ゲームは、現代を代表する表現形式である。疑うならば、電車に乗れば良い。子どもも大人も、スマホを開き、ゲームに興じている。
これだけの大勢が日常的に接しているメディアである。人々の感性や認識に影響を与えないわけはない。しかし、そうであるにも関わらず、これまで、批評・研究は、正当な目を注いで来なかった。その理由は、人類が手に入れた新しい表現形式・メディア・芸術であるゲームの正当な価値を見誤ってきたからでもあるし、既存の方法論ではゲームを論じることが困難であった、という理由にも拠るだろう。
ゲームは、少なくとも映画が払われてきたのと同じぐらいには、注目され、論じられてしかるべき表現である。映画も生まれてまだ一〇〇年ちょっとしか経っていない新しいメディアであり表現形式であり、最初は単なる見世物であり神経を刺激するだけのものと考えられてきたが、二〇世紀における映画・映像が、単なる娯楽に留まらず、人々の世界認識や人間観や政治状況にすら絶大な影響を及ぼしてきたことは言うまでもないし、多くの思想家や批評家、芸術家たちは、まだまだ初期の映画の段階から注目し、そのポテンシャルを論じてきた。今では映画を語る批評や学問は「正統」なものと感じられるはずだ。
「ゲーム」の中で開発されているものを分析することは、ぼくらの未来を占うことにも繋がってくる
同じようにゲームも語られなければならない。なぜならば、二〇世紀が「映像の世紀」であったならば、二一世紀は、少なくとも序盤は「インタラクティヴ・メディアの世紀」として始まったからだ。こちらが何かをすれば、何かの反応を返すというのは、スマホのタッチパネルやインターネットなどで当たり前のことになったが、一般家庭ではゲーム機が導入されるまで、画面の向こうとリアルタイムのやりとりをする体験は非常に稀であった。このことが感性・認識に及ぼす断層は非常に大きいと考えられる。
レフ・マノヴィッチが「ニューメディアの言語」で注意を促しているように、デジタルで作られた虚構空間、特に3Dのそれをメディアとして扱えるようになったのも、人類史上初である。これら、コンピュータ、インターネット、スマホらを指し「インタラクティヴ・メディア」と総称するが、これらが齎す変動を捉えるためには、その代表的なメディアであるゲームを分析することが近道の一つであろう。
デジタルゲーム、あるいは、コンピューターゲームは、特に娯楽性や芸術性(つまり、それ自体が目的となるもの、という意味で)を深く追求するジャンルであるという特性を持っている。ゲームが先行して探究した技術――たとえば、「ハマらせる」とか「エフェクト」だとか――が、その後、SNSなどの「ゲーム」としては認識されていないものに実装されていることから鑑みると、先駆的・先端的に「ゲーム」の中で開発されているものを分析することは、ぼくらの未来を占うことにも繋がってくるはずだ。
戦後日本サブカルチャー史への位置づけ
SF小説が売れない時代が続いたが、私見では、その時期にSFはゲームにおいてこそ輝いていた。
なぜ「SF」かと言えば、ゲームというメディアは、戦後の日本を代表する娯楽・芸術のジャンルである「SF」を引き継いだときに、最も魅力を発揮していたと思うからだ。九〇年代に日本SFは「冬の時代」と呼ばれる、SF小説が売れない時代が続いたが、私見では、その時期にSFはゲームにおいてこそ輝いていた。「クロノ・トリガー」(1995)、「バイオハザード」(1996)、「ファイナルファンタジーⅦ」(1997)、「ゼノギアス」(1998)、「メタルギアソリッド」など、世界的な評価が高く、売り上げもミリオンを超えるような傑作SFゲームが次々と出ているのだ。SF界がこれを評価できなかったのは、単なる怠慢である(余談であるが、筆者が日本SF作家クラブ会員であったときに、日本SF大賞をゲームが受賞できないのは問題ではないかと思い、事情を調べたりシステムの改善を提案したが、世代的な問題で「そもそもゲームをプレイできない」という原因が横たわっていた。これは深刻な断絶である、と以前から懸念を抱いてきた)。
「冬の時代」を経て、SFはゼロ年代以降、復活を遂げた。ゼロ年代においては〈リアル・フィクション〉と呼ばれる、ゲームなどの影響を受けた(あるいは、ゲームに関わっている)作家達の作品が脚光を浴びた。
具体的には直木賞候補作家である「マルドゥック・スクランブル」の冲方丁(「カオス レギオン」でカプコンとコラボレーション)、今は純文学作家として活躍する海猫沢めろん(小説「左巻き式ラストリゾート」の原作となるノベルゲーム「ぷに☆ふご~」の制作)、ゲーム的なループ感覚を扱った「All you need is kill」がハリウッドで映画化された桜坂洋(オンラインの格闘ゲームを扱った「スラム・オンライン」という作品がある)、プレイバイメールゲームのマスターであった新城カズマ、ノベルゲーム「未来にキスを」などで知られる元長柾木らの活躍が挙げられる。
そしてその延長線上に、伊藤計劃という、数十万部を売り抜けるスターが誕生する。「メタルギア」の小島秀夫監督を敬愛し、「スナッチャー」などの影響を受けた彼は、ゲームの内容と、ゲーム的な感覚、リアリティなどを小説内に表現した「虐殺器官」「ハーモニー」などでSF界、国内に限らない多大なる成功を収める。国外ではフィリップ・K・ディック賞の特別賞を受賞し、作品は「文学作品」として扱われ研究の対象にもなっている。
まずは「SF史」の中に、評価されるべき素晴らしきゲームたちを配置していくことにしたい
しかしながら、伊藤計劃が影響を受けた小島秀夫の「メタルギアソリッド」、特に「4」は――ぼくには、「メタルギアソリッド4」は、SF史のみならず、現代におけるあらゆる表現物の中での最高級の達成の一つのように思えるが――同様の扱いを受けているとは言いがたい。単純に、ゲームというメディアと、小説というメディアの形式上の差から、「ゲームは論じるべきものではない」という偏見があるのか、あるいは、単にプレイできないのか、正確な理由は分からないが、「内容的には連続して考え、評価するべきもの」に、不必要な断絶が走っているのだ。その結果、正当に評価されるべき、ゲーム作品の内容が隠蔽され、不当に搾取されているとすら思えてくるのだ。これでは非常に優れた現代の芸術であるゲームに対して不当であるし、現代の文化現象を考えようとする学術・評論のパースペクティヴにも歪みをもたらす。それはもったいない。
というわけで、ゲームを正当に位置づけ、評価するための端緒として、まずは「SF史」の中に、評価されるべき素晴らしきゲームたちを配置していくことにしたいのだ。この試みが成功すれば、同様にして、他の領域においても、ゲームを正当に評価し、新しい文化・芸術の像を得るパースペクティヴは作りうるはずである。ゲーム・SFを一つの焦点としながら、純文学やハリウッド映画を含む様々な文化・芸術の領域で成功を収めた作家達の存在が、この試みを正当化してくれるはずである。
具体的に取り上げようと思っているのは……
「クロノ・トリガー」
「ゼノギアス」
「MGS」シリーズ
「ニーア・レプリカント」「ニーア・オートマタ」
「FF7」
「Deus ex」シリーズ
「STALKER」シリーズ
「バイオショック」シリーズ
「バイオハザード」シリーズ
「FALLOUT」シリーズ
「ファーレンハイト」「Beyond two souls」「Detroit become human」
「Stanley parable」
などなどである。
皆様から「あれも重要だぞ!」という作品をご教示いただければ、その作品もぜひ積極的に触れていってみたい。