2018-02-11
フェミニズムが「男並み平等」を求めるものでなくなった理由
はじめに
先日、広辞苑の「フェミニズム」の項目が新しくなったというニュースがありました。以前は「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動。女性解放思想。女権拡張論」という説明だったのが、最新の第7版では「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動。女性解放思想。女権拡張論。」という説明になったそうです。「男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする」が「性差別からの解放と両性の平等とを目指す」に変わっています。「平等」という文言が入ったのは、明日少女隊というグループの活動の成果であり、敬意を表したいと思います。
けれど個人的には、「平等」という言葉が入ることでフェミニズムのイメージが変わるかというと、必ずしもそんなことないのではないかという気もしています。確かに「女権拡張」などは悪いイメージを持たれやすい言葉かもしれませんが、それは結局「女権拡張」という表現が何を意味しているのかについて共通の了解がないということでしょう。そしてそのことは、実は「平等」という表現についても同じようにあてはまります*1。いったい「平等」ということで私たちは具体的にどんな状態をイメージしたらよいのか、このこと自体、フェミニズムにとっては難しい問いであり続けてきたし、今でもそうだと思うのです。
この点、フェミニズムはさまざまに展開している思想なので、「平等とはどういうことか」について、フェミニズムを代表するようなひとつの説明があるようには思えません。けれど、「平等とはどういうことではないか」については、おおむね「合意事項」といってよさそうなことがあります。それは、フェミニズムは「男並み平等」を求めるものではない、という考えです。ここでは、この考えがどのように出てきた、どういうものなのかについて簡単に説明することで、「平等」とは何かという問題が今でも解決済みではなく、私たちが考えるべき課題であり続けているということを述べてみたいと思います。
なお、字が小さくなっている次の節は、なんでこんなことを書こうと思ったかというローカルなコンテクストなので、twitterでのやりとりを見ていた方以外は飛ばしてくださって構いません。直接次々節の「平等か差異か」に進んでください。
「人権を求めるのに性別は関係ない」?
ネットに溢れるフェミニズム批判をウォッチするという不健全な趣味を持っていると色々なフェミニズム批判を目にするのですが、つい最近、「フェミニズムというのは他称なので、フェミニストを自称する人は皆間違っている」という主張を見かけました。
https://togetter.com/li/1194426
https://togetter.com/li/1195391
https://togetter.com/li/1196176
正直何を言っているのかよくわからないところも多いのですが、どうやら「フェミニズムの起源はフランス革命後に女性に権利が与えられなかったことに憤った人たちの思想・運動であり、それは性別にかかわりない人権を求める思想・運動なのだから、「フェミ」ニズムを自称して「女性の」権利を求めるなどというのは起源の精神を踏みにじっている」という主張のようです。
この主張自体がおかしなことは比較的明白です。仮に(学術的な細かな議論はさしあたり無視して)フェミニズムの起源を「性別にかかわりなく人権を求める思想・運動」だとまとめるとしましょう。そして、そこから200年さまざまに展開したフェミニズム思想が、起源とは違ったものになっているとしましょう。しかしこれらのことを認めても、そこから「起源の思想のほうが正しい」という主張は導けません。カレーライスの起源がインドの煮込み料理にあるからといって、「インド料理のレシピに従っていないのに「カレー」ライスを自称するのは間違いだ」という人がいたら私たちは偏屈な人だなと思うのではないでしょうか。カレーライスはカレーライスという料理として私たちの食文化に根付いており、そこで重要なのは私たちが日々レシピを工夫しながらそれを美味しく楽しんでいるという事実だからです。「起源に帰れ」ということに意味があるとしたら、元のレシピから逸脱することで味が不味くなったり、食文化が貧困になってしまっているような問題がある場合でしょう。同様に、仮に現代のフェミニズムが「起源」とは異なるものになっていたとしても、そのことはそれ自体で問題があると言えることではありません。だから「起源に帰れ」というのであれば、起源から逸れることでどんな問題が生じているのかを、現在の私たちが生きる人権文化に照らして具体的に語ることができなければならないのです(が、上の「自称フェミニズム批判」では「自称」への非難以外には具体的なことが何も語られません)。
さて、「フェミニズムは自称するものではない」のようなおかしな主張はさておき、「人権を求めるのに性別は関係ない」と言われると、ひょっとすると「そうかも?」と思う人がいるかもしれません。特にフェミニズムはその歴史の中で、非白人フェミニストやセクシュアル・マイノリティの運動からの批判を受けてきたところもあるので、そうした歴史を知っている真面目な人ほど「女性の問題を中心に考えるのは視野が狭いのでは」と不安になってしまうかもしれません。
この短い文章の目的は、「別にそんなことないよ」ということ、すなわちフェミニズムにとって性別が関係なくなることはないし、それにはもっともな理由があるし、そしてそのことは他のさまざまなマイノリティ問題との関係を考える上でも重要だと思うよ、ということを、「フェミニズムは男並み平等を求めるものではない」ということの意味から考えておくことです。
平等か差異か
一般的に、フェミニズムは第一波フェミニズムと第二波フェミニズムに分けられます。「第三波」のようなそれ以降の区分も最近は用いられることがありますが、分類の基準が少し違うのでここでは置いておきます。
第一波フェミニズムは、大まかにいえば19世紀後半から起こった女性参政権獲得運動を指します。アメリカでは1869年にエリザベス・スタントンらが全国女性参政権協会という組織を作りました。イギリスでは1897年にミリセント・フォーセットらが女性参政権協会全国連合を、1903年にエメリン・パンクハーストらが女性社会政治連合を組織しています。後者は最近の映画「サフラジェット(邦題:未来を花束にして)」
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で描かれていましたね。
それに対して第二波フェミズムというのは、1960年代中頃から起こったさまざまな女性解放運動の総称です。リベラル・フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズムなど思想的特徴によっていくつかに区別され、主張の中身も第一波のようにおおまかにひとつにまとめることができない多様性を持っています。
さて、「フェミニズムは男並み平等を求めるものではない」という考えは、第二波以降のフェミニズム(特にラディカル・フェミニズムやマルクス主義フェミニズム)の中で登場します。この主張は、「男並み平等」を求めるようなフェミニズムの困難を指摘するものなので、「男並み平等」を求めるようなフェミニズムがどのようなもので、そこにどんな困難があるのかを考えてみると、その主張の意味がわかりやすくなるでしょう。
「リベラルな」フェミニズム
「男並み平等」を求めるというのは、要するに「男だけが持っているものを女にも渡すことで女を男と対等な位置に置け」と要求することです。そして「男並み平等」を求めるフェミニズムということで想定されているのは、第一波フェミニズムと、第二波フェミニズムの中のリベラル・フェミニズムです。女性参政権獲得運動が「男性が持っている権利を女性にも」という運動だというのはわかりやすいと思います。ではリベラル・フェミニズムはどうでしょうか。
リベラル・フェミニズムのはしりは、専業主婦として夫と子どもの世話をする一見「幸せ」な家庭生活の中で、「女らしさ」に閉じ込められていた白人中産階級の主婦の憂鬱を描いてベストセラーとなったベティ・フリーダンの『フェミニン・ミスティーク(邦題:新しい女性の想像)』です。
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フリーダンは1966年にできた全米女性機構(NOW)という組織の初代代表となります。NOWはまたたくまに会員を増やし、女性を家庭から解放し、政治・雇用・教育といった公的領域における平等な権利を求める運動をおこなっていきました。
こうしたリベラル・フェミニズムの運動は、基本的には、政治や経済という公的領域に女性も対等に参加できるように、というものでした。その意味で、それまで男性が持っていた「公的領域において平等に扱われる権利」を女性にも与え、それによって女性も公的領域で男性がそうであるのと同じように活躍できることを求める、という「男並み平等」を求める思想・運動だったと考えられます*2。
「等しきものは等しく」?
では、こうした考え方はどこに問題があるのでしょうか。このことは「そもそも公的領域における平等(女性参政権や雇用の平等)をどんな理由で要求することができるか」について、ちょっと真面目に考えてみるとわかります。ここで「理由なんて『同じ人間だから』で十分でしょう」と思った方、ちょっと考えが甘いです。「平等」というのは簡単に言えば「等しいものは等しく扱いましょう」という考えなので、等しくないものに差をつけることは必ずしも不平等にはなりません。試験の点数が80点の学生が合格になるのに60点の学生が不合格になることや、時給1000円のアルバイトで8時間働いた人が8000円もらえるのに5時間働いた人が5000円しかもらえないのは「不平等」だとは言われませんよね。それは、差をつけるかどうかという点で考慮すべき対象が「等しくない」からです。
では「参政権」はどうでしょうか。今の私たちが「性別関係なく参政権があるのが平等」だと思うのは、「政治に携わる」という観点から見て男女に差が無いという考えをもっているからです。けれど、女性に参政権がなかった時代、多くの人はそう考えていませんでした。「女性の本分は家庭での家事育児にある」「女性は本来慎み深い存在なので政治には向かない」、そう言われていました。だから、女性に参政権がないことは、等しくないものに差をつけることであり、不平等だとは考えられなかったのです。この状況で「女性にも参政権を」というのはとても大変です。だから第一波フェミニズムの中では、参政権や教育の権利を求めるのに「女性のもつ母性こそが政治には必要」「良き母となるために女性には教育が必要」という言い方もしばしばされたのでした。
同様の問題は、リベラル・フェミニズムが求めた「雇用の平等」にもつきまといます。「女性も男性と同じように働く権利がある」といえるためには「働くという観点から見て男女には差が無い」という考えが必要です。けれど、多くの女性には妊娠・出産というライフイベントがあるのは事実です。だから少なくともその点に限れば、文字どおりの意味で「男性と同じように働く」ことは、多くの女性にはできません。そうすると「女性は妊娠・出産で休業したり離職したりするから雇用しない」「休業保険から妊娠による休業は外す」といったことを「不平等だ」と言うことが難しくなってしまいます(ちなみに今でも「女性は出産するので完全な平等は無理だと思う」というコメントを書いてくる学生、たくさんいます。たいてい男子学生です)。
「男並み平等」から「公私二元論の批判」へ
ここでフェミニズムは難しい立場に立たされます。平等を要求するには「差が無い」と言わなければなりませんが、結局のところ男女に身体の違いがあるのは事実です。けれど「違いがある」と認めれば「差をつける」ことも認めざるを得ないように思われます。いったいどうしたらよいのでしょうか。
フェミニズムの中ではこれは「平等か差異か」問題と呼ばれました。あくまで「男女に差は無い、あっても大きなものではない」と主張することで「平等」を求めるべきなのか(平等派)、逆に差があることを認めた上で、ちょうど第一波フェミニズムの中にあったように「男性と女性にはそれぞれ違う役割があって、その役割を果たすためにこそ平等が必要なんです」と言うべきなのか(差異派)。これを読んでいるみなさんはどのように考えるでしょうか。
さて、ここでようやく「フェミニズムは『男並み平等』を求めるのではない」という考えについてです。実はこの考えが示しているのは、一言でまとめれば、「平等か差異か」という問いの前提自体を批判していく、という方向性です。「公的領域に女性も参加する権利を持つことが平等」という発想でいる限り、どこかで「でもやっぱり男性と女性は違うのでは」という「平等か差異か」問題にぶつかります。けれど、そんな問題を産みだしてしまうような「平等」についての考え方が、そもそもおかしいのではないか*3。「平等」についての考え方に歪みがあるのではないか。そう考えて、「男並み平等」の発想を批判していった議論の代表格が、第二波フェミニズムの「公私二元論」批判でした。
公私二元論の批判
「公私二元論」とは、フェミニズムの議論の文脈では、「公的領域(政治・経済)/私的領域(家庭)」という区別のもとで、公的領域での平等を重視する考え方のことを指します。「男並み平等」はまさにそういう考え方で、「平等か差異か」の問題はそこから生まれてくるものでした。それに対して「公私二元論」批判の基本的な考え方は次のようなものです。そもそも「公的領域/私的領域」という区別は、前者を男性に、後者を女性に割り振るような考え方のもとで成立している。だから、その割り振り方をそのままにしておいて、「男性」基準でできあがっている「公的領域」に女性を参加させ、そこで「男性と差が無い」ことを証明せよと女性に求めるという「平等」の問題設定自体が、そもそもおかしいのではないか。
マルクス主義フェミニズムと家事労働論
具体的問題にもとづいて考えるのがよいでしょう。たとえばマルクス主義フェミニズムが問題にしたのは「家事労働」でした。マルクス主義フェミニズムというのは、名前のとおりマルクス主義の立場から、女性の抑圧の物質的(モノの生産にかかわる)基盤を理論化しようとした思想です。日本でもっとも有名であろうフェミニストの上野千鶴子さんも、元々はマルクス主義フェミニズムの理論家ですね。
家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)
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「労働」といって多くの人が思い浮かべるのは、モノを作って売ったり、あるいは誰かに雇われて働いて賃金をもらったりすることでしょう。では、女性が家庭でやっている「家事」は果たして「労働」なのでしょうか。マルクス主義フェミニズムは「労働だ」と主張しました。それは直接売るモノを作ったり、誰かに雇われておこなっていることではないけれど、売るモノを作ったり企業につとめたりする男性労働者たちの日々の生活(食事や身の周りの世話)を支え、次世代の労働力(子ども)を育てているという点において、「労働力を作り出す労働」なのだと。マリアローザ・ダラコスタというイタリアのマルクス主義フェミニストは、『家事労働に賃金を』とまで主張しました。
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実際に賃金を支払うべきかどうかはともあれ、「家事は労働だ」というこの考えの重要性は、「男性労働者が外で働く」ことが、実は家庭で女性がやっていることに依存して成立しているものであることを示した点にあります。ご飯を作って栄養摂取をしたり、掃除をして住環境を快適に保ったり、洗濯して清潔な衣服を用意したりする活動なしには、「朝起きて働きに行って場合によっては遅くまで働いて帰ってきてまた次の日働きに行く」ことを(少なくとも健康的な形で)続けることは難しいでしょう。次世代の育成が「家事労働」なしに不可能なのは言うまでもありません。
さて、男性の労働が女性の家庭での「労働」に依存して成立しているとするならば、「女性も男性と同じように働けるように雇用の平等を求める」ことが、それだけではうまくいかないことはあきらかではないでしょうか。だって、女性が男性と同じように賃金労働をできるようになったとして、そこでは賃金労働を成立させるのに必要な「家事労働」は誰がするのでしょうか。「家事育児は女がやること」とされている社会では、当然女性がやるのです。そうすると女性は、賃金労働と家事労働という二重の労働を背負うことになり、結局賃金労働の領域では不利な立場に置かれたままになってしまいます*4。この問題をどうにかしようと思うなら、単なる「雇用の平等」ではなく、「女性が家事労働をやっているがゆえに成立する男性の働き方を前提とした雇用のあり方」自体を変えていかなくてはなりません。そのためには、「男は仕事、女は家事育児」という性別分業規範を変えていかなければなりません。要するに、「公私」の線引きのありかたが変わらなければならないのです。
ラディカル・フェミニズムと性支配論
「公的領域における平等」という問題設定の歪みをあきらかにしたのが家事労働論だとすれば、その問題設定では「私的領域がすでに不平等であることが見落とされる」という方向性で公私二元論批判を展開したのがラディカル・フェミニズムの性支配論でした。ラディカル・フェミニズムというのは、NOWよりも少しあとで、公民権運動やベトナム反戦運動などに参加していた女性たちが左翼運動の中の性差別に抗議する中で起こした運動です。思想的には女性の抑圧の原因を男性と女性の関係のありかたそのものに求めた点に特徴があります。比較的小規模ないくつもの団体がそれぞれ活動をおこない、話し合いを通じて女性たち自身も身につけている支配的な性別規範を脱して新たなアイデンティティと人間関係を確立しようとする「コンシャスネス・レイジング(意識変革・意識高揚)」運動などがおこなわれました。「家父長制」という、フェミニズム理論にとって重要な概念もラディカル・フェミニズムの中で生まれたもので、ケイト・ミレットが『性の政治学』の中で、支配的な男女関係のありかたにつけた名前です。
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ラディカル・フェミニズムは男女関係の中に支配関係があると考えるので、しばしば男女の差異を極大化する「差異派」の主張に引っ張られることもありましたが、「私的な」関係の中の不平等を訴える視点は、DV、セクハラ、性暴力などの問題の告発をとおして、公私二元論への鋭い批判を産み出していきました。
女性の抑圧の根本が支配的な男女関係にあると考えると、一般にプライベートなものだとみなされる男女間の性関係はきわめて「政治的」な問題を含むものに見えてきます。たとえばDVについて考えてみましょう。DVは家庭という私的領域で、夫婦関係という人間関係の中で起こります。ところが、近代法の伝統的な枠組みでは、私的領域は各人の「自由な」領域であり、法が立ち入るべきではない領域だと考えられていました。特に家庭については「法は家庭に入らず」という格言もあるくらいです。そうすると、たくさんの女性が夫から殴られていても、「法はプライバシーには介入しないよ」と、ほうっておかれることになってしまいます。女性のほうが暴力の被害と危険にさらされているという「不平等」は、「公的領域における平等」という問題設定では捉えられないどころか、「私的領域は各人の自由な領域だから」ということで積極的に放置されすらされてしまうのです(たとえばキャサリン・マッキノンは『フェミニズム・アンモディファイド(邦題:フェミニズムと表現の自由)』の中で、中絶、レイプ、DVの問題に触れながら「プライバシーの権利」がいかに不平等を覆い隠すかについて論じています)。
- 作者: キャサリン・A.マッキノン,Catharine A. MacKinnon,奥田暁子,鈴木みどり,加藤春恵子,山崎美佳子
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「個人的なことは政治的である」というラディカル・フェミニズムの有名なスローガンは、このように、何が公的な問題で何がそうではないのかという線引きのうちに「女性の問題」を軽視する視点が含まれているのだということを訴えるものでした。
こうした問題をどうにかしようと思うならは、やはり「公私」の線引き自体が見直されなければなりません。DV被害者を救うためには、法を家庭という私的領域に介入させなければならず、そのためには女性が被っている被害がもはや「プライベートな問題」ではないことを認めさせなければならず、そのためには結局「夫婦関係」についての社会の考え方を変えることが必要になるのです。
「男並み」ではない「平等」に向けて
こうして、「公的領域における平等」を求めるのでは、一方で公的領域自体が男性に有利なように作られていることを見逃し、他方で私的領域において生じている不平等を見逃してしまうという点において、結局のところ「平等」を達成することはできそうもありません。似たようなことは、実はセクハラ、性暴力、中絶の権利、育児や介護などのケア労働、ポルノグラフィ、性労働など、さまざまな問題について考えることができ、実際第二波以降のフェミニズムでは中心的なトピックとなっていきました*5。
では、「男並み平等」を求めるのでないとしたら、フェミニズムが求める「平等」は具体的にはどのようなものなのでしょうか。最初に述べたとおり、これはとても難しい問題で、教科書的に解説できるような答えはありません。ただ、歴史から私たちが確実に学ぶことができることが二つあります。ひとつは、「男性と同じように女性も政治や経済に参加する」「プライベートな関係では自由を尊重する」といったイメージには危うさがあり、私たちはもう単純にそのイメージには頼れないということ。そしてもう一つは、その危うさに敏感になるためには、「すべての人に人権を」というようなお題目で満足するのではなく、むしろ「すべての人に人権を」をというときにこそ、そこに偏った前提がないかを偏った前提によって不利な立場に置かれる人の視点で考えること、そうした人たちの言葉には特に耳を傾けるべき理由があると知っておくことが必要だということです。
「固有の経験」の重要さ
このことは、フェミニズムの中にある偏りや、他のマイノリティ問題との関係を考える上でも重要な意味を持ちます。「雇用の平等を」と言えるのは白人中産階級の専門職の女性で、そこには低賃金で(しばしば白人女性の労働市場参加を支えるハウスメイドとして)働く非白人女性の視点はありませんでした。同様に「男女の性関係に不平等がある」と言うときの視点は、あくまで異性愛の女性のものでした。要するに、非白人フェミニストやセクシュアル・マイノリティ運動からの批判は、フェミニズムが「平等」を語るとき、その前提に偏りがあるのではないかという問いを突きつけるものだったのです。
だから、「平等」について真面目に語ろうとするなら、重要なのは「特定の(とりわけ歴史的に抑圧されてきた)属性を持つ立場の人の経験」に十分に敏感であろうとすることで、簡単に「すべての人にとって…」と語ることは逆に危険です。実際、第二波の後のフェミニズムが思想的に取り組んでいるのは、人種、階級、セクシュアリティ、文化、宗教などの観点からの女性の多様性に配慮しつつ、同時に「女性の問題」を語ることだと言えるでしょう。もちろん性や人種や階級やセクシュアリティが同じでも、皆が同じ経験を持つわけではありません。けれどだからといってそうした属性について考えるのをやめてしまえば、現在の「平等」についての考え方のどこに偏りがあるのかを考える手掛かりは失われてしまいます。だから、「平等」ってどういうことだろうと考えるのは、「特定の人にとって」と「すべてのひとにとって」のあいだを、いったりきたりしながら考えることなのです。
制度的浸透
他方、現在では制度的にも、DVへの介入、セクシュアル・ハラスメントの禁止、強姦法の改正、ワーク・ライフ・バランス、(女性の労働参加と男性の家事育児参加のための)ポジティブ・アクションなど、単なる「公的領域における差別の禁止」を超えた、さまざまな政策が現実におこなわれるようになっています。
もちろん、政策の水準では、既存の法的な枠組みとの一貫性は鋭く問題になります。たとえば女性の政治・経済参加を促すためのポジティブ・アクションをおこなうには、どのような取り組みなら男性に対する差別にならないかを考えなければなりません。DVの被害を防ぐために加害者が住居に近づくことを禁止することは、加害者の財産権と衝突します。性暴力裁判において女性が二次被害にあわないよう証拠に制限をかけることは、被告人が公正な裁判を受ける権利と衝突するかもしれません。また、ポルノグラフィと性表現規制の問題は、比較的既存の枠組みとの調整がまだあまりうまくいっていないトピックでしょう。
それでも、そうした政策がまったくなかった時代に戻ることはもはや考えられない以上、私たちはすでに第二波フェミニズムの問題提起がかなりの程度まで「常識」となった社会を生きており、その中で「平等」ってどういうことだろう、と考え続けているのです*6。
おわりに
さて、ここまでくれば、「平等である」こと(同様に「自由である」「人権が守られている」といったこと)というのがどういうことなのか、実のところまったく解決済みの問題ではないということがわかるのではないでしょうか。私たちはまだ当分のあいだ(あるいは今後もずっと)、自由や平等といった概念を頼りにしつつも、同時にいま自由や平等だと考えられていることの中にある偏りを指摘しながら、自由や平等がどういうものか自体を更新する作業をしていかざるをえないでしょう。そしてそのためには、性別はもちろん、人種、階級、エスニシティ、セクシュアリティといったさまざまな属性に「関係のある」問題をこそ、考えなければならないのです。
ブックガイド
フェミニズムのおおまかな歴史や分類について知りたい、という人にはさしあたり以下を。
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概説フェミニズム思想史―明日にむかって学ぶ歴史 (シリーズ女・あすに生きる)
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- 作者: ヴァレリー・ブライソン,江原由美子
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- 作者: 吉原令子
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ここでは日本独自の事情については触れられませんでしたが、日本における第二波フェミニズムはなんといっても1970年代のウーマンリブです。その後、85年に均等法、99年に男女共同参画社会基本法、2001年にDV防止法ができています。ただ、こうした流れと日本におけるフェミニズム運動の関係をどう捉えるべきかについてはまた別の議論が必要でしょう。
- 作者: 天野正子
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女性たちが変えたDV法―国会が「当事者」に門を開いた365日
- 作者: DV法を改正しよう全国ネットワーク
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ネットで読めるものには牟田さんの論文もありますね。
牟田和恵,2006,「フェミニズムの歴史からみる社会運動の可能性」『社会学評論』57(2).
概説じゃなくてフェミニズムの思想書・理論書を読んでみたい!でも大変そうだから読みたくない!という人にはこれがおすすめです。1冊で50冊も読んだ気になれます。
- 作者: 江原由美子,金井淑子
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*1:たとえば、「男女平等」という表現が日本社会でいかに受け入れられづらいものかは、「雇用平等法」が「雇用機会均等法」になったことや、英語だとgender equality lawすなわち「男女平等法」という名前の法律が日本語だと「男女共同参画社会基本法」という複雑な名前で呼ばれていることなどからも察することができるでしょう。
*2:もちろん実際には、第一波フェミニズムの思想もリベラル・フェミニズムの思想もさまざまな要素を含んでおり、あとで見るようなマルクス主義・フェミニズムやラディカル・フェミニズムと通底するような考え方も見られます。その意味ではフェミニズムは最初から「男並み平等」を求める思想ではなかったとも言えるかもしれません。また、リベラル・フェミニズムについても、80年代以降はジョン・ロールズ以降のいわゆる平等主義的なリベラリズムの視点を取り入れることで、第二波フェミニズムの問題提起を包摂する理論が模索されています。ですから、ここでの区別はあくまで便宜的なものだと考えておいてください。
*3:「平等か差異か」という問いへの批判として日本で有名な論文に、江原由美子「性別カテゴリーと平等要求」があります。『フェミニズムと権力作用』という本に入っています。
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*4:これは「仕事と子育ての両立」を進めようとしてきた日本が、ずっと抱えてきた問題でもありました。萩原久美子さんの『迷走する両立視点』は、男性基準の働き方のもとで「仕事も家庭も」と女性が求められることの苦しさと理不尽さを、生々しく伝えています。
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*5:たとえばセクハラは、男性労働者がデフォルトの職場では女性労働者の役割は男性を楽しませる「華」として地位も賃金も低いものとなり、その上下関係のもとで生じる性的侵害が「個人的な恋愛のトラブル」だとされてしまうという、複合的な問題として見えてくるでしょう
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*6:DVやセクハラ、性暴力については最近は男性の被害者の問題も認識されるようになってきています。だから「セクハラやDVは人権問題だし、フェミニズムとか関係ない」と言いたくなる人もいるかもしれません。けれど、いまの私たちが「セクハラやDVは人権問題だ」と思えるのは、疑いなく、「私的な問題」とされていた事柄のなかに公的な問題があるということを訴えたフェミニズム運動の成果の上でのことです。だから、「人権を求めるのに性別は関係ない」と言ってフェミニズムを批判するのは、自分がフェミニズムの成果にタダ乗りしていることに気づかない滑稽なふるまいなのです。
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- 1 http://b.hatena.ne.jp/entrylist
- 1 http://b.hatena.ne.jp/entrylist/social/LGBT・ジェンダー