「守護神とは、斯くあるものか……まさに人智を超えた超常の存在だ」
彼らの見つめる視線の先には、創薬神術陣と呼ばれる立体神術陣の中に浮かぶ薬神、世俗名ファルマ・ド・メディシスの姿があった。
大神殿の地下施設内の神術実験施設は、神術構造的に安定で、頑健なつくりであることから、合成失敗時に備えた薬神の神薬創造の場として供され、今、彼は創薬神術陣の中で神薬の調合を行っている。
創薬神術陣は幾何学文様に覆いつくされた球体の作用場、その内部でのファルマの存在は、緩く結合する光の粒子のように見える。
その術式がファルマの体を蝕んでゆく代物だというのは、神官たちでなくとも一目瞭然だ。
神域に踏み込んだ彼を卑近から見守っているのは、彼の世俗上の父親。
かつて世界髄一の禁術薬師であった、ブリュノ・ド・メディシスであった。
「体の崩壊が激しい……これ以上は危険なのではないか」
「あのような状態で、苦痛はあるのだろうか」
「ないわけはなかろう」
神術実験施設の晶石隔壁を一枚隔てた隣室から、神薬合成の成否を多くの神官たちが環視し、ファルマの神術を各々が分析していた。
「それでも薬神様は、神薬によってこの世界から悪霊を完全に駆逐したいと仰せだ」
「禁術の完成を急いでおられるのは、サン・フルーヴ帝都が悪霊に襲撃され、御心境に変化があったのだろう」
「隠遁することもできるのに、逃げようともしない。今そこで見ているかりそめの家族や、知己を庇ってのことか……」
高位神官の独白に答えるものはなく、場を沈黙が支配する。
静寂を破って、その場にいたジュリアナが勇気を振り絞ったように答えた。
「誰かが困っていたら、人と人のごく普通の関係として助け合いたいと。そう仰っていました」
「なんだと?」
「本当に純粋で、単純な動機なんです」
ジュリアナはファルマの言葉を思い出しつつ呟く。
「人の心を持っていると、ずっとそう仰っています」
「……自分を人間だと思い込んでいる守護神か。変わり者だな」
「神だと思っておられないので、神術にもご関心が薄いように見受けられました。ですから今回、これほどまでに追い込んで神術を究めておられるのは、相当なお覚悟のうえだと思います」
それを聞いていた神官らは、滑稽だと口では言いながらも、笑うものはなかった。
沈鬱な空気の中、ジュリアナはさらに言葉をつないだ。
「それでいいのでしょうか。私たちが、あのお方様に報いることは何もないのでしょうか。人の世に降りられて、献身的に人を癒し、そして、人の為に御身を傷つけ、最後は歯車に絡め取られ消滅してしまうのでは、人が守護神様を一方的に利用し搾取しているのと変わりません。こんな酷いことってありますか」
ジュリアナは感極まったらしく、はらはらと涙を零し、その場に座り込んだ。
「私は、人の心を解する、強くて優しい薬神様の御世が、この先百年も先年も続けばいいと思います。希望に満ちた優しい世界になると思います。彼を失えばもう二度と、彼のような守護神は現れないでしょう……ですから、彼が私たちを守ってくださるように」
ジュリアナは確固たる口調で神官たちに訴えかけた。
「私たちも、もっとあのお方の存在を大切にしませんか?」
守護神と人間の、長期にわたる共存と、対等な相互扶助。
鎹の歯車の存在を知る高位神官たちには、これまでなかった発想だった。
「そうだな。守護神を守る、考えたこともなかった」
西暦20XX年 5月。
「やあ、中嶋。一年ぶりだ、お前痩せたな」
「いや、それを言うなら薬谷のほうが……ってお前大丈夫か? お前それ絶対人間ドックとかいったほうがいいぞ、不摂生していると若死にするってこともあるんだから」
「まあ、ここのところ立て込んでいて寝てないだけさ。寝れば戻るよ。調子はどう?」
すっかりくたびれた様子の学友に、彼よりもう一回りやつれた薬谷は声をかける。
米国の大学で理論物理学講座の講師となった学友が一時帰国したというので、学食で昼食をともにする約束を取り付けていた。
彼とは、大学のサッカーサークルをしていた時の友人であり、彼の専門は理論宇宙物理学だ。
「やあ、日本のラーメンが懐かしいったら! どんなクソまずいものでも旨く感じるよ」
「もっと美味い店に連れて行けばよかったな。昼から講義が入ってるから」
「わかってるさ」
学食のコシのないラーメンを、涙ぐみつつ嬉しそうに口に詰めながら、中嶋は研究生活や日常を面白おかしく語る。留学前から彼は紙とペンを持ち歩いていて、公園のベンチからトイレの中から、どこででもかまわず数式を書いては論文を書いていたことを覚えている。
薬谷の日常生活もたいがい荒廃していたが、彼も負けず劣らず隠者のようだった。
その会話に刺激を受けながら、薬谷はもそもそと牛丼とサラダを食べていた。
「いやあ、こっちの学生は興味深いよ。物理学徒なのにインテリジェントデザインを信じている学生がいるんだよ。議論をしていると、ナイーブで気を遣うんだわ」
「まあ、信仰を持っていないのなんて、日本人ぐらいのもんじゃないか?」
薬谷は特に驚かず、すました顔で茶をすすっている。
「物理学は神の存在を駆逐してゆくものかと思ったら、逆に居場所を突き止めようとしている連中もいるみたいだ。文化摩擦ってやつかね」
「進化論研究者でも信仰持ってるっていうからな」
大学院で米国に留学中、医学薬学分野の学生でもそういったことは掃いて捨てるほどあった。彼らは信仰を持ちながら、何ら矛盾なく創造論と進化論を両立させ、最先端の科学研究に携わっていた。
「そういう薬谷に信仰はあるかい」
「御多分にもれず、俺も無神論者だからね。サイエンスこそ我が宗旨、残念ながら現代科学は神に居場所を与えないよ。だいたい、生命科学にだって神がつけいる余地なんてないしね」
彼が妹と死別したあの時から、薬谷はいかなる信仰もいだこうという気にはなれなかった。奇跡を起こすのは祈りではなく、膨大な努力と知の集約によってでしかできない。
それが彼の信念だ。しかし中嶋は話を続ける。
「現代宇宙物理学は、まだ宇宙の実像を完全に記載する方法を手に入れていない。そこに神秘を見出している連中もいることはいるんだ」
「へえ、大儀なことだなあ」
薬谷はまいったというように頬杖をする。
「神の非存在性を論じるには、君ら物理学者の目指しているTheory of Everything、万物理論を完成させないといけない。でもそれはたった一つのエレガントな数式になるものかね」
「たった一つでなければ、それは真の姿ではないと思うよ、薬谷。俺は今、この宇宙のすべては、コード化されているのかもしれないと考えているんだ」
中嶋は箸を置き、薬谷にポケットから取り出したスマホを向けた。
「俺たちのほとんどは時間の一次元と、空間の三次元以外を認識することができない。でも高い次元に行けば、できることが増えてゆく。たとえば、このスマホの中で再生されている動画の女優の情報は二次元に圧縮されていて、俺たちがこうやって彼女を見たり、彼女の頬を撫でたりするのに気づかない。動画を逆再生したりしても、一時停止したとしても気づかないだろう。俺たちはある意味、二次元に蓄えられたコードを操作して、下位の次元の時間と空間を操っているのだけれどな」
調子よく語る中嶋を、薬谷は相変わらずだと感心しつつ傾聴しつつ、話の見当をつける。
「情報は空間、次元の表面にたくわえられているコードである。ホログラフィックな宇宙論のことかい? M理論での統一はどうなった」
「まあ、そう一筋縄ではいかないのさ。この宇宙は、はるかに大きくて、はるかに高い空間の中に浮かぶごく一部の空間にすぎない。だから神は案外、目の前で俺たちを見て笑っているかもしれないのさ」
だから、学生が信仰を捨てないのは、少し理解できる気がするんだ、と中嶋は笑う。
「もし、その類の”神”に出会ったら、俺たちは降伏するしかないのか?」
「そうだな。反撃しようと思えばこの画面から手を突き出して、同じ時空でワンパンくらわすしかないさ。無理だろうけどな」
シュッ、と言いながら中嶋はスマホの後ろから薬谷に向けてパンチを放った。
「脱線しまくったな」
薬谷が苦笑していると……
「ファルマ!」
鋭い一声で別世界という現実に引き戻される。
他愛なく笑い飛ばしていたその状況の渦中に、薬谷はファルマ・ド・メディシスとなって直面しているのだ。
ブリュノの声が遠くに聞こえてくる。ファルマはようやく”こちらの世界で”瞳を開いた。
「目を覚ませ! 失敗だ。創薬神術陣を崩壊させるぞ!」
創薬神術陣の中で意識を朦朧とさせたまま、ファルマは胎児のように体を丸めている。
ファルマの腕をつかみ、猛烈な火傷を負いながら掴んで引きずり落とし、ブリュノが術式を破綻させる。
ブリュノが中断しなければ、暴走が始まっていたことだろう。
ブリュノは霊薬調合の呪いのせいでもう神術を使えないが、神薬創造に挑むファルマを、ほぼ無防備の状態で至近距離で見守っていた。
「天類は諦めたほうがいいかもしれんな、お前がもたん」
「父上、御手に火傷を」
「これしき、大したことはない。私に意識を割くな、実体化に集中しろ」
ブリュノの呼びかけにうなづきながら、ファルマは今は存亡も定かではない地球の、遥かなる場所にいる学友に告げる。
(俺は視えない高位の次元に巻き上げられて、そしてその情報と特質を保有したまま、おそらく下位次元であるこの世界に落とされた)
指先に力を込めると、動作がおぼつかない。
(中嶋、俺がいるこの世界は、地球の物理学でどう記載すべきだ?)
そんな疑問を抱いている間にも、ブリュノがファルマの、ファルマ・ド・メディシスとしてのアイデンティティを確認する。
「今日の日付を言ってみろ。お前の名は」
「1148年2月2日、ファルマです」
ファルマは神聖国とブリュノの協力のもと、禁書を読み解き、いくつかの禁術系列の中のうちの最上格、「神薬」の調合を含む禁術を驚異的なスピードで習得していた。
神薬は、天類、宙類、地類という分類があり、天類が最高難易度となる。
神秘原薬の持ち合わせがあるものしか作れないため、ファルマが神聖国とブリュノのコレクションを駆使して現代に顕界させた神薬は以下だ。
▼地類 再誕の神薬。数日間、瀕死者の命をつなぎ止める神薬。
▼地類 爾今の神薬。一日間、肉体が霊体化し不死化する神薬。
○宙類 庇護の露。甘露を受けた者を一定期間回復させ続ける神薬。
とはいえ、一度にできる神薬は多くなく、数人分を賄うだけしかないうえに、すぐに飲まなければ劣化し消滅する。つまり、用事に調製するのが大原則だ。
そして、ファルマは二つの天類神薬に挑んでいた。
△天類 万理の解。あらゆる呪いを無効化する神薬。
△天類 千年聖界。悪霊をこの世から千年駆逐すると言われている。
ファルマがこの世界の崩壊を食い止める切り札となるのは、天類にこそあり、まさに全世界が渇望している能力だった。
しかし、神薬とは、薬神の神体を破壊して神秘の薬として作り替えてゆく術といっても過言ではない。
地類の調合は神体の一部が必要というので、髪の毛を使った。
そのため、今、ファルマの髪はショートヘアになっている。
宙類の調合は血液を必要とし、何度か貧血で倒れたが、モノにした。
そこまではよかったのだが、天類の調合においては、まったく事情が違った。
天類の調合では守護神の神体を崩壊させ、一部を強制的に奪われると禁書に記載があるが、何を取られるのか不明。記載がないのだ。
調合に挑むたびに、ファルマは確かに大切なものを奪われているような気がする。
それが何なのかは特定できていないのだが、何度も試みてよいものではないことはわかる。
たった一度、成功すればそれで事足りるのだ。
ファルマが失敗した点を振り返りながらうつ伏せになったまま悶々としていると、ブリュノはファルマを案じるように言葉をかけた。
「禁術は神々の術、お前が守護神としての力を得ているのなら、それほどの代償なしに扱えると考えていた……だが、天類の調合は想像を絶していた。命にかかわる、諦めた方が賢明だろう」
「ですが、もう少しで掴めそうなんです」
「致死域を攻めるな、こんなことでお前を失うわけにはいかん。体が朽ちてしまう」
創薬神術陣を起動した反動で全身を白光の粒子に覆われ、ファルマは息も絶え絶えに、体の維持と回復にかかりきりだった。
ファルマの体は今、物質とエネルギーの中間の状態にある。
高度な神術は、ファルマの物質としての性質を不安定化させるようだ。
「今日はもう休め」
「いえ、もう一度……」
ブリュノの配慮に、ファルマは応答するので精一杯だ。
「だめだ。集中を欠いている。さっき、うわごとまで言っていたぞ」
「……?」
「ブランシュではない妹と喋っているようだった」
ファルマは参ってしまった。
ブリュノが盗み聞きしたのは、薬谷ちゆ、薬谷完治の妹だった少女の名だ。
「……ああ、そんな夢も見ていたのですね」
「そういわれてみれば、神々の世界では、お前にも本当の家族がいて、生活があったのかと思ってな。まだ子供であったのなら、実の家族のことが恋しかろう」
「……少しご想像とちがいますね。前世の家族は全員他界、私は天涯孤独の薬学者でした。向こうの世界で三十一、こちらの世界で三年。私の実体は三十四歳ですよ。ですから、子供と憐れんでいただかなくて結構です、父上」
「そうか。三十四か。それは子供扱いできんな。私のことは父でよいのか?」
ブリュノは倒れたファルマのそばに座して、相槌をうつ。
ファルマも懐かしい心境で打ち明けてしまった。
「もう、口が勝手にそう呼んでしまいますので」
本当のことを彼らに打ち明けて、随分気が楽になったと思う。
他人であるはずのブリュノやベアトリスの支援も、息子を装わなくてもよくなって、大人と大人としての彼らとの会話は、今はそれとして心地よい。
(おや……)
ファルマは立ち上がろうとして目を見開いた。
(ちゆの顔が、思い出せない。俺の親の顔も)
以前はそんなことはなかった、紛れもなく神薬の調合をはじめてからの変化だ。
そしてふと思いいたる。
天類の調合に挑むことによって奪われているのは、脳の神経細胞。
そこに保持されていた記憶かもしれない。
(仕方がないか……こんなこと、ブリュノさんには言えないな)
ひとつの諦念を、ファルマは静かに受容した。
「とにかく、今日はもう終わりだ、しっかり休みなさい。よいな」
「……はい、父上」
神薬の創造は、ファルマ一人では行わないことを神聖国に約束させられている。
ブリュノは術の成否を見極めて、失敗だと判断した時にはファルマを救出する。
だからブリュノが終わりといえば、その日は終わりなのだ。
大神殿での居室に運ばれたファルマは、神官たちを退出させ、神薬合成で傷ついた体の処置を行っていた。すると、ジュリアナの声が部屋の外から聞こえてくる。
「ファルマ様、失礼いたします」
「あ、今はいらないで、処置してるから。何か話があるならそこから」
「包帯をお持ちしましたので、入室させてください」
「入口に置いといて」
「お手伝いさせてください」
ジュリアナは新しい包帯を持ち込んでくると、ベッドの上で包帯と格闘していたファルマをさりげなく手伝い、肩にきれいにまいてゆく。
「いいよ、一人でできるから」
「私ももと医療枢機神官ですので、神術薬を用いた処置には慣れています。こういう場面でしかお役に立てませんので」
「……じゃあ、ご厚意に甘えるかな」
神術薬を塗った包帯を、ジュリアナは手際よくファルマの全身に巻いて行く。
びっしりと聖句の書かれた包帯は、崩壊をしずめ、回復を促す作用がある。
「傷だらけですね。この神術は神体も傷つくのですか?」
ファルマの半実体化した身体は物理攻撃では傷つけることはできないが、今回は異例のことだ。心配をかけたくなかったファルマは隠していたかったのだが、ジュリアナにはお見通しだったというわけだ。
「仕方ないね、禁術の最上級の術だし、俺の制御が下手だから。途中で意識が飛んで術の維持ができないんだ……情けないところを見せて、皆を不安にさせているよな。俺がしっかりしないといけないのに。不甲斐ないと思っているよ」
ファルマは反省の弁を口にするが、ジュリアナはぷるぷると首をふって否定する。
「ファルマ様は血のにじむ努力をしておられますし、天類神薬の創造は、先代も先々代の薬神様も成功なさらなかったのだと思います」
「まあ、客観的にみればそうだろうね」
彼らが失敗した証拠は、現在悪霊が発生してしまっていることで裏付けられる。
伝承が正しく、もし天類が完成していれば、千年は悪霊を鎮められたはずなのだ。
「迷いや怖れが雑念となっているのかなあ……無心になれてないんだろうな」
前世や、今生への未練もあるだろう。頭の中は煩悩だらけだ、と彼は内省する。
ぽつりと呟くファルマに、ジュリアナはやるせない表情をみせる。
「無心になるなんてそんなの、無理です。もし私が、自分の体を砕いて薬にしないといけないとしたら、きっと怖くて怖くて逃げ出したくなると思います。そんな恐ろしいことに、何度も何度も挑戦なさっているファルマ様は、勇敢だと思います」
「ありがとう、共感してくれて。その気持ちだけで十分だよ」
ファルマは所在なさげにぽりぽりと頬をかいた。
ジュリアナの慰めと励ましは、ファルマのささくれていた心をすっと繕ってくれたように思う。
「きれいに巻けました。お食事をご用意していますが、こちらで召し上がりますか? それとも、会食になさいますか?」
「ここでいただこうかな。ジュリアナさんも、まだ食べてなければ一緒に食べよう」
「かしこまりました」
ジュリアナは包帯を巻き終えると、新しいローブを持ってきてファルマの肩にかける。ファルマはそれをきっちりと着込み、決して包帯が見えないように整えて帯を締めた。
神聖国での守護神としての正式な装いだが、日本の着物のようで着心地がよくそれなりに気に入っている。
「これでよしと」
居室に運ばれてきた食事を、ジュリアナとともにとる。
黒パンとスープと、魚介のパスタ、そしてマンゴーに似たフルーツ。
神官たちは魚こそ食べるが肉食をせず、修行の一環として質素な食事をしているようだが、ファルマは体調や栄養バランスを考えて普通のメニューにしてもらっている。
「神聖国の食事って、魚介が新鮮でおいしいよね。それからこのフルーツも気に入ったよ」
「海が近いですし、果樹園も充実していますから、ファルマ様も今度ぜひ視察にいらしてください。もぎたての果実はとっても瑞々しくておいしいのですよ」
神聖国にあって、顔見知りが少ない中で、以前と変わらず接してくれるジュリアナと話していると、ファルマはつかの間の癒しを感じる。
「さて、満腹になったし、一寝入りして午後にもう一度禁術の復習をするかな」
「あの。もしかして人々を悪霊から守り、聖下の呪いを解くために、神薬の創造を急いでおられるのですか」
「そうだよ。時間がないからね。俺にしかできないことだし、一刻も早く完成させたい」
女帝の融解陣が動き出すまで、もう幾何とない。
悪霊というものが存在するこの世界で、地球の科学だけでは悪霊や墓守という超常には太刀打ちできないのだ。
ファルマが扱う地球の科学が、先人たちの連綿と続いてきた知識の上に成り立ち、巨人の肩の上でなしえるものなら、この世界には別の巨人がいたことになる。
世代を超えて受け継がれてきた神術体系は、原理こそ皆目見当もつかないが、この世界の科学に相当してきたものだろう。
それとあればファルマもまた、この世界のルールにのっとり、この世界の巨人の肩を借りるしかないのだ。
「あの、復習であったとしても、この状態で何かなさると傷が悪化すると思います。そうすれば、禁術の完成はさらに遅れるのではと」
「んーそっかな。わかった。じゃあ、午後からはデスクワークにするよ」
ファルマはジュリアナの提言を受け入れ、一つ息をついて、ベッドに体を横たえる。
ジュリアナは机の上にどっさりと積まれた書類に気づく。
「この資料が、デスクワークですか?」
「そう。定期試験の問題を作るつもり」
「定期試験?」
「大学の定期試験。たくさん受け持ちの講義があるから、余裕もって作らないと。学生たちも戦々恐々としているというから、こちらも手を抜けないよね」
ジュリアナはぷっと噴き出してしまった。
「そうでした。あなたは、守護神であると同時に薬局の店主で、宮廷薬師で、おまけに大学教授でしたね。相変わらず、多忙をきわめておられますね」
「いつか、ただの街の薬師に戻って、平穏に暮らせるといいんだけどね」
そのために、今は全てに全力を尽くしているのだ、とファルマはジュリアナに打ち明ける。彼にとっては、最終目標に到達するために必要な努力らしい。
「ファルマ様のいらっしゃるお店が、ずっと続けばいいと思います」
ジュリアナがそう答えた頃には、彼は静かに寝息をたてていた。