さっそくチケットを購入しました。
で、このポスターには、地元民以外は「おや?」と気づくところがあります。
「あの思い出が堀井雄二の故郷でフルオーケストラと共に蘇る?」
何故か語尾に「?」がついているところに引っかかったのではありません。堀井雄二氏は淡路島の洲本出身だったのです。
堀井雄二とは?
彼は「ドラゴンクエスト」シリーズシナリオライター(脚本)として、「ドラクエ生みの親」と呼ばれています。去年7月に発売された「ドラクエ11」が話題になったのは、いったんドラクエの制作から離れていた堀井氏が復帰したこともあります*1。事実、11では印象に残る名(迷)セリフが増えているとか。
他にも、相棒が犯人だったという、TVドラマの『相棒』真っ青の展開だった「ポートピア連続殺人事件」「オホーツクに消ゆ」などの作品もあります。「ポートピア連続殺人事件」でちょこっと洲本が出てくるのも、彼が洲本出身だから。
また、アラフォーより上の世代には懐かしい、『週刊少年ジャンプ』巻末に連載されていた、北斗の拳をパロったファミコンゲーム紹介記事、『ファミコン神拳』の「ゆう帝」が堀井氏です。
「ゆう帝」で思い出したけど、ドラクエⅡの「ふっかつのじゅもん」で、こういうのがありましたね。
昭和29年(1954)に生まれた堀井氏は、洲本市を東西に貫く本町商店街の家で育ちました。淡路島は同じ苗字の人がけっこう多いのですが、よく考えたら堀井って苗字もけっこう見かける気がする。
ここが彼の実家でした。実家は「堀井ガラス店」というガラス屋で、違う場所に「堀井ガラス・サッシ工業」という名前の工場があるのですが、そこと関係あるのかどうかはわかりません。何せ淡路島は、病院が戸惑うほど同じ苗字が多いそうなので。
神戸市をミニチュアにしたような、山・海・町が手の届く距離にある洲本は、幼い堀井氏の想像力と冒険心を駆り立てる絶好の場所でした。
海が近いので夏は海パンのまま自転車をこいで海水浴場へ。泳ぎ疲れたらそのまま家に帰って風呂にドボン。洲本城跡の山を冒険し、戦国時代らしき古い城壁の跡を見つけた時のワクワク。これがドラクエの原点なんだと。
洲本の町を歩いていると、確かになんだかドラクエの匂いがします。自分が小学生か中学生の頃、未知の場所へ行った時のドキドキ感とワクワク感、つまり、オトナになり忘れていたコドモ心の冒険心が駆り立てられる、不思議な場所です。洲本城跡の山の中や図書館前のチューリップ園は、確かにスライムが出てきそうやもんな。
実家の近くにあった、既に廃業しているお店ですが、彼の少年時代には元気に営業していて、足を運んだところかもしれません。
現在、別ブログで洲本の町を歩いているのですが、よかったらこちらもどうぞ。ブログを見て少しは「リアルドラクエ」が楽しめたら幸いです。
堀井氏は、地元の洲本高校を卒業後早稲田大学へ進み、フリーライターを経てゲームの世界へ進むのですが、洲本への愛着は変わらず、今でも年に1~2回は洲本に里帰りしては、幼馴染と会ったり町をブラブラしているそうです。
少し寄り道(少しか?)しましたが、ようやく本題です。
へんじがない、ただのコンサートのようだ
コンサート当日。
チケットを握りしめ、会場の洲本文化体育館へ。
どうせ地元なので焦って早く行く必要もなく、コンサート開演30分前に現場に到着したのですが、中は想像以上の人出でした。チケットも完売でめでたく満員御礼。後で知ったのですが、わざわざ北海道から来た人もいたらしい。
スクウェア・エニックスからの花束も届いていました。
文化体育館はオーケストラ専用というわけではないので、やはり作りがやや即席なのは否めない。
16時、定刻どおり開演です。
オーケストラと指揮者の入場と共に、まずはご挨拶とお馴染みのオープニングの音楽を。開催中は写真も録音も禁止なので、まずはようつべMUSICでお楽しみを。
すぎやまこういちがあらわれた!
序曲が終わった後、すぎやまこういち氏が登壇し、挨拶。
「すぎやまこういち、Lv.86です」
いきなり「年齢=レベル」にたとえるユーモアを交えた挨拶。まことにドラクエコンサートの始まりを告げる挨拶でした。
すぎやまこういち先生は、たかがゲームの音楽を「芸術」にまで高めた第一人者の一人でもあります。今でこそゲームミュージックは音楽の一分野として確立されていますが、当時は散々バカにされたジャンルでした。
10年以上前に某ブログサイトでブログを書いていた時、当時ナムコ(現バンダイナムコ)のアーケードゲームの音楽担当の人と知り合ったのですが*2、すぎやま先生のドラクエの音楽がゲームミュージックの流れを変えたと言ってました。私にとってはナムコもゲーム音楽を相当変えた第一人者ですが、その中の人をして「神」だと。
すぎやま先生と、ドラクエを作ったエニックスとの縁はドラクエだけではなく、PCゲームにも及んでいます。当時のPCユーザーにとっては、「アンジェラス 悪魔の福音」なんかが有名なんじゃないでしょうか。
「淡路島とくれば、玉ねぎに堀井雄二」と故郷に凱旋の堀井氏を持ち上げましたが、同じ洲本出身の女優の大地真央は?とふと頭をよぎりました。二人は学校こそ違うけれど、2つしか年齢が違わないから幼い時にどこかですれ違っていたでしょう。まあ場が場やから、そんな細かいこといいか。
すぎやま先生に関しては、ここ数年司会をやっていた番組を降板したり、スクリーンにばったり出て来なくなったので、もしかして、年齢が年齢だからな・・・と心配していました。正直、年齢が年齢なのでもうダメじゃないかと。
しかし、実際見てみると、足取りがすごくしっかりしていたので、大丈夫だなと安心しました。まあ、淡路島に来るくらいだから大丈夫なんだしょうけどね(笑
挨拶の後は、「初代ドラクエ」「ドラクエⅡ」の交響曲メドレーを30分。
すぎやま先生は、オープニングの挨拶で、
「音楽は心のタイムマシン」
と語りました。音楽を聞くことによって、心があの音楽を聞いていた昔に戻る。
私は初代ドラクエを、発売日(1986年(昭和61年)5月27日)に購入しました。当時は話題性もなく(後で口コミで広がったそうな)、近所のおもちゃ屋で予約なしに買ったことを覚えているのですが、Ⅲで大爆発を起こし社会現象にまでなるとは、初代を買った身としてはつゆとも思いませんでした。
音楽を聞いていると、すぎやま先生の言うとおり記憶が昔に戻り、しばし映像が頭の中で再生されました。
当時ファミコンを親に買ってもらえなかったので初代を友達の家で共同でやったこと、Ⅱで「ふっかつのじゅもん」のバカ長さのあまり間違えまくり、泣きをみたこと、ロンダルキアへの洞窟の鬼畜な難易度に涙したこと、*3。
すべてが音楽とともに穏やかな記憶として蘇り、目をつむるとファミコンとブラウン管テレビ、そしてドラクエのカセットが目の前に再現されたほどでした。
最後のⅡのエンディングの音楽となると、あの侘しい音楽と共になんだか涙腺が緩んできました。自分では確認できませんが、演奏を聞いていた時の私の顔は、小学生の童顔に戻っていたかもしれません。
ほりいゆうじはめいよしみんになった!
ドラクエⅠ、Ⅱの演奏が終わった後は、堀井雄二さんの名誉市民の表彰式でした。
堀井雄二氏は、洲本を離れてからも故郷に何か役立てればと長年寄付をしたり、ドラクエで洲本を盛り上げようと尽力してくれたということで、今回名誉市民に選ばれたそうです。
型通りの表彰式が行われたのですが、「故郷に錦を飾る」とはこのことなんだなと、こちらもなんだか感激した気分でした。
堀井雄二さんはシャイなのか、人前でのスピーチの類は苦手のようで、終始噛みまくりでした。あまり人前に出てベラベラしゃべるタイプではなさそうというのが、私の印象でした。
そして、洲本市長と市議会議長もなんだか型どおりのスピーチで面白くない。せっかくのドラクエコンサートなんやから、ドラクエをもじったスピーチにしたら、会場の小さな&大きな子どもたちにウケたのに。たぶん、私を含めた観客のほとんどは非洲本市民やで。
すぎやま先生は86歳にして「Lv.86」で、ドラクエファンへのつかみはOKだったのに、政治家という一番空気を読まないといけない存在が、全く空気を読んでいない。逆にすぎやま先生は場の空気ってのをわかってらっしゃると同時に、ドラクエへの愛を感じました。
私が洲本市長なら、こういうスピーチにしてたかな。
「本日ご来場の皆さん、前半の演奏ですっかり日常の毒をキアリーし、心もベホマズンされたことかと思います。
堀井雄二さんは洲本で生まれ洲本でレベルアップし、アレフガルド、じゃなかった、東京へ冒険へ出られました。その後ドラクエでギガデインを放ち、多額の寄付を通じて洲本をレミーラしてくれました。本日堀井雄二さんにお越しいただき、少々緊張されてアストロンされていますが、私も感無量で心がメラゾーマしてしまい、頭がパルプンテです。
人生一寸先はまことにマヌーサですが、将来有望な若いみなさんは、堀井さんをモシャスしつつ困難をバシルーラし、人生をトヘロスしていただきたいと思います。
お次は後半ですが、みなさまラリホーせず最後までお楽しみいただき、おかえりも事故なくルーラしていただければと思います。
以上、マヒャドな挨拶失礼しました」
わからない人には暗号のような文ですが、わかる人にだけわかればええねん(笑
大阪ならベタすぎて野次られそうですが、スベってもいいからここまでした方が盛り上がったと思いますね。あの会場の空気なら、これくらいベタでもスベらなかったと思います。
ドラクエⅢは30さいになった!
コンサートが行われた2月11日は、1日前がドラクエⅢ、当日が次作のⅣの発売日でした。つまり誕生日ということになります。会場でもそれが伝えられていました。
パンフのどこにも書いていなかったものの、このコンサートは「ドラクエⅢ、Ⅳお誕生日コンサート」でもあったのです。
ドラクエⅢが発売されたのは、1988年2月10日でした。世間はバブル真っ盛りの時でしたが、リアルタイムで生きていた当時中学生の私には、バブルだ好景気だなんて感覚は全くなし。バブルだ好景気は、過ぎてから「ああ、あの時は景気良かったんだ」と思い返すものなのですね。
それはさておき、水曜日という平日に発売されたため電気屋では徹夜行列組が出た・・・という伝説がありますが、私の地元での発売日は「休日」だったことだけを、はっきり覚えています。
この時は、初代のように「ドラクエくれ」と野菜を買うようなわけにはいかず、地元の「おおとりウイングス」というダイエー系ショッピングモールの前で、整理券が配られて並んだ記憶があります。
その日は、私の記憶だと「次の日曜」、つまり2月14日でした。朝から並んだので当時は授業があった土曜日はあり得ない。朝から並べるのは日曜と祝日しかないのですが、発売日からして2月11日だった可能性が高いですね。
もし2月11日だったら、寒かったはずがその記憶が全くなく、正月にもらったお年玉を握りしめ、ドラクエを買うというワクワク感だけが残った30年後に、こうしてコンサートを聞いているということになります。そう思うと、なんだか感慨無量です。よくここまで、30年も生きてたなと。正直、60周年まで生きている自信はありません(笑
ドラクエⅣは、Ⅲの2年後に発売されたのですが、前回の平日販売のパニックから、4から土日祝の販売となりました。
私は買っていません。結果的に友達に借りてクリアしたのですが、発売時は高校受験の正念場、学校で「ドラクエ禁止令」が発令され、受験が終わるまでドラクエ禁止でした。
このドラクエⅣで覚えているのが、ある悲しい物語。
というのが、「ドラクエⅣのストーリーを50文字以内で述べよ」の模範解答です。
しかし、この物語が実に悲しく、感受性豊かなティーンには少々刺激が強すぎた。そりゃ好きな女を目の前で公開処刑されたら、俺だってデスピサロになるわなと、当時好きだった女の子に投影してしまい、俺は絶対守ってやると涙が出た記憶があります。
なので、個人的には私の中でのデスピサロは、「RPG史上唯一の、『倒してはいけない、心情的に倒すに忍びないラスボス』」という位置づけです。まあ、主人公の勇者も恋人をデスピサロに殺されているので、理屈ではおあいこではあるのですが。
もっとも、このドラクエ史上最も救われないストーリーでPTSDになったのは私だけではなかったのか、NINTENDO DSなどのリメイク版はシナリオが変更され、殺されたはずの恋人が超法規的措置で生き返るというハッピーエンドで終わっているそうです。
今年で28周年ということは、あれから28年も経つのか・・・と会場で一人、物思いにふけっていました。自分の頭の中では、10年くらいしか経っていない。しかし、現実は28年もの月日が過ぎていた。
私の中では、ⅢもⅣも「そして伝説へ」になりつつあります。
おお、こうはんにはいってしまうとはなにごとだ!
コンサートの後半は、40分ほぼノンストップ「ドラクエⅢ全曲」でした。
当然、当時の音は再現できないので、ようつべでどうぞ。
Ⅲはゲームそのものもそうですが、いちばん音楽に対する思い入れが深い一品です。
何故ならば、Ⅲのレコードもその後に買ったから。当時はCDは中学生ごときが手を出せるものではない超高給品だったので、まだレコードが主流でした。その2年後(1989年)に、社会人だった姉がボーナスはたいてCDコンポを買い、私もCDを買って姉に黙ってコンポで聞いていたので、Ⅲのレコードを買った時はレコード最後の世代だったのでしょう。
その音楽を生で聞いていると、目をつむるとまるで家にあったレコードプレーヤーで聞いていた感覚と、攻略本を見ながら友達とワイワイやっていた頃が、頭の中で再生されていきました。ドラクエⅢは思い入れが深いだけに、記憶も鮮明でした。
後半の演奏が終わり、大拍手と共に終了。
だったはずなのですが、やはりアンコールが。
2曲演奏されていたのですが、全く聞いたことがない曲でした。1~8までは一通り、通算数十回ずつは聞いているので、記憶のデータにないということは、9以降なのかもしれません。それか、最近発売された11のものかもしれません。
そして最後は、すぎやまこういち先生自らタクトを持ち、指揮台に立って指揮者となり大きな拍手が。途中ですぎやま先生が席を指揮者前まで移動した時に、(指揮を)やるなとは思っていたけれど、「Lv.86」とは思えない軽快なタクトさばきとサービス精神で、会場は大盛り上がりでした。
しかし、せっかくのドラクエⅣの28歳の誕生日でもあるので、個人的にはドラクエⅣメドレーでもやって欲しかったな~。
堀井雄二にすぎやまこういち、そしてドラクエと、満漢全席ならぬ「ドラクエ全席」だった今回のコンサート。
私はドラクエ交響曲はブログを書く時のBGMにしているので、それこそ何百回と聞いているはずです。しかしながら、生コンサートはやはり格が違う。家で安っぽいスピーカーで聞いているのと、当たり前ですが一つ一つの楽器の音まではっきり聞き取れました。
興味深かったのは、交響曲の中にある「あの音」は、こうして演奏されているのかという発見ともなりました。例えば、バイオリンは弾くのではなく、弦を手ではじいて音を出す方法もあるとかね。
ドラクエの音楽、特に1~4あたりは既にゲーム音楽界の古典ということも再認識しました。それこそ何百回聞いても飽きない。そういう音楽は百年後にも必ず残る。百年残るもの、それはまぎれもなく「古典」です。
つまり、ドラクエの交響曲はすでに「クラシック音楽」なのです。
その「古典」を聞き、ゲームに夢中だった昔に戻ると、本当に心がベホマされます。ストレスフルな人には、こういうストレスのリセット方法もあるとおすすめしたいです。
人生の横に常にドラクエあり。初代からドラクエと共に生きてきた私には、今回のコンサートはベホマ、いや、自分の人生と今後生きる未知を再認識させたという点ではザオリクになったでしょう。
へんじはするけどただのしかばねのような記事をお読みいただき、ありがとうございました。お礼に皆さんにマダンテ・・・じゃなくてベホマズンを。
最後に。
昨日のコンサート、やはり神戸新聞淡路島版でニュースになっていました。