大本柏分苑のブログを見ていると出口榮二が毛沢東派共産主義者の周恩来と会合した際での出来事がアップされていた。ここに紹介しておきたい。彼らがいかに共産主義であるかが垣間見られるものである。かねてから、大本信徒連合会機関紙「愛善世界」は真っ赤っかと同会信徒から言われていた。
《周恩来と日本の宗教教団》
<有吉佐和子の突然の死>
1984年、周楊が壇上で挨拶をしている時、有吉佐和子は周楊に向かって声を上げて手を振りました。たぶん彼女はその時、とてもハイな躁状態だったのでしょう。それから3ケ月余り、彼女は黄泉の国へ旅立ちました。享年53歳。余りにも若い才女の死でした。
有吉は睡眠薬を常習し躁鬱状態がひどかったようです。一時、自殺ではなかったのかと言われた不審死は、過剰な睡眠薬の飲み過ぎだったかもしれません。とても惜しい死でした。有吉は周楊らの中国文学者と親しいだけでなく、日中国交回復以前から貢献をしていました。そこで周恩来総理の日本の大衆文化への思いを明らかにしたいと思います。
<周恩来首相の日本への関心>
周恩来はかつて日本に留学しており、深い関心を寄せており、日本との国交回復を一日も早く実現したいと思っていました。日本の歴代保守政権はアメリカに追随し、中国敵視政策を取っていました。政府間レベルの正常化が望めない時代、民間交流こそが大事でした(中国語で以民促官)。民間の交流活動で政府・官界レベルに国交回復を促す必要がありました。そして周恩来は、日本の大衆的な動き、大衆の心をとらえていた日本の宗教教団、とりわけ創価学会に強い関心を持っていました。
新興宗教とも呼ばれる民衆宗教が、明治維新以降いくつか生まれました。長い間の幕藩体制が崩壊し、新たな時代の変わり目、激しい変革期、未来を見通せない庶民達がどう対応するか、無意識のうちにも新たな指針を求めていました。そして庶民達の声を己の身体で聞き取る能力を持つ、教祖的な人物を多く輩出しました。シャーマンのような存在、それが天理教の中山ミキであり、大本の出口なおらの女性でした。出口なおは無学文盲ながら、たくさんの子供を育て家族を切り盛りしました。たびたび予言めいた事を口走り、牢屋へ入れられ、ある日、神がかり(憑依現象)があります。
どこからともなく筆を持てという声に驚きながら、出口なおは筆を持ち、筆先と呼ばれる書き付けを始めました。フロイトがいう自動書記現象です。書き付けたものを判読できず、後年出口王仁三郎が明らかにします。日本の近代化への疑問、富国強兵に対する批判、西欧文明に追随する日本に対する強烈なアンチテーゼの内容でした。ちなみに出口王仁三郎は、後年エスペラントの意義を認めて大本教団にエスペラントを導入しました。2016年4月に亡くなった一橋大学の安丸良夫氏著の<出口なお>では魅力ある預言者の面のみならず、日本の底辺に生きる勤勉で実直な庶民の女の生涯を明らかにしてます。この本が刊行された1976年以前から、当方は出口なおの思想に魅せられていました。カウンターカルチャーの動きや反文明的な思想や生き方に関心を持ち、同世代の若い大本のエスペランティストや人類愛善協会(亀岡市)が発行する月刊の人類愛善新聞の記者と親しくなりました。鶴見俊輔氏が<今、人類愛善新聞が一番面白い>と言ってました。民衆宗教に深い理解を示していた鶴見氏は、教祖には人を縛る人と縛らない人がいるが、出口王仁三郎は人を縛らない教祖だと高い評価を与えていました。その人類愛善新聞に当方は毎月原稿を送るようになりました。
当時の時代や世相の流れに抗して異議を提起し活動する人達に焦点を当て、無農薬野菜を販売する長本商会や水俣病患者を支援する<甘夏広場>の若い人達、ヘルプ・バングラデッシュ・コミッティーなどを取材して原稿を書くうち、ますます<反時代的な生き方>に共感を持ち、単身、東京を離れて縁多い綾部市に移りました。
その綾部で出口栄二先生に出会いました。先生は実は周恩来と因縁浅からぬ人物なのです。栄二先生は王仁三郎に乞われ、大本4代教主になる直美さんの夫になります。代々教主は女であるぞよという開祖、出口なおの言葉に従い、大本教団の教主は、長女が継承することになっています。4代目教主の夫になることは、教主を補佐する重要な役割を担います。栄二先生は、大本の世界平和精神を広め、活動する為に積極的に行動し、東京・杉並の婦人達が立ち上がった前から、原水爆実験禁止の署名活動を全国的に展開し、<大本ここにあり>という大衆運動を行い、1960年の反安保闘争では、宗教界の先頭に立って活動されました。1962年、栄二先生はモスクワの世界宗教者会議に出席され、中国仏教協会の趙樸初氏に出会います。趙樸初氏は1936年より抗日救亡運動に参加、中国仏教協会の発足に貢献され、会長に就任し周恩来総理から信頼を得ていた人物でした。
<北京に来ませんか、御招待します>と言われ、当時40歳の若い栄二先生は国交が回復していない北京にモスクワから入国しました。北京に到着後、どのような方とお会いしたいかと訊ねられ、<毛沢東主席か周恩来総理にお会いしたい>と答えたところ、ある日<周恩来総理がお会いします>と回答がありました。7月26日対談が行われ、大本について、特に戦前2度も、天皇制国家権力から徹底的に弾圧を受けた歴史を周恩来総理に話すと、総理は傍に居た記者達に<もっと大本を中国に紹介しなさい>と語りました。
この対談の模様は人民日報に写真入りで掲載され、月刊の人民中国(日本語版、エスペラント版など)にも写真入りで記事になりました。周恩来総理が日本の宗教界の動きに敏感だったわけです。
公明党が結党された創価学会にも注目しており、有𠮷佐和子は少なからぬ役割を果たしていました。
大本柏分苑が周恩来と出口榮二の会合をこのように宣伝するのは出口榮二自身が事あるごとに自己の講演会でこの話をするからである。つまり、大本信徒連合会にとって出口榮二訪中の出来事はごく当たり前の宣伝文句だったわけで当時の中国情勢を理解して考察するなどほぼなかったに等しい。
毛沢東が完全に中国政府を牛耳る前、劉少奇、小平と毛沢東とその右腕である周恩来の間では政治的な暗闘が続けられていた。劉少奇は中国国内での核開発に対しては否定的で中国経済の発展と拡大政策を推奨した人物で旧ソ連の核の傘の中に中国も入るというフルシチョフの提案を受け入れる意向を示していた。核開発は巨額の軍事費が必要で著しく国力を疲弊させると判断していたのである。これに対して激怒したのが毛沢東。毛沢東は核開発こそが欧米列強に対して中国が対等に渡り合えると確信していたので自国での核開発は絶対必要不可欠と判断していたのだ。また、旧ソ連の核の傘とは中国に核を作らせないというフルシチョフの牽制でもあった。そのことを察知していた毛沢東はフルシチョフの提案に対して荒々しく激昂したのである。
核開発、これは毛沢東の野望だった。
結果、毛沢東は文化大革命の際、反対勢力であった劉少奇に対し、紅衛兵を使って粛清するのである。その陣頭指揮をとっていたのは周恩来であった。
中国の核開発について、日本の軍事評論家は当初、あんな国に核は作れないなどと言って中国を侮る発言が多かった。しかし、中国共産党は核開発に成功し今や夥しい数の核ミサイルがこの日本に向けられている。その中心人物こそが毛沢東、周恩来である。
出口王仁三郎は霊界物語において次のように語っている。
◯霊界物語第57巻 第1章 大山
カクダカー・トヤーヤナ、この外道はバンロギズム(汎理論)、スピリチュアリスチック・バンセイズム(唯心的汎神論)だとか、バンフシギズム(汎心論)だとか、アーセイズム(無神論)だとか、ブルラリズム(多元論)だとか、モニズム(一元論)だとか或はソシアリズム(社会主義)アナーキズム(無政府主義)だとか、ニヒリズム(虚無主義)だとか、コンミュニズム(共産主義)だとか、種々雑多の利己的、形体的、自然的、世界的愛に対して意見を盛に主張し、無形の霊界に対して一瞥も呉れず、且霊界や神仏を無視しながらも、現界に於ても徹底する能はず、霊界に於ては等閑ながらも、或時は些しく霊界の存在を認めて見たり、或時は現界計りに執着したり、精神の帰着点を失ふたり、二途不摂の異見外道である。
出口王仁三郎は共産主義など元から認めてはいない。それをこの大本柏分苑は共産主義を認める発言をしていることに留意したい。彼は出口榮二派だ。そもそもあのブログ自体、出口榮二の講演録をアップしたいがために始めたのだそうだ。
出口榮二は中国から帰国後、殊更、共産主義を支持する発言を繰り返した。そのため、大本本部から危険視されたために教団を追放されたのである。それを不服とした出口榮二は裁判に訴えるが当時、共産主義をある種の脅威と捉えていた日本であったから大本本部のとった措置は当然のことだったのだ。
今、現在において中国の核ミサイルが日本に向けられている現実を出口榮二は分かっていた。中国国交回復後、文化大革命で1000万人規模の中国人が虐殺され、粛清された出来事も出口榮二は知っていたのである。にも関わらず榮二は毛沢東派共産主義者周恩来を死ぬまで支持していた。
大本信徒連合会は四代の道統継承者を出口直美として現在でもその正統性を主張しているが実際は道統を誰が継承するのかなど問題ではない。何せ、その正統道統継承者が赤化したのだから。直美は榮二の共産主義寄りの発言を制止したことはあったようだが根本的に否定してかかったわけではない。
赤化した榮二を容認したのが出口直美なのだ。
◯大本教団の教主は、長女が継承することになっています。
大本柏分苑の説明では↑このような表現がされているが二代出口澄は出口直の末娘である。なぜ、こういう間違った認識がされるのか甚だ疑問だ。
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