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明治6年1月は太陽暦(新暦)が最初に施行された年である。5年12月は1日と2日しかなく、翌日はもう元旦だった。それまで使われていた太陰暦(旧暦)は廃止された。したがって、この年6月は、本来ならば梅雨の最中だったはずだが、九州は雨が一滴も降らない異常気象となった。たんぼの土はひび割れ、田植えの時節だというのに水がない。多くの農民がお宮に籠って雨乞に努めた。
その頃の福岡県は、現在と違い、筑後は三瀦県、豊前は小倉県と言い、旧福岡藩領・秋月藩領に当たる筑前地域だけが福岡県であった。その福岡県の東端、嘉麻郡(現在の嘉穂郡の一部)高倉村日吉神社で雨乞をしていた人々が、小倉県との境にある金国山で昼は紅白の旗を振り、夜は火を焚いて合図をしている者があるのを知って、抗議に押し掛けた。これは「目取り」と言って、米相場の高低を山伝いに連絡して一儲けしようという連中だった。
これをきっかけに、筑前全域を舞台に2週間近くに及んだ筑前竹槍一揆が起こるのである。きっかけは金国山の出来事に過ぎなかったが、一揆が筑前全域へと広がったのは、底流として民衆の間に政府への強い不満があったことが考えられる。 |
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この前後、西日本各地に同じような大規模な一揆が起こっていた。太陽暦もそうだが、政府は矢継ぎ早に欧米にならった近代化を推し進めた。廃藩置県・地租改正・断髪令・徴兵令…。 神仏分離政策により、路傍の神仏を撤去し、時には合祀したり、神号を変更したりと、それまで民衆の慣れ親しんだ世界が上からの改革で、うむを言わさず変更されていった。民衆の多くが、これからの生活に不安を覚え、政府に不信感を抱いたとしても無理はない。一揆は、政府の進めた文明開化政策のありとあらゆる出来事を、廃止の対象として数え上げた。
一揆はほぼ4つのグル-プを作って行動した。東から、南から、西から、それぞれ福岡県庁のある福岡城へと向かった。御笠郡は南から来た朝倉地方の一揆勢に加わっていたが、このグル-プは北上して板付まで行ったところで、説得されてUタ-ンしたとされる。その他、早良郡で活動した一揆もあった。一揆勢には全体を見通す司令部があったわけではなく、当時の通信手段のもとで、相互の連携など取れるはずもなかった。 |