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【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私」

2月12日昼間に、「モーニング娘。20周年記念スペシャル」という番組が放送された。
内容は、モーニング娘。(およびハロー! プロジェクト)の番組「ハロー! モーニング。」の特番。「「ハロー! モーニング。」(略称ハロモニ)」は、2000年4月~2007年4月までの間、放送されたテレ東の番組である(その後、「ハロモニ@」という番組が2008年まで)。
この「20周年スペシャル」について感想を書こうと思ったが、その前に、私が「いつ頃からいつ頃までモーニング娘。に興味を抱いていたか」を書いた方がいいだろう。
というか、私自身も忘れていた。

まず、五万枚限定発売のインディーズデビューシングル「愛の種」が97年11月。テレビ番組の企画で、話題となる。次にメジャーデビューシングル「モーニングコーヒー」が98年1月。「LOVEマシーン」が99年9月。
2000年4月に、四期メンバー加入。
「恋愛レボリューション21」が、2000年12月。
私が本格的に興味を持ち出したのはこの頃で、けっこう遅い。
ミニモニ。CDデビューが2001年1月。
いわゆる「ハローマゲドン」が2002年7月(矢口がミニモニ。卒業を告知)。
30枚目のシングル「Ambitious! 野心的でいいじゃん」が、2006年6月。
私が興味を持っていたのは、シングルではこの30枚目までで、ハロモニ終了と同時に一気に興味が失せた記憶がある。後続の番組「ハロモニ@」も観ていたが、メンバーがスタジオに集まって放送する形式ではなくなり、何となく番組の終末感もあった。ちなみに「ハロモニ@」のナレーションは、平成ノブシコブシの吉村が担当していた。

私はアイドルバラエティが好きなので、ハロモニ中心の話になるが、「モーニング娘。」は、結成当初からある程度までは、「いわゆるアイドル」というくくりではなかったはず。そもそも「モーニングコーヒー」は「夜明けのコーヒー」について歌ったきわどい歌詞だし。
「20周年スペシャル」で、中澤裕子が「アイドルとしての自覚」的なことを言っていたが、彼女自身がいつ頃から自分を「アイドル」だと認識していたのかは、私にはよくわからない。
ただ、四期(石川、吉澤、辻、加護)の加入でアイドル色が強まった(あるいは強めるために入れた?)ということはあると思う。
そんな四期加入の4月に「ハロモニ」も始まっている。このときには、モーニング娘。に、「いったいどんなグループなのか」という共通認識が、送り手にも受け手にも生まれつつあったと思う。
以下に「ハローマゲドン」(ハロプロ内の大人事)について触れたいと思うのだが、それはそのような受け手の共通認識を、この「大人事」が悪い意味でぶち壊したからである。

この「ハローマゲドン」に関し、リアルタイムで思ったことをネット上にずいぶん書き散らかしてきたが、十五年以上が経過した現在から観ると、やはり失敗だったでしょう、と強く思う。

この「大人事」で大きいのは、出来事としては「飯田圭織のタンポポ」の実質上の解体と、プッチモニの解体だったと思う。その後も泡沫的な、一次的なユニットをハロプロは次々と繰り出すことになるが、その場その場での話題をまくだけで、ファンが何十年経っても思い入れを抱くようなユニットはほとんどなかったと言っていい。
逆に、「ハローマゲドン」では手付かずだった「メロン記念日」などの方が、こだわりのあるファンが多い。
アイドルを「一過性のもの」とするのか、何十年経っても愛されるものとするのかで考え方も変わってくるが、この「大人事」に関していまだに恨んでいる人がいるということは、やはり失敗だったと思わざるを得ない。
個人的に「アイドル鑑賞の際、負の感情を持っては意味がない」と思っているので。

そんな中、矢口のミニモニ。卒業と高橋愛の加入は、まあまあうまくいった方だと思う。
私はミニモニ。への思い入れも強いが、ミニモニ。について語ると話がとっちらかるので別の機会にする。ミニモニ。の先進性は十五年以上経過した現在でも、あまり理解されていないこと、「ミニモニ。」というユニットに辻・加護は不可欠だが、辻・加護とイコールではない、ということだけ書いておこう。

話を戻す。ざっくり言えば私が「モーニング娘。」について思い入れを持っていたのは、「ハロモニ」の放送期間とほぼ重なる、と言えそうだ。「ハロモニ」は、グループ内のギスギス感などをいったん棚にあげた、居心地のいいファンシーな空間だった。だからこそ好きだったのだ。
一方、しぶとく「大人の都合に翻弄される、メンバーにとって不条理なグループ」としてのモーニング娘。を取り戻したい、と雑誌やネットに、しつこく書いている人もいた。
おそらくこうした趣向は、現在のAKBグループの総選挙やら何やらの「不条理性」につながっているとは思う。その人たちが、現在、AKBのファンかどうか知らないが。
ただし、AKBについてはファンの多くはその「不条理性」に納得ずくだったのに対し、2000~2006年頃のモーニング娘。に関して、ファンは必ずしもそうではなかった。それは「ハローマゲドン」が後々まで叩かれたことからもわかる。

一方で、私個人はハロプロ全体に「少女くささ」を感じるようになり、それがだんだんうっとうしく感じるようになってきた。同じローティーンでも、後藤真希の異才ぶりや辻・加護、あるいは娘。メンバーではないが松浦のフリークス性と、高橋、紺野、新垣、道重、亀井、田中れいな、久住などの「見た目は少女で、中身も少女」というのは、明らかに違っていた。
これを「後藤や辻加護の方がおかしい」とするか、後々のローティーンでの加入メンバーが凡人だとするかは、意見が分かれるだろう。
私個人は、だんだんと侵食してくる「少女っぽさ」がつまらなく思えてきて、第30弾シングルあたりで、モーニング娘。に対する興味はほぼ完全になくなってしまった。
「アイドル的な居心地の良さ」と「少女性」は、必ずしもイコールではないと思うのだ。

他にも2000~2006年のハロプロに言いたいことはいろいろあるのだが。
たとえば2001年にソロデビューした後藤真希が、ついに松浦亜弥並みの大ヒットを飛ばせなかった点などである。
私自身がソロ歌手としての後藤真希に興味があったのは、2001年のファーストシングルから、2003年11月の「原色GAL 派手に行くべ!」までだったことがネットを調べてわかった。後藤真希は2007年までシングルを出しているが、記憶をたどるとまあ2003年で私が見切ったということになる。
「つんくと後藤真希は合わないのではないか」というのは、リアルタイムでもファンから言われていたことだ。しかしファンがプロデュースに口を出してどうなるものでもなく、まるで沈みゆく船を黙って見ているかのような体験を、私はしたと思っている。

そして、「アイドルプロデュース」について、このとき、一種あきらめのような気持ちを抱いた。ファンが泣こうがわめこうが、特定のアイドルの方向性や楽曲提供などについては、どうにもならないのである。
それは「加入、卒業を前提とする」ということとは、違った感覚だった。あらかじめ「加入、卒業」が決まっているなら仕方がない。しかしどんな楽曲がどんなふうに提供されるか、はまた違う。

そんな感じで、私は2000年代後半には、アイドルに関して興味を失っていったと記憶している。
Perfumeがメジャーデビューするのが2005年、ももいろクローバーがメジャーデビューするのが2010年。私がハロプロに興味を失ってからほぼ入れ替わりに出て来た、という個人的印象である(AKBグループについては、楽曲的な興味は今も昔もない)。

まあ、そんな感じの変遷なのである。

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