西洋人の神道理解
ハーン、タウト、マルローの場合
遠田 勝(神戸大学助教授)
私たち日本人にはごく身近な神道という信仰も、外国の人々―とりわけキリスト教やイスラム教という厳格な一神教を信じる人々には、ひじょうに理解しにくい宗教のようです。今でもそうなのですから、これが明治となりますと、日本についての情報や研究も少なく、また神道そのものが国政上の理由から急速に変貌していましたので、当時、来日していた欧米人のあいだで、その評価に関してさまざまな議論というか食い違いが生じたのも無理からぬことでした。
ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲が、明治二十三(一八九〇)年にこの松江の町に来て、まず驚いたのも、古代の原始宗教だとばかり思っていた神道が、町中の生活にどっかりと根づき、息づいていることでした。そしてそれ以上に驚いたのは、日本に住む西洋人が誰一人としてこの信仰を真面目に取り上げようとしないことでした。それは、神道が学問的に無視されていたという意味ではありません。
たとえばハーンの親友であり、日本の国語学の父といわれるバジル・ホール・チェンバレンは、神道についての権威であり、ハーンが来日する八年も前の明治十五(一八八二)年に『古事記』の英訳を刊行していました。近代日本学のもう一人の立役者であるアーネスト・サトウは、早くも明治十一年から十四年にかけて、あしかけ四年にわたり『延喜式』に載る祝詞の詳細な注釈を『日本アジア協会紀要』に発表していました。またイギリス公使館でサトウの同僚であったウィリアム・アストンもまた、やや遅れて明治二十九(一八九六)年に『日本書紀』を翻訳しています。
したがって神道は、西洋の研究者に黙殺されていたわけでもなく、忘れられていたわけでもありません。むしろ、イギリスの三大ジャパノロジストと讃えられるチェンバレン、サトウ、アストンが皆、神道研究に偉大な足跡を残していることからも察せられるように、初め神道は彼らの注目の的だったのです。そして充分、研究しつくされたうえで、骨董―いや、なんの価値もないがらくたとして、捨て去られたというのが当時の実情だと思います。
チェンバレンは彼の主著である『日本事物誌』のなかでこう述べています。
神道は、しばしば宗教と見なされることが多いが、ほとんどその名に値しない。体系的な教義もなければ、聖書もなく、道徳さえも欠いている。……神道はいわば根無し草で、その中には何もないから、人々の心を捉えることができない。……
宗教としての神道の評価に関しては、サトウもアストンもまったく同意見で、またこれは横浜の商人や東京の外交官、キリスト教宣教師などからなる日本アジア協会を代表する意見でもありました。
ハーンが松江に来たのは、まさに神道がこうした厳しい評価によって西洋人の目から覆い隠されようとしていた時でした。彼はすぐに出雲大社に参拝し、そうした偏見としか言いようのない神道蔑視に対抗し、「杵築(きづき)―日本最古の神社」という作品を書き上げたのです。ハーンは、チェンバレンの書き様をそのまま用いながら、評価だけを完全に逆転させました。
神道には哲学も無ければ、倫理も無い。また形而上学も欠いている。しかし、そのまさしく「無いこと」によって西洋の宗教思想の侵略に抵抗できた。これは東洋のいかなる宗教もなしえなかったことである。
チェンバレンと同じく、ハーンもまた、神道には宗教としての大切な要素がいくつか欠けていることは認めたのです。しかし、それゆえに根無し草でからっぽで、人々の心を捉えられないとは考えませんでした。なぜならハーンはこの松江で、神道が人々の心を捉えている―年老いたお百姓から当時のエリートである松江中学の学生の心までも捉えているのを、その目でありありと見てしまったからです。しかし宗教として必須の要素の「無いこと」が、なぜ宗教としての致命的弱点にならずに、強みとなるのでしょう。ハーンはこの点をあまり詳しく説明していません。ただ、皆さんは、私同様、宗教の教養についての抽象的なややこしい議論は、あまりお好きではないでしょうから、この問題を別な角度から一つに絞って考えてみようと思います。つまり、ハーンはなぜ杵築で神道をこれほど高く評価するようになったのか、出雲大社でいったい何を見たのかという疑問です。
かりに神道の特徴が、宗教の様々な要素が「無いこと」だとしても、杵築にはただ一つ、はっきりと目に見えるものが、存在していました―それは出雲大社という建物そのものです。そしてもし神道にチェンバレンがいうように教義も道徳も聖書も欠けているとしたら、ハーンは神社を通して日本の神々を知ったに違いありません。神社は神道の謎を解く最大の鍵なのかもしれません。チェンバレンやその他の学者が神道を理解できなかったのも、彼らが神社で何かを見逃してしまった―何か神道の理解に決定的に大切なものを見逃したからではないでしょうか。
明治五(一八七二)年、アーネスト・サトウは杵築と並ぶ神道の聖地、伊勢を訪ね、「伊勢の神道の社」という論文の中に神宮の印象をこう記しています。
神社の建築は古代の掘ったて小屋に由来している。……伊勢神宮の二つの神社に付属するすべての建物はみなこの様式に従って建てられていて、その単純さと脆弱性には失望の念を禁じえない。
サトウにとって伊勢神宮は何の美しさもない腐りやすい大きな丸太小屋にすぎませんでした。チェンバレンも『日本事物誌』でこう言っています。
日本の歴史と宗教を学ぶ者にとって、伊勢は磁石のように心ひかれる言葉である。しかし一般の観光客がわざわざこの神道の宮を訪ねて得るものがあるかといえば、大いに疑わしい。神道は頑なに厳格な建築的単純性に固執している。―繪の白木、茅葺きの屋根、彫刻もなく、絵もなく、神像もない、あるのはとてつもない古さだけ、それでさえ建物自体ではなく、歴史的連続性という意味で古さである。……二つの神社は……二十年おきにまったく同じ様式で建て直されている。
これは一応は普通の観光客への注意だと断ってあります。しかしこの書き方は、前に引用した彼の神道批判とそっくりであることにご注意ください。とくに伊勢神宮に欠けるものだけを列挙していき、そこに在るものにはかえって注意を払わないという点が、実によく似ています。
明らかに伊勢神宮で失望したのは、無学な観光客ではなくて、著者のチェンバレン自身なのです。そのために彼はこの警告を繰り返し書き続けます。彼のもう一つの著書『日本旅行案内』から引用しましょう。
一言ご注意申し上げるが、伊勢への旅は、好古趣味をもたれぬ方には、おすすめできない。ある旅行家は、すっかり失望して「見るものなど何もないし、だいいち何も見せてくれない」とこぼしたが、そこまでいわなくとも、神道の建築様式が驚くほど簡素であることは、心に留めておいてほしい。