レニ・リーフェンシュタールと住井すゑ

大西 赤人    


 『レニ』(一九九三年度ドイツ・ベルギー合作、脚本・監督=レイ・ミュラー)は、ナチス・ドイツへの協力者という拭いがたい汚名を背負ったあまりにも有名な人物――レニ・リーフェンシュタールを描いたドキュメンタリーである。映画は、ミュラー監督によるレニへのインタビューを軸として、彼女の出演した映画、彼女の監督した作品――ナチス党大会を描いた『意志の勝利』、ベルリン・オリンピックを描いた『オリンピア(民族の祭典・美の祭典)』の一部、あるいは様々な当時のニュース映像などをふんだんに挟み込みながら形作られている。

 レニは、はじめ、ダンサーとしてデビューする。舞台は好評を博していたが、彼女は膝を傷め、ダンサーとしての活動を諦める。その後、彼女は、当時(一九二〇年代~三〇年代)人気監督だったアーノルド・ファンクの映画を見て感動し、彼の作品への出演を願い出る。映画女優としても高い評価を得たレニは、次に自らも作品を手がけるようになる。ファンクの技法を学び、そこに新たな工夫をこらしたレニは、ここでも非凡な才能を発揮する。

 時代は、ナチス・ドイツの興隆期だった(一九三二年、ナチ党は第一党となっている)。
レニは人に誘われてナチスの集会を見に行き、ヒトラーの演説に感銘を受ける。彼女は、その時の自分の気持ちについて、「彼はもしかしたらドイツを救う人物ではないかと思いました」と振り返っているが、自分からヒトラーに手紙を出し、彼との交流が始まる。ここで、レニが自ら能動的にヒトラーとの接触を求めた点は重要である。即ち、少なくとも彼女は、ナチスとの関係を無理やり押し付けられたのではない。

 ナチス宣伝相・ゲッベルスは、ヒトラーや自身とレニとの親しい関係を日記に書き残しているという。インタビュアーのミュラーがその点を訊ねると彼女は否定し、なお彼が食い下がるとついには激昂する。その真実がどうであれ、とにかくレニは、一九三三年のナチス党大会の記録映画製作を依頼される。この短編『信念の勝利』は、彼女の編集作品とされているが、レニは「映画ではなく感光した物質にすぎなかった」と唾棄し、自らの関わった作品として認めようとはしない。そして、翌年のニュルンベルク党大会に当たって彼女は改めて撮影の全権を掌握し、莫大な経費を使いこなし、『意志の勝利を』作り上げる。

 この作品は、本編中に紹介される僅かな一部分によってさえ、実に躍動的で観る者に訴えかける画面の連なりであることが判る。レニ自身も、『意志の勝利』に盛り込んだ“技術”の高さに今でも確信を抱いている。映像を見ながら様々な手法について語る彼女の表情は、単純に楽しげで活き活きとしている。一方、映画の持つ政治的意味についてはほとんど興味がないらしい。たとえば、ヒトラーの演説のどこを生かし、どこを切るか、彼女は「効果と表現」で決め、「政治的テーマとは無関係」と言い切る。また、「あれはある催しとして撮っただけなのです。必要ならモスクワでも撮ったでしょう。あるいはアメリカでも。こういった催しがあったら同じ事です。(略)テーマが政治でなくても野菜でも果実でも同じです」とも「全身で創作に没頭している芸術家は、物事を政治的には考えられません。偉大な創作をした芸術家はみなそうでした」とも語る。そして、「ナチ賛美」との非難に対する感想をミュラーに求められた彼女は、「そう言う人は自分であの映画を作ってみればいいのよ。従来のようなニュース映画を作るか、同じ材料でもっと魅力的な映画にするか、いずれしかないのです」と平然と応じる。

 要するに、ここでは問答はすれ違っている。レニを責める者は、まさにテーマが政治でも野菜でも果実でもいいという彼女の姿勢を、物事を政治的には考えられないと闡明する彼女の在り方を批判するのだ。ところがレニは、「メディアに関わると政治に関心を持つべきでは?」という問いにも、「あの雰囲気の中で? 皆熱狂していたんですよ」と自己の責任性を否定する。彼女は、映画を――素晴らしい映像を作り出すことにのみ熱中していたという理屈なのだろう。

 このようなレニの心情は、一九三六年に開かれたベルリン・オリンピックを描いた『オリンピア((民族の祭典・美の祭典)』においても変わりがない。彼女は、宣伝省の後押しにより、ほぼ無制限に金をかけることが出来た。彼女の言わば“映像の魔術“は、たとえば、ギリシャ彫刻が生身の人間にオーヴァー・ラップするイメージ・シーンに顕著だ。ここには、当時の撮影現場の様子を伝える映像が挟み込まれている。半裸の青年が浜辺で槍を持ち、寒そうに・貧相に走り出す。ところが、それがレニによって巧みなアングルを付与され、高速度撮影を通じてスクリーンに定着すると、平凡な青年が一変し、まさにギリシャの勇者そのままに力感と生命感に溢れて見えるのだ。

 彼女は、ヒトラーは「この映画作りを喜んでいなかった」と回想する。なぜなら、「黒人が勝って彼が喜ぶでしょうか? 種々の民族を見て喜んだでしょうか?」というわけである(もっとも、画面に登場する競技場のヒトラーは、楽しげに見えるが)。たしかに、『オリンピア』には、ことさらドイツの優越性だけを強調するような気配はない。アメリカの英雄的存在だった黒人選手・オーエンスをはじめ、各国の選手が、しかも極めて並列的に捉えられている。むしろ、『もっとドイツ中心ではなかったのか』と裏切られるぐらいだ。

 戦後、レニは厳しい審査を受け、ナチ政権支持や政治活動は行なっていないと認められて「職業禁止」処分こそ免れたもの、ナチの「同調者」と判定され、以後、一本の映画も作ることは出来なかった。それでも、七十歳を越えてから、アフリカ奥地の原住民を撮した写真集『ヌバ』を出版。その後も、深海の生物を捉えた写真集『珊瑚の庭』や『水中の驚異』によって高い評価を得て、九十歳を越えた今でも活躍を続けている。けれども、『意志の勝利』の上映は未だにタブーであるし、『ヌバ』についても、好評と同時に、そこに撮し取られた原初的な肉体崇拝や力強さの礼讃が、ファシズムにつながる「レニ美学」として批判を受けてもいる。

 彼女は、『意志の勝利』について、「自慢どころか、死ぬほど不幸になりました。結果を知っていたら絶対に作らなかったでしょう」と述べるが、他方、ナチスの犯罪が明らかになった(それを知った)後も、自作に対する見方は変わらないと言い切る。本編の最後の場面では、レニは、「世間は〈罪を認めよ〉と言いたいのでしょうか?」というミュラーの質問に対して、「一体どう考えたらいいのです? どこに私の罪が?」と反問し、「反ユダヤ的だったことはないし、だから入党もしなかった。言って下さい、どこに私の罪が? 私は原爆も落とさず、誰をも排斥もしなかった」と訴えかけている。多分、彼女は、一人の映画作家として、良質の映像を作り出したことの何が悪いのか、本当に理解しがたいのかもしれない。

 レニの言葉には、自己合理化や自己弁護、そのための事実の歪曲がないとは言えまい。そもそも彼女の側からヒトラーに惹かれたという経緯を踏まえれば、ナチスがレニを利用しただけではなく、彼女も大なり小なり――無批判に――その機会に乗じたと見做さざるを得ない。ただ、ここまで彼女を徹底的に忌避しつづけること、彼女の芸術観・美意識をことさらファシズムに結び付けることが正当かとなると疑問であり、レニもナチスによる被害者の一人という印象を受ける。しかしながら、同時に、幾分の過剰反応とさえ感じられるほどに自国(民)の誤った過去をそれほど厳しく見据えつづけるドイツ人の精神には関心させられる。

 ところで、この『レニ』を見ていて必然的に想い起こしたのは、雑誌『Ronza』(発行・朝日新聞社)の95年8月号のことである。同誌は、「戦後50年 文筆者、出版・新聞の戦争責任」と銘打ち、“表現者の戦争責任”に関する特集を組んでいた。計六本の文章中で、主たる柱となっていたのは、内容的にも分量的にも、櫻本富雄による「住井すゑにみる『反戦』の虚構」だった(他の五本のうち、一本は、住井へのインタビューを改めて行なった同誌編集者の感想記であり、残る四本は、櫻本論文と同格で掲載されているにもかかわらず、そのうちの少なくとも三本は、明らかに書き手が櫻本論文に眼を通してから書かれたものと考えられる)。偶然にも、リーフェンシュタールと住井は、同じ一九〇二年の生まれである。

 さて、「天皇に生命を捧げることが生きがいの軍国少年」だったという一九三三年生まれの櫻本は、敗戦直後から、なぜ自分がそういう「軍国少年」になってしまったのかを究明したくて、戦時中の諸雑誌や単行本を集めたという。まあ、「軍国少年」となった責任――原因(?)――が総て雑誌や本に帰せられるわけでもあるまいが、とにかく櫻本は、戦争中、「身近にあった雑誌を手当たりしだいに読んでい」るうちに、住井による戦意高揚的・時局迎合的な子供向き短編や随筆を何本も読んだのだそうだ。そんな彼は、『橋のない川』を大看板に「反戦」「反骨」の作家として近年ますます名声を高めている住井に対して、違和感を抱く。そこで櫻本は、老作家を訪ね、彼女が戦時中に書いた文章への現時点からの想いを訊ねる。今回の論文は、その一九九四年四月に行なわれたインタビューを基に綴られている。

 櫻本の書き方は、少しいやらしい。たとえば、戦時中の住井について、はじめは「私にとっての住井の記憶は、北原白秋、高村光太郎、吉川英治らのようなインパクトを残さずに敗戦とともにいつしか希薄なものとなっていた」と記しながら、後になると、住井作品の一節を別々の小説から三ヵ所も引用して「かつて読み、少国民の魂が強く揺さぶられたいくつかの会話」と書いたり、本人に向かって、「少国民だった私は、先生の作品を読んで感動しました」と言ったりする。住井を称える折々の新聞記事に触発されて、彼女に対する検証の必要を次第に深めたという経緯説明などにも幾分の矛盾が感じられる。

 とはいえ、そういう櫻本側の瑕疵を吹き飛ばしてしまうぐらい、戦争中の住井の文章、及び、一九九四年時点における彼女の弁明(?)はすさまじい。前者については、リーフェンシュタールの『意志の勝利』が未だに強烈なインパクトを発揮するのと較べれば、まさに凡庸なる戦意高揚・時局迎合のための文章に過ぎまい。しかし、とにかくそれらは、数十年後になって「権力にだまされないよう、民衆の側が一生懸命学ばなければいけない」(『読売新聞』より)「国家があるから橋のない川がある。でも、国家の解体は、近い」(『朝日新聞』より)などと語る作家の残したものとしては何とも恥ずかしい代物だ。
 後者については、櫻本との応答の一部を書き写せば十分であろう。

「何書いたか、みんな忘れましたね」
「自分の書いたもので持っているのは、『橋のない川』だけです。これは私の作品だから。
あと書いたものは文筆業で書いているんだから、必ずしも自分の本音を書いたものばかりじゃないから、見るのも嫌ですね」

(「戦時下の自己の文章表現の責任」を問われて)
「書いたこともないし、そういう質問を受けたこともないわね。みんな、生活のために書いてたんだってことを知っていたから。生活のためには、あらゆる思想も得るし、身柄まで売る人もあるんだから」
「いまだから、そういう批判ができるが、あの戦時中の、あの空気の中で、十人が十人とも自分の人間性を貫けるということは無理な話ですよ。そんなもんじゃなかった」
「ものを書く人間は細工する人と同じだから、細工がうまくできたかに気を配っても、それがどう使われるかなんて関心がない」
「みんな、その当時の作家は職人ですね。誰も芸術家であるなんて考えは持ち得なかったですよね。そんなふうに認められちゃいないんだから。職人として頼まれて、みな書いてたわけですよね」

 これらの住井の言葉は、全くデタラメではあるまい。そこには真実の一端が含まれてはいることだろう。けれども、こうまで平然と開き直られては唖然とさせられる。リーフェンシュタールにも、自己の責任を回避・否定しようとする趣旨で同様の発言があったとはいえ、住井ほどに露骨ではなかった。今回、『Ronza』編集部との間で行なわれたインタビュー(「書くことの喜びと責任と」編集部・伊藤景子)においても、住井の口調は、怯むどころか一層勢いづいているかのようだ。

「……文筆業、だよね。生活のため、そのとき、そのときの都合に合わせて書く。そら、正直なところです。国家権力には盾突ききれないですよね。だれが私を援護してくれるんですか。だれ一人援護のなかった私一人の責任だけを追及する世間のほうが間違っている、と言いたくなる」

 (翼賛的な作品を書いている時期、つらいものがあったのでは、と訊かれて――)
「商売人ですから、何もないですね。原稿料もらって書く仕事は商品です」
「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ。文筆業と運動は違う」
「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない。文学は宗教と違って、
他人を救済するのが目的じゃない」
「戦前も戦後も私は全力投球してる。でもあの時代はね、作家なんて文字の職人だ、と割り切らないと生きていけない。腹立てていたら、自殺するよりないわね」

 (自殺した人間が居たら、それは「ばか」か、と訊かれて――)
「ばかではない。でも、正直すぎて生存競争に敗北するしかないわね。人間としては宝だけど」

 住井すゑという存在は、これまで僕の中で格別の重みを持つものではなく、彼女のこれらの言葉を眼にした結果、大いに認識を改めたとはいえ、同時に、衝撃というよりはどこかしら「そんなものか」とでもいう具合に納得してしまう幾分冷めた気持ちだった。むしろ僕が驚かされたのは、この特集に対する――旧来のいわゆる進歩的・革新的陣営に属していたと目される人々による――批判的論調だった。たとえば、岸本重陳は、七月二十七日付『東京新聞』夕刊の「論壇時評」で次のように書いている。

「彼女が戦後一貫して反戦の立場で『闘って』きたことを、どうして否定しなければならないのだろうか」
(同特集の 秀実「『歴史』を捏造する戦後日本」に触れて――)
「彼は、住井が戦時下の『戦争賛美』活動を現在も隠蔽していることは、『橋のない川』における『「歴史」の捏造と、深く通底している』と指摘するのである。
 しかし、私は『通底している』という論理に賛成ではない。そんなことを言い出せば、個々人のすべての言動は、どんなに矛盾していようとどこかで『通底している』わけで、何かに起因せしめることが可能だろう。
 それはともかく、「Ronza」はなぜ、『文筆者、出版・新聞の戦争責任』のテーマの下で、文壇的権力さえ持たない九十三歳の老嫗にスポット・ライトを当てるのか。私には解せない。彼女が人生を振り返り『反戦で一貫してきた』と胸を張ってみせたことが、『駄ボラ』( 氏)であったって、それが何だと言うのだろう。いま問いただすべき戦争責任は、そんなこととは全く別の次元にあるのではないか」

 そうして岸本は、日本において“国防”や“自衛”の主張が高まる風潮に懸念を示し、「戦後言論の流れを現在まで追いつつ、『次の戦争への戦争責任』の観点から点検することこそが必要なのだ」と述べる。この部分の岸本の見解自体は誤ってはいないとしても、だから『Ronza』の住井追及が無意味というのはおかしく、それこそ「私には解せない」し、もし住井の「反戦で一貫してきた」という自負が「駄ボラ」だったなら、孫子相手の自慢話ならまだしも、世の中を相手にしての表現者としては失格のはずであり、「それが何だと言うのだろう」という岸本の言い方は、時評者としてまるで投げやりだ。「通底している」を巡る岸本の(住井)免罪の理屈にしても、どうしてここまで住井をかばうのか不思議になる。

 ところが、続いて『金曜日』九月十五日号でも、戦争文学を追いつづけている文芸評論家・高崎隆治が「いま、なぜ住井すゑなのか」と題して『Ronza』特集に疑問を呈している。高崎は、「なぜインタビューでなければならないのかは私にはわからない」とし、「まだペンを握る意欲があるといっても、九〇歳を超えた人に、長時間詰問を繰り返すのは常識を欠いている」と批判する。インタビューをするのなら、なぜ十年前、二十年前に行なわなかったのか、「高齢者へのインタビューは、少くとも『現在』の問題を除いて、その言質を無条件に『証言』として採ることは危険」というのだ。高崎には、『レニ』を見てほしいと思う。既に触れた通り、リーフェンシュタールと住井は同い年である。もちろん、高齢ゆえの記憶の混乱も、引いては意図的な粉飾も起こり得るだろうが、それにしても、本人が話を拒んでいない以上、ただ高齢を理由にその「証言」の意味を疑問視するなんて、真のいたわりではなく侮辱ではないだろうか?

 高崎は、先に僕も触れたような櫻本の詐術めいた聞き方をも指摘しつつ、「このインタビューに、住井以外の同時代の女性作家の名は一度も登場しないのだが、それもまた不思議なことといわざるをえないだろう」と述べ、「私は、住井すゑの作品を戦争下に読んだ記憶はない」とする。つまり彼は、「住井すゑの弁護」をするつもりはないけれども、「『橋のない川』によって、彼女自身がその過去を乗り越えた」と判断していて、結論的に次のように記す。

「私にいわせれば、戦時下の自身について、住井のように、黙っているほうがむしろ正直であると思われる場合はけっして少くないのである。つまり、戦時下の自身の言動をみずからが引き受けるという意味の沈黙である。それは作家の戦後の在りようによって明瞭であるはずだし、私自身は、住井もそして壺井栄もその一人だという判断をもっているのだが、戦時下の自身について語ることより、むしろ沈黙を守るほうが誠実であるし、まだマシであるといったら言い過ぎであろうか」

 そして高崎は、「ことわっておくが、これは佐多稲子を非難する目的で引用したのではない」としながら、佐多の戦争下と戦後の大きく異なった文章を示した上で、住井について、「同質の多数の中から特定の『一人だけ』を標的にするのは、質問者にその意図のあるなしにかかわりなく、いじめ以外のなにものでもない」と言い切っている。

 僕には、この高崎の判断はよく判らない。“戦時下の自身について黙っている・戦時下の自身の言動をみずからが引き受ける”とは、当時の自己(の文章)が誤りであったと認識するのならば、後年になって自己弁護・自己合理化に走るのではなく、黙って批判を受け止めるという意味のはずではあるまいか? 「文筆業」だ、「職人」だ、「商売人」だ、と言い募り、「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りません」と言明する住井を「沈黙を守るほうが誠実」と評価する必要があるのか?

 これらの住井擁護――この言い方がそれぞれの筆者に不本意ならば、『Ronza』批判と言い換えてもよろしいが――を見ていると、「困った時はお互い様」ないし「明日は我が身」的な悪しき“助け合い精神”を感じる。レニ・リーフェンシュタールは、自らの作品を「商品」などと言いはしなかった。自らを「職人」と卑下することで責任を回避しようともしなかった。彼女は芸術家としての自負を持ち、力を注いだ。しかもレニは、その才能をいち早く・しかも十二分に開かせてしまったために、後になって何もしていなかったフリをする事さえ出来なかったことになる。もっとも、そのような卑下や責任回避を伴わない――言わば芸術至上的な――創造の力が、本来なら相容れない・相容れるべきでないはずの悪の力と表象として結託してしまうという歴史上の現実は、なお一段と深刻に恐ろしい話である。
(96年1月刊・『社会評論』101号)


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